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第六話 裏 旅立ちの朝 前


 かつて、女神オルフェナは神の座を離れ、旅に出た。


 女神は五つの翼に五つの叡知、即ち真理、正義、奇跡、運命、探求を託し、五つの方舟を抱きて星の海を行く。

 

 永き旅の途上にありて、天より墜つる火の星が正義の翼を焼き、方舟もまた、闇へと沈んだ。


 女神は深くその胸を痛め、涙し、残された翼と方舟をその身に宿してなお旅を続けた。


 果たして女神オルフェナは悠久の旅の果てにこの地、ネビュラへと降り立ち、奇跡の翼を羽ばたかせた。


 すると地に、空に、海にアニマが溢れ、大地は息吹を得て、万の命が芽吹いた。

 次に、アニマ満ち足りし地に方舟より神の民が降り立ち、十二の氏族となりて大地を統べた。


 斯くしてネビュラは第二の神の国、女神に祝福されし永遠の楽園とならん。



「――『ネビュラ創世神話』、か」

 手に持っていた本を閉じてベッドの上に置く。


 温泉から戻った景真は、どうにも寝付けず部屋にある書棚を漁っていた。

 何かに呼ばれるように一冊を手に取りランプの揺らめく明かりを頼りに読んでみたが、冒頭部分を読むだけで目が疲れてしまった。


 そこに記された”神話”は正に形而上の事に見えた。

 人が己の理解を超えた事象や存在に納得し、死の恐怖を紛らわせるために生み出した”信仰”。その教典そのものだ。

 

 しかしその巨大なスケールの中に、どこか肌を這い上がるような生々しさを覚える。

 “神話”が足元を侵蝕しているような感覚を伴って。

 

「オルフェナ……教団施設で見た女神像と同じ名だ。じゃあ星雲救世会はネビュラの宗教組織なのか?」

 名前のみならず五枚の翼のモチーフも共通している以上、無関係という事はあり得ないだろう。

 

 ごろんと大の字に寝転がる。

 ランプの灯が、掲げた手のひらの影を天井に映し出す。

 

 だとすればいよいよ、教団はネビュラとオービスを行き来している可能性は高い。

 そこにきっと、帰る手段が存在するはずだ。

 春華の手掛かりも……


 ――瞼が落ち、巡る思考を生暖かい睡魔が飲み込んでいく。

 

 意識が闇に落ちるその間際、遠く、何者かの呼び声を聞いた。

 



 隙間風がカーテンを揺らすたび、朝の冷たい光が部屋に差し込む。

 その眩しさと、微かに寒さを感じ目を覚ます。昨夜はあのまま布団もかけず寝てしまったようだ。

 カーテンをめくると、周囲は朝日に染まった(もや)の中に沈んでいる。

 日はまだ低く、昇り始めたばかりのようだ。

 スマートフォンで集会所の時計に合わせた時間を確認すると、午前五時を回ったところだった。

 画面の右上に目をやると、バッテリーアイコンは変わらず100パーセントを示している。

 もう一眠りするつもりで横になると、ドアの外から物音がした。

 耳を澄ますと、ドアが開く音がしそれに続いて軽やかな足音が廊下を遠ざかっていく。

 コハクはもう起きたのだろうか。

 

 昨日は起きた時にはもう朝食の支度が整っていた。

 ならば、居候の身で呑気に寝ているわけにもいくまいと思い身を起こす。

 廊下に出て、食卓のある居間に入ると景真が来ることにすでに気づいていたように琥珀色の瞳がこちらに向けられていた。

 あの大きな耳は見た目通り、かなりの高性能らしい。

 

「おはようケーマ。もう起きたんだ」

 その声色には微塵の眠気も乗ってはいない。

 朝日と共に目覚めるのが彼女の日常なのだろう。

「おはよう。コハク、なんか手伝える事はないか?」

 そう聞くと、少し考える様子を見せる。

「――じゃあ、薪を取ってきて。 外にあるけど場所は分かる?」

「ああ、大丈夫。取ってくる」

 家の外壁に取り付けられた棚に薪が積まれているのは昨日見ていたので、迷いなく答える。

 

 家を出ると、朝の澄んだ空気が出迎えた。

 胸いっぱいに吸い込むと、脳に酸素が行き渡るようだった。

 昨日も聞いた鳥の鳴き声が頭上を行き来している。

 朝露に濡れた葉が朝日を受けて煌めき、そよ風が木々を揺らすとそれを土に染み込ませていく。

 

 木棚に高々と積まれた薪には朝露を避けるために厚手の布が被せてあるが、それでもほんのり湿っていた。

 その中から、なるべく乾いている物を数本見繕って抱えると家に戻る。

「こんなもんで足りるか?」

 厨房に立ち、昨日市場で仕入れた食材を調理するコハクに尋ねる。

 コハクは景真の抱える薪を確認すると、その傍にある竈門を指差す。

「うん、ありがとう。そこに積んでおいて」

 コハクに指示されたように薪を積み終わる。

「ご飯できたら呼ぶから、部屋でゆっくりしてて」

 そう言われ、景真に指示を与えるよりも自分でこなした方が早いし気楽なのだろうと感じ、すごすごと部屋に引っ込んだ。


 これから二人旅に出るのなら、これではダメだ。今のままではただの足手纏いになってしまう。

 しかし文明社会に浸かりきった景真には、近世レベルの生活に順応するだけでもそう容易いことではない。コハクもそれを分かっていて、大いに配慮してくれているのを感じる。

 だからこそ余計に自分が彼女の重荷になっているように思えてしまい焦る。

 その焦りが、がなるべく考えないようにしていたこの世界で生きていく事への不安を膨らませる。

 すぐには難しくとも一つずつこの世界でできる事を増やしてコハクの負担を背負えるくらいにならなければ、彼女の横に立つ資格はない。


 ベッドに腰掛け、社会人になったばかりの頃を思い出す。

 

 入社後いきなり『月刊マボロシ』の編集部に配属された景真に、編集長の指示で一人の中堅ライターが教育係として付けられたが、彼は自らの多忙を理由に放任主義を決め込んでいた。

 

 その頃のいたたまれない感覚に近いものを、今感じている。

 

 右も左も分からないままほっとかれて途方に暮れていた景真に助け舟を出してくれたのが、入社二年目の一ノ瀬春華だった。

 記事の書き方や取材の仕方、編集部近くのランチが安くて美味い店の情報に至るまで気さくな話ぶりで教えてくれ、景真はそれらを一つ残らず吸収しようと必死だった。

 その教え方は常に的確で必要な情報を過不足なく、それも嫌な顔一つせず真摯に向き合ってくれていると感じていた。

 時々、露骨に弟扱いされてるのが気恥ずかしくもあったが、それを嫌だとは思わなかった。

 

 たった一年でここまで違うものかと他の先輩に酒の席でそれとなく春華の事を聞いてみたら、元々は新聞部に配属予定だったが本人の希望でこの『マボロシ』編集部に入ったらしい。

 その結果、社内では「美人で、仕事も抜群――ても相当な変人」という評価が定着していた。

 景真にとって春華のそんな飾り気の無さ、真っ直ぐさはとても好ましく思え、その背中はずっと”頼れる先輩”のものだった。


 それだけ近い距離にいると、同僚や他の先輩たちにその関係性を問い正された事は一度や二度ではない。

 変わり者とは言え、むさ苦しい男所帯の編集部にあって、街を歩けば人が振り返る春華の側にいるとなれば嫉妬を買うのも無理はないと理解はしていた。

 しかし、その一方で景真は自分の春華に対する思いは紛れもなく”好意”ではあったが、周囲が考えるようないわゆる”恋愛感情”ではないと、そう感じていた。

 それは”尊敬”であり、”感謝”であり、”友情”なのだと今でも思っている。


 しかし、そんな自分を俯瞰するもう一人の景真はこうも思う。

 

 春華がいなくなり、胸が引き裂かれるような焦燥感に突き動かされ、気づけばなんと異世界にまで来てしまった。

 にも関わらず、この状況においてもまだ彼女を取り戻したいという気持ちは欠片ほども揺らいでいない。

 この執着とも言える感情が、果たして本当に”友情”と呼べるものなのだろうか。

 胸の奥がじくりと疼く。


 ドア越しに、景真を呼ぶ声が聞こえる。


 返事をして立ち上がる。

 

 その感情の正体は掴めないまま、胸の疼きが景真の足を前へと運んでいく。

 

 

 

 

 

 


 


 

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