断章4 遥か彼方より
綾織かなたが当時まだ総合病院に勤める研修医だった湊の所へ初めてやって来たのは、一度は近づいた春の足音がまた少し遠のいた雪の日だった。
白銀の髪を靡かせ、雪の妖精を思わせるその姿は、普段同僚たちにその無愛想さを指弾される湊をすら動揺させた。
少し緊張した面持ちで診察室の椅子に座る彼女の相談とは、自身の記憶喪失についてだった。
九歳……辺りと思われる年齢までの記憶が無く、出自も不明。当初は日本語を話すこともできなかったという彼女が一体どこから来た、何者なのか。
院内では既に、彼女に関する無責任な噂話が持ち上がっていた。
海外のお偉いさんが日本人に産ませた隠し子だとか、あるいはその逆。酷いものだと、宇宙人だとか。
『綾織かなたという存在そのものの謎を解き明かしたい』
それは医師としての義務ではなく、より個人的な衝動だった。
「なぜ今、記憶を取り戻したいと思ったんですか?」
「高校への進学が決まったので、少し心に余裕ができたというか……あと、日本語もある程度自信が付いてきたのでちゃんと伝えられるかなと思ったんです」
そこまでは、あらかじめ回答を用意していたかのように滑らかに答える。その言葉通り流暢な日本語は九歳から身につけたとは思えぬ、訛りすら感じさせない自然なものだった。
だが、そこでかなたは一度沈黙した。
目を泳がせるその様子は、言葉にすべきか迷っているようだった。
長い沈黙。
その間湊はただ、かなたの決断を待った。
言うにせよ、言わないにせよそれはきっと、彼女にとって大事なことだと考えたからだ。
しばらくして、かなたは膝の上に置いた手を固く握り、意を決したように口を開いた。
「——時々、夢を見るんです。家が燃えて、知っているはずの人たちが捕まって……」
そこからは記憶を絞り出すように話すが、言葉に詰まると酷い頭痛に耐えるようにこめかみを抑え、顔を顰めた。
苦しそうに言葉を搾り出そうとするかなたを見かね、手を挙げてそっと制す。
「綾織さん、無理して思い出さなくて大丈夫です。焦らずゆっくり、やっていきましょう」
そう言うと額に汗を浮かべたかなたは、はにかむように笑った。
考えられる可能性は強いストレスに起因する、解離性健忘だろうか。夢の内容が過去の経験を再生しているのであれば、家族や故郷を失くした事がその原因かもしれない。
しかし、彼女が見つかったという富士山麓周辺でそのような事件があったという報道はいくら探しても見つけられなかった。
彼女の日本人らしからぬ風貌と、日本語が話せなかったという点を考えれば外国から連れて来られ捨てられたと考えるのが妥当だろうか。
現実的にあり得そうな可能性を考えてはみるが、どんな可能性を当てはめても”綾織かなた”という存在の輪郭には届き得なかった。
なぜなら、当てはめるべきピースそのものが現実の色をしていなかったからだ。
いつしか湊は医師としては捨てるべき非現実的な思考に手を伸ばしていた。
かなたはこの世界の理の外から来たのではないか。
その馬鹿げた考えを封じようとしても、新たな根拠を得てはまた、水底から浮上して来るのだった。
「湊先生、こんにちは!」
「綾織さん、苗字で呼びなさいと言ってるでしょう」
「いいじゃないですかぁ」
制服のブレザー姿で診察室に入ってきたかなたの明るい声が弾ける。
重苦しい空気が支配しがちな精神科にかなたが来院すると、この時ばかりは小春のような暖かさが訪れるのを湊は感じていた。
予定通り高校に進学したかなたは、月二回ほどのペースで湊の所に通うようになった。
彼女はその神秘的な容姿とは裏腹にとても人懐こく、看護師たちともすぐに仲良くなっていたが、中でも湊への懐き方は側から見ても異常なほどだった。
そのせいで同期の研修医たちに影で下世話な噂を立てられていることも知っていたが、湊は断じて医師と患者という距離を誤る事はなかった。
湊はかなたに、解離性健忘を前提としたカウンセリングや治療を行ってきたが、半年が経過してもかなたの記憶に変化は見られなかった。
記憶の断片らしき夢を見るが、その場所も、人の名前も浮かんではこない。
目が覚めると、断片化された景色と、感情の欠片だけが残っていると言う。
しかし、かなたと過ごす時間の居心地の良さに、治療の不毛さ、成果の無さなど気にならなくなっていった。
「まだ夢は見るかい?」
いつものように問診を始める。
頷くかなたに次の質問をぶつける。
「内容に変化は?」
かなたは顎に人差し指を当てて天井を見つめ、一昨日の夕食でも思い出すような気軽さで言う。
「男の子が、助けてくれた……ような?」
――そう口にした瞬間、その白く滑らかな頬を涙が伝った。
「あ、あれ?」
「綾織さん……?」
自らの涙にただ戸惑っているかなたに掛けるべき言葉が出てこず、衝動的に震える肩に伸ばしかけた手を引っ込める。
「ごめん先生、いきなり泣いちゃって。なんでだろ……」
なんとか笑顔を作り手の甲で顔を拭うが、涙はとめどなく溢れている。
深層心理に封じられた記憶。
その中にいる、名も知れぬ”本当の彼女”が泣いている。
全てを失い、自身にすら忘れ去られた、小さな女の子が。
「……その男の子、先生に似てたかな……」
そう言ってかなたはその在処も、理由も分からない悲しみと寂しさにぐちゃぐちゃになった顔で、親指と人差し指で二センチほどの隙間を作り「ちょっとだけね」と笑った。
その姿を茫然と眺めていた湊は、まるで心臓に鎖を巻き付けられたかのような苦しさを覚える。
真の意味で彼女を救うことなど、自分にできはしないのだと告げられた気がした。
その苦しみの根源も、悲しみの理由も、知ることすらできない。
ましてや、癒すことなど。
救うことなど。
それでも――
――また季節は巡り、かなたにとって十一度目の春が来る。
いつしか湊は、かなたの正体など気にしなくなっていた。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
それが詳らかになれば、彼女が目の前から消え失せてしまうような、そんな予感があったからだ。
それよりも今は、彼女が存在するこの時間が一分、一秒でも永く続くことを祈る。
春に雪の華が咲く。
愛おしそうに我が子を抱くかなたの姿に、あの日の涙が重なる。
どうかその姿なき悲しみを、この時が癒してくれるよう願う。
その願いがたとえ、醜いエゴだったとしても。




