第五話 表 かみさまの導き 後
「決まりましたか?」
敷布団の下に敷くマットレスの前で、感触を確かめたりしながら悩んでいるヒスイに声を掛ける。
「ベッドを使ってもらっても構わないんですよ」
「それは遼に悪いですし、村ではずっとお布団でしたから……これにします」
そう答えて目の前のマットレスを指差す。
実を言うと昨夜、寝ぼけたヒスイがいつもの調子で立ちあがろうとしてベッドから足を踏み外し、派手にすっ転んだのであろう音を聞いていた。
お尻をさすりながらトイレに向かうその後ろ姿が哀れに見えて声は掛けなかったが、ベッドに恐怖心を抱くのも無理はない。
ヒスイ用の寝具一式を車の後部座席に積み込む。
「視えたのは夕方だったという事ですが、何時頃か分かりますか? あ、シートベルトしてください」
助手席に掛けたヒスイが不慣れな手つきでシートベルトを付ける。遼は無言で、捻れたベルトを戻してから付け直した。
「夕陽が視えただけなので、正確な時刻までは……」
車の時計に目をやると、現在十五時半。この時期だと夕陽と言えるようになるのは早くても十八時くらいだろうか。
地図アプリで確認すると、ここから一時間程度で最寄りのコインパーキングに着けそうだ。
「件の施設の向かいがカフェなので、そこで待ちましょう。お昼もまだですしね」
それを聞き、ヒスイは目を輝かせている。つくづくこの神様は食べることに目がないようだ。
「そう言えば、耳は痛くないですか?」
茉由がセットしてくれたそれはなんら違和感なく髪と一体化しているが、ぺたんと折り畳まれていて本人がどんな感覚なのかは想像もつかない。
「……痛くはないですが、やはり少し音が聞こえづらいですね」
セットを崩さないよう、慎重に自分の頭を触っている。
「でも、元々この世界の方々より耳が良いようなので、支障はないと思います」
そう言って微笑むヒスイを見ても、その本心までは覗けない。
仮に支障があったとしても、代替案が無いため我慢してもらう他ない事を心苦しく思いながら車を出した。
予定通り一時間ほどで施設近辺のコインパーキングに到着し、車を降りる。
そこから五分ほどの道のりを歩き、カフェに着いた時には二人とも既にじわりと汗をかいていた。
店内は木の梁が天井を支え、北欧調の家具で統一されながらも、店主の趣味なのかロケットの発射時の写真や宇宙服のレプリカなどが飾られており、若干カオスな雰囲気を醸し出している。
案内された窓際のテーブルに向い合わせで座ると、間もなくホールスタッフがメニューと水を運んできた。
「好きなものを注文してください」
そう言って、ヒスイにメニューを差し出す。
それを受け取ったヒスイは、それでなくても大きな目をさらに見開いて凝視している。
「ヒスイさん、尻尾が動いてます」
スカートの中を忙しなく動くそれを小声で咎める。
感情が読みやすいのは助かるが、外では抑えてもらわないと耳を隠した意味がない。
その尻尾の動きとともに、ページをめくる手がピタリと止まった。
「決まりましたか?」
「では……これを」
ヒスイがおずおずと指差して見せてきたそれは――
「き……軌道エレベーターメガ盛りパフェ……」
遼は思わず慄く。
「本当にこれでいいんですか? 昼食ですよ……?」
ずれた眼鏡を押し上げながら確認するが、ヒスイの眼差しは一歩も引かぬ覚悟に満ちている。
好きなものを注文しろなどと言った数分前の自分を呪う。
ため息をついてから手を挙げて店員を呼び、パフェとコーヒーを注文する。
「遼は食べないのですか?」
ヒスイが心配そうに尋ねる。
「見てるだけでお腹いっぱいになりそうなので」
そう答えたが、遼は予感していた。聳え立つパフェの後片付けをする羽目になる事を。
程なくしてさすがに名前負けはしつつも、とてもヒスイの体に収まるとはとても思えない高さのパフェが運ばれてきた。
クリームや果物、アイスなどが層を成しており、外周に突き刺さったチョコ菓子だけでも遼にとっては一ヶ月分の甘味だった。
「わぁ……すごい。夢みたいです」
ヒスイは、人類の業を司る禍々しき塔をうっとりと見つめている。
「パフェは初めてですか?」
「村には無かったので……燈と一緒に作ったことがありますが、ここまで大きなものは初めてです」
こんな邪悪なシロモノは遼も初めて見たが、その言葉は口にせず飲み込んだ。
幸せそうにパフェを口に運ぶヒスイを横目に窓の外を眺める。
道路を挟んだその先に星雲救世会の施設が見える。
苔守村で見たそれよりも二回りは大きく、純白の外観に所々金色の装飾が施されている荘厳な姿は一目で宗教施設だと分かる。
正面に窓はなく、重厚な門がこちらを睨む様はさながら要塞のようでもあった。
都内にこれだけの建物を持てる教団の力は、やはり相当に大きなものなのだろう。
最初は勢いよくパフェの山を掘削していたヒスイだったが、半分も食べ進まないうちにみるみる勢いが落ちてきている。
「……大丈夫ですか?」
心配になって声をかけると、体が冷えたのか小刻みに震えている。冷房の効いた店内でこんな冷たいものを山盛り食べれば無理もない。
「だ……だいじょうぶです」
口ではそう言うが、顔も青ざめている。
「すみません、ホットコーヒーを。あとスプーンも一つお願いします」
通りがかった店員を呼び止める。
甘いものはあまり得意ではないが、ここは腹を括るしかない。遼は食べ物を残すということに、人一倍抵抗があった。
コーヒーとスプーンが運ばれてくると、コーヒーをヒスイの前に置きパフェを引き寄せる。
「体を温めないと風邪を引きますよ」
「ありがとうございます……」
力なくコーヒーに口を付けたヒスイが壮絶に顔を顰め、慌ててミルクと砂糖を入れている。
改めてコーヒーをすすり、ほっと息をつくヒスイを見届けてからパフェに手をつけようとしたところで、
――向かいの道路に黒塗りの車が停まるのが見えた。
車道側の後部座席のドアが開き、黒衣に身を包んだ長身の男が降りてくる。
周囲を警戒する様子で、しかし自然に振る舞う様子は一目で只者ではないと知れる。
男は車の後ろから反対側に回り込み、後部座席のドアを開く。
向こう側に現れたのは純白のローブに身を包み、腰まである黒髪を靡かせた女だった。
女が降り立った瞬間、その周囲に立ち昇っていた陽炎が掻き消えたように見えた。
「御堂コトネ……」
その女は、公安の資料で見た星雲救世会の教祖だった。
四十年も前の教団発足時から教祖の座に君臨し、信者の前以外にはほとんど姿を現さない。
圧倒的なカリスマ性を持ち、教団を監視していた公安の職員が入信していたという話もある。
そして、資料にはその当時から”容姿が全く変わっていない”と明記されていた。
遼は半信半疑だったが、今目の当たりにしている女は実際にどう見ても二十代半ばにしか見えない。
そして、今の遼はそれが事実であると考えられる根拠を持っている。
――御堂コトネもまた、ヒスイと同じくネビュラからやって来た。
そう考えれば、ヒスイの神託がここに導いたことにも納得がいく。
しかし、どうするべきか。
御堂コトネが何かを知っている可能性は極めて高い。
だが、ここで出て行って姉の事を問い正したところでまともな回答が得られるだろうか。
可能な限り思考の速度を上げる。
施設に入られてしまえばもう手出しできない。何かアクションを起こすなら今しかないが――
ふと、再び視線を道路の向こう側に送る。
――視線を戻した瞬間、御堂コトネの横に立つ黒衣の男と視線が合った。
その目は射抜くように遼と、ヒスイを捉えている。
凝視していたわけでもないのに、この距離で、なぜ見つかる?
まるで、向こうがこちらを探していたかのように。
背中を冷たいものが伝う。
視線を外して何食わぬ顔をしなければと頭では考えているのに目を離すことができない。
男が御堂コトネに耳打ちする。
そして、表情など分からないはずの距離ではっきりと見えた。
御堂コトネの顔がゆっくりとこちらを向き、世にも美しく、悍ましい笑みに歪むのが。
その瞬間、全身に感じたことのない悪寒が走り総毛立つ。
遼は反射的に立ち上がると、コーヒーカップを両手で包むようにしてぼんやりしているヒスイの手を掴んだ。
「遼? どうかしたのですか?」
返事をする余裕すらなく、カウンターに伝票と一万円札を叩きつけるように置き、カフェを出てまっすぐに車を目指す。
あれは人間ではない。
戦って、ましてや話し合いでなんとかなるような相手ではあり得ない。
車に乗り込み、シートベルトを着けるのも忘れてアクセルを踏む。
「……教団の教祖がいました」
ヒスイが息を呑む気配を感じる。
「……あれは、恐らくこの世界の人間ではありません」
ヒスイが何か言おうと口を開いたその時、遼のスマートフォンがけたたましい声を上げた。
状況が状況だけに無視するべきか悩んだが、なぜかこの電話を取らなければならない。そんな強迫観念にも似た感覚に襲われる。
ハザードを出し道路の端に寄せて停車すると、スマートフォンの画面を確認する。
――その着信は、明石景真からのものだった。




