第五話 表 かみさまの導き 中
「では、正午になったら行動を開始します。いいですね?」
時間は午前九時。
既に夏の日差しがレースカーテンを貫いて、フローリングを灼いている。
遼の改まった声に、ヒスイの耳と背中がピンと伸びる。
「あ、でも耳はどうしましょう……尻尾は隠せそうな服を燈が見繕ってくれたのですが、あんな大きな帽子をずっと被ってたら変ですよね……?」
遼は眼鏡を押さえて答える。
「それについては、悩みましたが手を打ってあります」
ヒスイを連れて都内を動き回るとなれば、その問題からは逃げられない。そこで昨夜、悩み抜いた挙句助っ人を招集したのだった。
ピンポーンと、見計らったかのようにチャイムが鳴る。驚いたのか、ヒスイの尻尾が箒のように膨らんでいる。
「少し待っててください」
そう言って玄関に向かった遼は、あろうことか一人の女性を連れてリビングに戻ってきた。
明るい髪色の、見るからに快活そうなその女性はヒスイの姿を認めるとたった三歩で目の前まで詰め寄る。
「この子がヒスイちゃん!? かわいい! この耳! 尻尾! ほんとに本物!?」
至近距離でキラキラした目を向けられ、ヒスイの尻尾は限界を超えて膨らんでいる。
「そうです。……怖がってるので少し離れてあげてください」
遼にそう言われ、女性はハッとしたように一歩後ろに距離を取る。
「ごめん。驚かせたよね」
「あっ、いえ……遼、この方は……?」
我に帰ったヒスイがおずおずと遼の方を見る。
「あたしは芹澤茉由。遼……一ノ瀬の大学時代の友人、かな。ちょっと、休日の朝っぱらから呼び出されて来てあげたんだからもう少し歓迎しなよ」
呆れ顔の遼が答えるよりも先に自己紹介し、恨めしげな視線を送る。
「彼女は美容師なので、上手く耳を隠す技術を教えてもらえないかと思って呼びました」
ヒスイが不安そうに遼を見ている。
その不安は当然だ。いきなり見ず知らずの相手に正体を明かすことになったのだから。
「ヒスイさんの秘密を知っても、それを口外するような人間ではありません。それは私が保証するので、安心してください」
茉由が胸を張る。
「そこは安心して。絶対、誰にも言わないし春華さんを見つけるためにも是非協力させて」
大学時代、性格は対照的ながら妙に気が合った二人は映画や食事、飲みなどを共にする事が多かった。
その流れで茉由は遼の姉、春華とも自然と顔を合わせるようになり、意気投合した春華の強い推薦もあり一時は付き合っていた時期もあった。
その後自然解消的に友人関係に戻ったが、社会人になった今でも時折飲みに行ったり相談事をする仲が続いている。
遼は知らなかったが、春華ともずっと連絡を取り合っていたらしい。
茉由の前でヒスイは借りてきた猫のようにちょこんと椅子に腰掛け、落ち着かない様子で足の指先をもじもじさせている。
その正面には姿見が置かれ、ヒスイの姿を映し出している。
「ヒスイちゃん、あんまり緊張しないでね。”さん”の方がいっか、年上だもんね」
「ど、どちらでも構いません……」
俯き、消え入るような声で答える。
思っていたよりもヒスイは人見知りするようだ。あるいは、茉由のように押しの強いタイプが苦手なのだろうか。
それにしても遼が初対面の時の堂々たる態度と、随分差があるように思える。
「じゃあいっちょやりますか」
茉由が椅子に座るヒスイの後ろに立ち、半袖なのに腕まくりのジェスチャーをする。
持参した鞄から花があしらわれた大きめの髪飾りを取り出すと、口頭でやり方を説明しつつ、慣れた手つきでヒスイの髪を結って頭に取り付ける。
「髪もサラッサラのツヤッツヤ! 羨ましい〜」
美容師らしく、ヒスイの緊張を解そうとしてくれているようだ。
編んだ髪束に耳を組み込むと、耳の毛色が髪と同じなのも相まって見事に馴染んでいた。
これならば街中を歩いていても、そうそう気付かれることはないだろう。
「……さすがだな」
黙って見守っていた遼から、思わず感嘆の声が漏れる。
自分でもできるようにとその手の動きと解説に集中していたが、途中から何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
「ヒスイちゃん、耳痛くない?」
背後からその顔を覗き込むように聞く。
「大丈夫です。凄いですね、これ……耳があるのが全然わかりません……ちょっと音がくぐもって聞こえますけど」
ヒスイは姿見を覗き込んでしきりに関心している。その声色からも、だいぶ緊張の色が薄れている。
「どう? 自分でもできそう?」
「じ、自信はありませんがやってみます」
そう答えると、茉由が笑顔を作り親指を立てる。
「うちに来てくれたら毎朝でもセットしたげるのに〜。ほんと尻尾ふわふわ〜」
ヒスイの尻尾をさわさわと撫でながら、遼の方を見て悪戯っぽく笑う。
「……芹澤さん、今日は朝早くからありがとうございました。また何かあれば協力を仰ぐかもしれません」
咳払いをしてから遼が言うと、茉由は不満そうな顔をする。
「”さん”だって、そんな他人行儀な。一ノ瀬は変わんないよね、そういうとこ」
そう言って、少し寂しそうに笑う。
それは、彼女と”付き合っていた”時期に幾度か目にした笑みだった。
遼の前まで来て続ける。
「春華さんを助けるためってんだから、あたしにとっても他人事なんかじゃない。遠慮なんかいらないから、いつでも呼んでよね。来られるかは分からんけどさ」
遼はじくりとした胸の痛みに、言葉を返すことができなかった。
ヒスイに手を振ってから部屋を出て行く茉由を見送る。
玄関のドアが開くと、真夏の熱気が出迎える。
「うわ、あっつ〜。出かけるならヒスイちゃんが倒れないように気をつけてあげなよ」
茉由が手のひらで額に庇を作り、雲ひとつない空を眺めている。
「ええ、あなたも気をつけて」
「うん。あ、そろそろ髪切りに来なよ。だいぶ伸びてるよ」
そう言われ、前髪を摘む。
「……そうですね、落ち着いたら予約を入れますよ」
ひらひらと手を振って去って行く茉由の背中が、エレベーターに消えるのを見届ける。
――もしかしたら、彼女を危険に巻き込んでしまったかもしれない。
そんな不安と後悔が、拳を強く握らせた。
握り込んだ手のひらに汗が滲む。
それでも遼は拳を解くことを忘れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。




