第五話 表 かみさまの導き 前
「――夢を、視ました」
台所に立ち二人分の朝食を用意していた遼の背中に氷柱のような硬く冷たい声が刺さる。
その声に体の中で何かがその声に応えるように蠢くのを感じた。
振り返ると、そこには寝巻き姿のヒスイが無表情で佇立している。
瞳には寝起きの朝霧の中に神秘の光が宿り、茫洋としながらも目を離せない不思議な輝きを放っている。
――これが”神託”なのだろうか。
「……分かりました。とりあえず朝食ができるので、夢の話はその後で伺いましょう」
ただならぬ雰囲気に飲まれぬよう、遼は平静を装う。この朝の段取りを崩されるのを嫌ったからだ。
それを聞いた途端、ヒスイの瞳に宿っていた光はなりを潜め表情が戻る。
「わ! 昨夜はご飯を食べ損ねたのでお腹ぺこぺこです」
そう言うと、ウキウキとした足取りでテーブルに着く。
パジャマに開けた穴から覗く尻尾をわさわさと揺らす様に、拍子抜けした遼は眼鏡を押さえてからドアを指差す。
「もう少しかかるので、今のうちに顔を洗ってきて下さい。洗面所はそのドアの先です」
「う……わかりました」
遼に言われるがまま尻尾を萎れさせて渋々と洗面所に向かうその姿は、先ほどまでの超然とした雰囲気を微塵も感じさせない。
本当に未来を視る力など存在するのだろうか。
その答えは彼女の”神託”を聞き、その結果を観測すれば自ずと示されるだろう。
顔を洗い、さっぱりと目覚めた顔でテーブルに戻ってきたヒスイの前に朝食を並べる。
バターを効かせたオムレツに焼きたてのトースト、フルーツサラダと遼こだわりのブレンドコーヒーだ。
「わ、美味しそう! いただきます!」
目を輝かせたヒスイが、遼もテーブルに着くのを待ってから手を合わせる。
「いただきます」
遼もヒスイに倣って手を合わせる。それは一人の食卓では長らく忘れていた習慣だった。
「……! ふわトロオムレツ! テレビで見ました! 遼はお料理が上手なんですね」
「そんな大したものではないですよ。子供の頃からやってるだけです」
謙遜する遼に、ヒスイがかぶりを振る。
「いいえ、大したものです。自分で食べるだけなら、こんなに綺麗に作る必要もないのですから。きっと、食べる人の事を想ってずっと作ってきたんですね」
その言葉に、父と姉の顔が頭に浮かぶ。
実家には暫く顔を出せていない。
父に姉の失踪を伝えるべきだろうか。
父はきっと、事情を伝えた上で警察に通報しないよう言えば聞いてくれるだろう。
できない。
かつて妻を失い、次は娘を失うかもしれない。おまけに息子も仕事すら放り出して危険に首を突っ込んでいる。
そんな事情が、あの寡黙な父をどう傷つけるのか想像もつかない。
そしてその傷が、今度こそ本当に父を壊してしまう。そんな予感があったからだ。
――たとえそれが、父に対する裏切りであったとしても。
こだわり抜いたコーヒーにミルクと砂糖を容赦なく投入され軽くショックを受けたものの、朝食とその片付けを終え再びテーブルに向かい合わせで座る。
「地図を出していただけますか?」
ヒスイにそう言われ、寝室からタブレット端末を持ち出し地図アプリを開いてからテーブルに置く。
たどたどしい手つきで操作しているのを見かねて声をかける。
ゲーム機と違い、さすがに通信機器は触らせてもらえなかったのだろうか。
「東京一帯でいいですか? それとも、どこかを拡大します?」
「と……東京を」
二本の指で地図を縮小し、東京都全体が収まるように調整する。
ヒスイがタブレットを見つめると部屋がしんと静寂に包まれ、その瞳に翠の光を放った。
空気が張り詰め、時が停まっているかのように冷たく、重たく感じる。
奇妙なことにそれは、『神秘に触れている』というよりもスーパーコンピュータが高度な演算をするのを見守っているような感覚だった。
ヒスイの人差し指が真っ直ぐに伸び、地図の一点を静かに指し示す。
「……ここですか?」
遼の問い掛けには答えず指先がピタリと停止し、微かに耳鳴りを覚える。
遼はそこにピンを立て、地図を拡大した。
星雲救世会第三東京支部。
――神託により示されたそこは、都内でニ番目の規模を誇る教団施設が建つ場所だった。
「この場所に今日の夕刻、――真理に近いものが現れます」
そこまで言うとヒスイの目に宿る光は霧散し、停まっていた時が緩やかに流れ出したよう錯覚する。
やはり、全ての鍵は教団にある。
そして、一見無造作に差し示された先に教団施設があったという事実が、ヒスイの力に対する遼の疑念を打ち砕いた。
顎に手を当てて考え込む遼にテーブルに突っ伏したヒスイが気の抜けた声で言う。
「”力”を使ったらお腹が空きましたぁ……すみませんが、何か食べるものをください……」
「え……。ついさっき食べたのに……?」
突っ伏したまま動かなくなったヒスイを横目に、未来視の力というのはそれほどまでにエネルギーを使うものなのかと考えながら、席を立ち冷蔵庫へ向かう。
まるで全てが予定調和であるかのように、歯車が回り始めるのを感じる。
苔守村に行ったことも、ヒスイを連れ帰ったことも、そして今日教団施設に向かうことも、それをヒスイが予言したことすらも、全てが何者かが書いたシナリオのままに動かされているのではないか。
それこそまるで、運命のように。
遼は運命などというものを信じない。
未来は無数の人間、生き物の意思が選び取った無数の選択肢の上に、偶然組み上がるものだと信じている。
だからこの現在も、この先の未来も、全ては己が意思が作り、紡いでいくものだと信じている。
未来に何が待つかは、まだわからない。
ならば、今はまだその流れに身を任せよう。
ただ流されるのではなく、自らの意思で。
抗うのはこの意志を捻じ曲げられんとした、その時でも遅くはない。
遼は眼鏡を押し上げると、冷蔵庫の扉を開いた。
冷気が逃げぬよう、静かに、少しだけ。




