第五話 裏 渡り人の軌跡 後
木の香り漂う受け付けは昔ながらの銭湯そのものだった。
入り口に番台が備え付けられ、そこで料金を支払ってから入場するようだ。
「あ……」
そこまで来てようやく、自分が一文無しであることを思い出す。いつもお金は全てコハクが払ってくれていたが、今この場にはいない。
急に固まってしまった景真をエクトルが不思議そうに見ている。
「どうかしましたか?」
「すまん、エクトル。俺はここで待ってるよ。金を持ってないんだ」
「あ、そういうことですか。そりゃワタリビトがネビュラの通貨を持ってるはずがないですからね」
そう言って顎に手を当てて考え事をしている。
「じゃあこうしましょう。オービスの情報と温泉のルールでは価値がとてもじゃないが釣り合わない。そこで僕がケーマさんの入浴料を払います。これでも不足かもしれませんが、その時は……上がってから冷たいフルーツミルクもお付けします。絶品ですよ」
人差し指を立て、やはり笑顔を浮かべて提案してくる。つまり、理由を付けて奢ってくれると言うのだ。
自分の話に金を払う価値があるのかは分からない。
エクトルは景真に引け目を感じさせないよう、あえて交換条件を提示したのだろう。
ともあれ、断る理由もないので景真はその提案に乗ることにした。
「分かった。洗いざらい吐かせてもらうよ」
そう言うと、エクトルは頷いてから番頭に二人分の料金を支払い、中へと入って行った。
エクトルに倣って衣服を脱ぎ、籠へ放り込むと浴場へ入り、全身を洗う。
二日ぶりに体の汚れを洗い流すと、生き返ったような心地だった。
「毎日風呂に入れるってのは贅沢だったんだなぁ……」
岩で囲まれた露天の浴槽に身を沈め、少し馴染んできた虫の声に耳を傾けながら夜空を見上げる。
気を張っていたからか、気づかなかった体の疲れがどっと噴き出す。
「オービスでは毎日風呂に入るんですか?」
「地域とか文化によるかな。ここの温泉は俺の故郷とそっくりだ。……ここが異世界だってのを忘れるくらいに」
隣で同じように空を見上げるエクトルに答える。
「ゴンドでは大昔から温泉が湧いていたのですが、地元の民が浸かったり、洗濯に使う程度だったそうです。それが今のように観光地として整備され始めたのは、今からおよそ百五十年前です」
「それを指揮したのがワタリビトだった、と」
エクトルが景真の方を向き、目を細めて微笑む。
「ご名答。そして温泉目当ての旅人が増えるにつれ、この町も大きくなっていきました。昔は村と呼ぶのが相応しい規模だったそうですよ。それこそ、ニャーラさんたちが子供の頃はまだ」
――ワタリビト一人が、この町の歴史とあり方を大きく変えてしまった。
その事実は、結果の良し悪しは別として一人で背負うには重過ぎるように思えた。この世界にとってワタリビトはどこまで行っても異分子、部外者なのだ。
「……不思議だったんですが、ケーマさんはネビュラ共通言語がお上手ですがコハクさんから教わったんですか?」
深刻な顔で考えに耽っている景真に、エクトルが遠慮がちに尋ねる。
「いや、ここに飛ばされたのは昨日だからな……。コハクに話しかけられて、でもその時は何言ってるか全然分からなかった。そしたら急に左手が痛んで、すぐにひどい頭痛で気を失った……。目が覚めたらコハクの言葉が分かるようになってたんだ」
記憶を掘り返しながら言葉にすると、自分でも支離滅裂に思える。そのおかげで助かっているのも間違いないが、同時に不気味でもあった。
景真のしどろもどろの説明に、エクトルは深く考え込んでいる。
「……考えられるとしたらアニマの作用でしょうか。しかしワタリビトにアニマ適性があるという話は聞いたことが……」
揺れる水面を見つめながら何やらぶつぶつと呟いている。
「アニマにはそんな力もあるのか? 知識を与えるとか」
「……聞いたことはないですが、人の意思に応えて奇跡を起こす……そういう存在なので、ありえない話ではない——というところでしょうか。何せ、アニマについては未解明な事が多いので」
左の手のひらを観察してみるが、あの時浮き上がった紋様は影も形もない。しかし、その薄皮一枚の下で見えない何かが蠢いているような、そんな錯覚に陥る。
果たしてこれは、本当に錯覚なのだろうか。
得体の知れない不安から逃避すべく、景真の思考はあらぬ方向へ向いた。
「……エクトルはあのニャーラって子と付き合ってるのか?」
言葉をぶつけてから、修学旅行でテンションの上がった高校生みたいな質問をしたと少し悔いる。
思考に耽っていたエクトルの脳は、その言葉を処理するのが一瞬遅れた。
「……えっ」
不意をつかれたかのように固まっている。その顔が目に見えて赤いのは湯当たりか、気恥ずかしさか。
「——彼女は、友人ですよ」
噛み締めるようにそう言って笑うエクトルの顔に寂しさが浮かぶ。
「僕は定命種で、彼女は長命種ですから」
同じ時を生きることはできない。
彼女が少女の姿を留めている内に、彼は一人老い、死んでいく。
黄昏どき、石段で感じた胸のざわめきが蘇る。
「ですが、僕は彼女に救ってもらったので。せめて生きている間は側にいたいんです」
星空を見上げていたエクトルの目が景真の方へ向けられる。
「――友人として、ね」
それは、笑おうとしたのに苦笑いになってしまった、そんな顔だった。
風呂から上がると、コハクたちは先に出て椅子やソファーの並ぶ大広間で涼んでいた。その手には白い液体の入った瓶が握られている。あれが件のフルーツミルクだろうか。
「あんたたち、男のくせに長風呂ね。待ちくたびれたわよ」
悪態をつくニャーラも、その隣で瓶に口をつけるコハクも、のぼせたのかその頬は紅潮している。
椅子から垂れ下がった尻尾は、まだ濡れているのかいつもより細っそりとしている。
「悪い、待たせたか?」
コハクは首を横に振ると、景真に耳打ちする。
「エクトルと仲良くなれた?」
そう聞かれ、友人作りの心配までさせていたのかと気づく。
「ああ、もう親友だな」
そう言って説教を食らっているエクトルの方を見ると、目が合った彼はキョトンとしている。が、何かに気づいたようにニャーラに断りを入れてから売店の方へ走って行った。
「これ、約束のフルーツミルクです」
両手に持った瓶の一本を景真に差し出す。どうやら催促してると思わせてしまったようだ。
「……悪いな、大した話もしてないのに」
「いいんですよ。親交の証です」
受け取った瓶はキンキンに冷えている。冷蔵庫も無いだろうにどうやって冷やしているのだろうか。
紙でできた蓋を開けて口を付けると、ミルクの中に爽やかなフルーツの甘味が広がる。
甘酸っぱいその味は景真の知るどの果物とも一致しないが、温泉で熱を持った体に染み渡っていくのを感じる。
一息に飲み干して、深く息を吐く。
と、コハクがにんまりとしてこちらを指差している。
「ケーマ、くち」
その意味するところに気づきタオルで口を拭うが、そう指摘するコハクも口ひげを拵えている。
「コハクも」
自分の口を指差しながら教えると大きな耳が天を衝き、大慌てで口を拭っている。
初めて見るコハクの恥じらう姿が眩しく映る。
「……コハク、あんたまた旅に出るんでしょ」
帰り道、ニャーラがコハクに問う。
その声は先ほどまでの真夏の日差しのようなものではなく、夜風のように静かな響きだった。
コハクが黙って頷くと、ニャーラは声のトーンを上げる。
「そっか。でも次帰ってきたら真っ先に顔見せに来なさいよ。長くなるなら手紙も寄越しなさい、いいわね?」
「わかった」
コハクのあっさりした反応に、ニャーラはやれやれという表情で笑う。
「ケーマさん。コハクの事、頼んだわね」
景真の方に寄ってきて耳打ちする。
「あの子、ああ見えて……見ての通り抜けてるとこあるから」
「ああ、善処するよ」
夜風が身体に籠った熱を冷まし、硫黄の匂いが少しずつ遠ざかる。
景真は少し、ほっとしていた。
コハクと同じ時を生き、その身を案じてくれる友人がいるということに。
その孤独に、寄り添ってくれる存在に。
四人は肩を並べ、ゴンド温泉郷の夜道を歩く。
――月のない、星空の下を。




