第五話 裏 渡り人の軌跡 中
ゴンド温泉郷に夜の帳が下りる。
しかし既に眠りについた商業区と対照的に、川上の温泉町は煌々と明かりを放ちその活気を失うどころか多数の屋台が並び客たちをもてなしている。
川に沿って遡るほどに下流でも微かに感じられた硫黄の匂いが徐々に強くなる。
景真はコハクの「せっかくだから、温泉に入ろう」という言葉に押されて、とある温泉宿の前に来ていた。そこは宿泊客以外にも浴場を開放しているらしい。
ネビュラに来てからというもの風呂には入れていない。せめて水浴びがしたいと思っていた頃合いではあった。そこに来てありがたい申し出だったが、さすがに金銭面が気になり一人で行くように促した。
ところがコハクは頑として譲らず、こうしてタオルと着替えを小さな手提げに詰め、二人揃って宿へとやって来たのだった。
その木造の建物は、屋根や柱が朱に塗られ入口の両脇には狛犬のような石像が立っている。
海外の映画に出てくる”なんちゃって日本建築”そのもので笑いそうになるが、これもワタリビトたちが伝え、徐々に変化していったのだと思うとなかなかに味わい深い。
「あっ! コハク!」
物珍しげに宿の外観をしげしげと眺めていると、明朗な声がコハクを呼ぶ。
同時に声の方へ振り向くと、浴衣を着た狐耳の少女がこちらに大きく手を振りながら駆け寄ってきた。その後ろには温厚そうな男性が同じく浴衣姿でついて来ている。
耳や尻尾は、コハクよりも明るい黄金色で、吊り目がちの瞳はガーネットのような赤い光を放っている。
「ニャーラ」
表情こそ変わらなかったが、少女の顔を見たコハクの顔に少し光が差したように感じた。
「あんた、戻って来てるなら顔くらい見せなさいよ。トカゲ食堂の女将が教えてくれなかったら分かんなかったわよ。……ここに来るのが”視えた”から来てみれば」
ニャーラと呼ばれた少女はそう言いながら、両手でコハクの頬っぺたを引っ張る。
「ごべん、いろいろひゃることがはったはら」
この状況でもいつもの調子で、無表情に弁明するコハクに吹き出しそうになる。
「あら、そちらは?」
ニャーラがコハクの頬から手を離し、こちらを向く。
「ケーマ。ワタリビト」
コハクが赤くなった頬っぺたを両手でさすりながら端的に答える。
「ふーん? あなたが女将が言ってたワタリビトね」
「あ、ああ、よろしく」
勢いに気押される景真を品定めをするようにひとしきり観察すると、自らの胸に手のひらを当て自己紹介する。
「私はニャーラ。コハクの幼馴染よ。見ての通り狐族。で、こっちが……」
後ろでニコニコとやり取りを眺めていた男性の背中を押す。
「おっとっと……どうも、エクトルです。いやぁ、まさか本物のワタリビトと出会えるとは光栄だなあ」
ひょろりと背の高いその男は、見た目はオービスの人間と区別がつかない。
「コハクさんも、元気そうで何よりだね。お母さんの手掛かりは見つかったかい?」
そこまで言ったところでニャーラの鋭い蹴りがエクトルの尻を捉える。
「ごめん、コハク。こいつほんっとデリカシーがないから」
ニャーラがしゃがみこんで自分の尻をさするエクトルを睨みつける。
「別に気にしてない」
コハクはけろっとして答える。
「積もる話もあることだし、お風呂で話しましょ。あんたはケーマさんにお風呂の入り方教えてあげなさい」
そう言い、コハクの背中をぐいぐいと押していく。
途中、コハクは何度か心配そうにこちらを振り返っていたが、その背中もやがて宿の中に消えていった。
取り残された男二人、無言で目を合わせる。
「それじゃあ僕らも入りますか。裸の付き合いってね」
そう言ってはっはっはと笑いながら宿に入っていくエクトルの後を追った。
入り口に架けられた暖簾をくぐると中は宿の受け付けになっていて、浴場だけ利用する客向けの道案内が大きく書かれている。
その案内に沿って進んでいくエクトルの後ろについて行く。
「ケーマさん……でしたか。温泉は初めてですか?」
歩きながら、笑顔で振り返り尋ねてくる。
「ああ、ネビュラでは初めてだ」
「なるほどなるほど」
景真の答えに納得したようにうんうんと頷いている。
「実は僕、ネビュラの歴史とオービスの交わりについて研究してまして……こうしてワタリビトと話ができて夢のようです」
「そういう事か。まぁなんでも聞いてくれ。……ネビュラにおける温泉のルールや入り方の情報と交換だけどな」
そう返してニヤリと笑ってみせると、エクトルは一瞬虚をつかれたような顔をしてから笑い、
「交渉成立です。とっておきの情報をお教えしましょう」
そう言って上機嫌でずんずんと廊下を進んでいくエクトルの後を追った。
強まる硫黄の匂いが、ツンと鼻をつく。




