第四話 裏 異世界の朝 後
景真は思わず息を飲む。
大きな振り子が振れ、それが六十回で長針が一つ、”時計回りに”動いた。
その動きは景真の知るそれと全く同じだ。
スマホを取り出し、ストップウォッチのアプリを立ち上げ、震える指でスタートを押した。
――そこで刻まれる一秒もまた、振り子の動きと息を合わせるように同じ間隔を刻んでいる。
「……ネビュラでは、一日は24時間なのか?」
その問いに、コハクはさも当然のように答える。
「うん。オービスとは、やっぱり違う?」
「じゃあ、一年は?」
「……? 365日」
頭を殴られたような衝撃に眩暈がし、思わずふらつくとコハクがその背中を支えてくれた。
「大丈夫? ケーマ、顔色が……」
心配そうに見上げるコハクに平気だと左手を挙げて見せる。
カチ、カチという振り子の音が響き、いくつもの可能性が頭の中を駆け巡る。
しかし、全ての疑問に説明がつく”可能性”はやはり一つしかないように思えた。
――ネビュラは未来、あるいは過去の地球である。
この仮定に立てば一年、一日の長さが同じ事も、呼吸ができている事も、重力に差を感じない事にも全て説明がつく。
そして、過去であるならばこれだけの文明や亜人種の痕跡が見つかっていない事に説明がつかない。
ならばやはり、遥か未来の地球の姿であると考えるのが最も理に適っているように思える。
しかし、それもまた仮説の域を出ない。
世界が軋む音が聞こえ、吐き気が込み上げてくる。
ここが未来ならば、自分がいた世界は、文明は滅んでしまったのだろうか?
そして、それからどれ程の時が経ったというのだろうか。
景真が新鮮な空気を求めて集会所の外へ向かうと、コハクは何も言わず付き添ってくれた。
扉をくぐり、出迎えた太陽の眩しさに目を細める。
――あれは自分の知っている太陽なのだろうか?
自分が恐ろしく無力で、小っぽけな存在に思えた。
『世界の真理』など気にも留めず、『真理』を体現するかのように自由に頭上を飛ぶ鳥を羨ましく眺める。
それでも。
ここがどこであろうと、いつであろうとすべき事は変わらない。
今はただ掲げた三つの目的を果たすために、前に進むしかないのだ。
確かめるように強く足を踏み出したその瞬間、どこか遠くで鐘の音が響いた。
――まるで誰かが、時を刻み直したかのように。
家に戻ると、コハクはそのまま景真が間借りしている部屋までついて来た。
景真はベッドに腰掛け、座り込んで尻尾を左右にふさふさと揺らしながら箪笥を漁るコハクの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
その平和な光景に集会所で見たものも、この胸のざわつきも全て夢だったんじゃないかと思えてくるが、振り子の音は頭の中で鳴り続けている。
箪笥を探る手が止まり、大きな耳がピンと立つ。
コハクは立ち上がると、取り出した物を景真の前に広げてみせた。
「これに着替えて。お父さんのお下がりだけど、その服だと町じゃ目立つから」
それは濃紺の、作務衣に似た上下の服だった。
確かに昨晩は薄暗い中で仮装している人も多く目立たなかったが、昼間にこの格好だとどうしても人目を引くだろう。
「ありがとう。でもいいのか? 大事な物なんじゃ?」
言わば父親の形見を借りる事に些か躊躇する。
「使ってもらった方がお父さんも服も喜ぶと思うから」
そう言って、服をベッドに置く。
「着替えたら声をかけて」
部屋を去るコハクの背中を見送ってから、服に手を伸ばす。
決して新しくはないが、大切にされてきたであろうそれは手触りが良く、丈夫そうだった。
着ていた服を脱いで袖を通すとあつらえたようにサイズが合っていた。着心地も申し分なく動きやすいが、素材は全く分からない。
居間に向かい、はたきで家具に乗った埃を取っていたコハクに声をかける。
「着替えたよ」
こちらに振り返ると、視線が景真の頭と足を往復する。
「大きさは……やっぱりちょうどだね。似合ってる」
その笑顔に照れ臭くなり、鼻を掻いてごまかす。
「それじゃ、そろそろお昼だし市場に行こうか」
「買い物か。何がいるんだ?」
コハクは掃除用の前掛けのような物を脱ぎながら答える。
「昼食と、旅の支度をしないと。二人分だと結構な量になるから」
――二人分?
聞き間違いだろうか。
それとも今朝の話を「ついて来て欲しい」という風に誤解されたのか――
「私も行く」
透き通るような、一欠片の迷いもない声が景真の思考を遮るように空気を揺らす。
困惑する景真を、琥珀色の瞳が見つめている。
「ケーマがお母さんを探してくれるなら、私はケーマの探してる人を探す。この家でただ待ってるなんてできない」
それはあらかじめ用意していたかのような、高らかな宣言だった。
「それに、人探しならきっと私の力が役に立つよ」
「力?」
「未来を視る力。お母さんほどじゃないけど」
――未来視。
そんなものが本当に存在するのであれば、なんらあてのない人探しにおいてこれほど頼もしい能力もない。
いつもならそんなオカルトじみた話をやすやすとは飲み込めない。職業柄、その手の話にはまず疑ってかかる癖がついている。
「あまり遠くまでは視られないし、望み通りの時を視られるわけでもないけどね」
それでも景真にはもう、コハクの言葉を疑う事など考えられなかった。
「それに……ケーマを一人でなんて行かせられない。心配で」
少し、意地悪な笑みを浮かべて言う。
初めてみる顔だな、と思いながらコハクを見つめていると、その視線に気づいたコハクはさっとむこうを向いてしまった。
「……分かった。一緒に行こう」
違う。
彼女がいなければ、この世界で俺は独りぼっちだ。
だから、成り行きでもなければ、コハクがそう望んだからでもない。
彼女が必要だから共に行きたいと、他でもない俺自身がそう望んでいる。
コハクは俺をここまで導いてくれた。
右も左も分からぬ俺は、その背中を追うのでやっとだった。
だけどここからは、肩を並べその隣を歩く。
――二人の願いを叶えるために。
だから、言うべきはこうだ。
「――いや、一緒に来てくれ、コハク」
景真の言葉にコハクが黙って頷く。
そうなると知っていたかのような確信めいた首肯だった。
「これからよろしくね、ケーマ」
「こちらこそよろしく。……こっちは世話になりっぱなしだけどな」
バツが悪そうに頭を掻く景真に、コハクがくすくすと笑う。
異界で迎えた初めての朝が終わり、その果てに何が待つのか、確かなことなど何一つない旅が静かに幕を開ける。
振り子の音はいつの間にか止んでいた。




