第四話 裏 異世界の朝 前
窓から柔らかく差し込む日の光と、聞き慣れない一方で耳障りの良い鳥の囀りで目覚める。
体を起こし、伸びをする。
――自分でも呆れるほどよく眠れた。
異世界に迷い込んで、見ず知らずの少女の家に上がり込み、異界のグルメと祭りを堪能した後に、だ。
景真の神経が図太い事も一因ではあるのだろうが、それよりもやはり狐耳の少女――コハクが景真を受け入れ、居場所を与えてくれた、その安心感があったからだろう。
何より、人間というのは腹いっぱい食って酒でも飲めば、大抵の不安や悩みは吹き飛ぶ生き物なのだ。
窓を開き、外の空気を入れる。
深く息を吸い込むと、風に乗って金木犀に似ているが、少し甘さを遠ざけたような香りが鼻腔をくすぐり、優しく眠気を奪っていく。
頭が冴えてくるにつれ、この先のことに考えを巡らせる。
すべき事は三つ。
一つは、行方不明になった一ノ瀬春華の手掛かりを探す事。
二つ、元いた世界に帰る手段を見つける事。
三つ、――コハクに恩を返す事。
春華はこの世界にいる。
まだ、それを裏付けるものは何一つ見つけてはいないが、景真はそう考えている。それは勘か、あるいは思い込みの類かもしれない。
それでも、その前提に基づけば自分がこのネビュラに飛ばされてきた事もまた必然であると思えるのだ。
そして、春華を追う事はきっと、帰る手段にも繋がって行くはずだ。
そこに星雲救世会が関わっている……つまり、人の意思が働いているのであれば、必ず異世界から現世へと渡る術が存在していなければならない。
あの時、教団施設の地下で見たそれは、魔術的であると同時に機械的な装置のようでもあった。
故に、あれと同じものがこちらの世界にもあるのではないか、と考える。
そして三つ目。
コハクは景真にとって希望そのものだった。
ただ、食事や寝床を与えてくれたのではない。
この世界で生きることを、存在を赦し、認めてくれたと感じた。
だから、彼女に何か望みがあるならばどうにかしてそれを叶えたいと思う。
“アオトカゲの女将”との会話を思い出すに、コハクもまた誰かを、あるいは何かを探している風だった。
ならば、詳しく話を聞けば春華探しのついでに情報収集をするくらいの事ならできるかもしれない。
ある程度考えがまとまったところで、柔らかいノックの音が鳴る。
「ああ」
返事をすると、昨夜と同じようにコハクが猫のようにするりと部屋に入ってきた。
「ケーマ、もう起きてたんだ。よく眠れた?」
「そりゃもう、ぐっすり」
そう答えると、コハクは安心したように微笑む。
「良かった。朝ごはん食べよう」
コハクについて食卓に向かう。
廊下にはすでに食欲をそそる匂いが漂っていた。
テーブルには丸いパンと、干し肉を下敷きに焼かれた目玉焼きが並び、牛乳のような白い飲み物が添えられている。
その既視感のある食卓に心から安堵している自分に気付く。
昨晩、祭りで食べたゲテモノ……もとい珍味の数々は、どれも口に入れてしまえば美味であったが、やはり食べるたびに勇気を求められると疲れてしまう。
「美味そうだな。コハクが作ってくれたのか?」
コハクは頷いてから、少し得意げに答える。
「パンとホルホ鳥の卵は今朝市場で買ってきた。ミルクは知り合いの所で少し絞らせてもらってるんだ」
ネビュラにも牛のような動物がいるようだ。
「干し肉は今回の旅で残ったぶん。火を通すと柔らかくなる」
「そういえば、女将さんと”公都”に行ってたって話してたな。何か探し物か?」
絶好の話題になったので、すかさず質問する。
コハクは少し逡巡した後、口を開いた。
「……お母さんを、探してる。四百年くらい前に、いなくなった」
――思わず、言葉を失った。
時間的感覚のあまりに大きな違いに頭が追いつかない。
果たして自分が千年を生きるとして、四百年前の亡くしものを探そうと思えるだろうか。
「あの頃は特に空穴が不安定だったから、もしかしたら空穴に飲まれたのかもしれない」
そう言うコハクの言葉に微かに諦観の色が滲み、僅かに伏せられた長い睫毛に心臓が突き動かされる。
「それなら、俺が君のお袋さんを連れ戻す方法を探す」
咄嗟に言葉が口をついた。
それは、軽率な言葉だったかもしれない。
あるいは、偽りの希望を与えただけだったかもしれない。
それでも、普段あまり表情を変えることのない少女が微かに覗かせた孤独の色を、僅かでも塗り返したいと願った。
「俺も人を探してて、このネビュラに飛ばされたんだ。俺はその人を見つけ出して、帰る手段も探す。もしコハクのお袋さんが向こうにいるなら、見つけ出してこっちに送り返してやる」
根拠もなしに、自信たっぷりに言い放つ。
そんな自分を一歩離れた所から、「なにヒーロー気取ってんだ」と冷ややかに笑う自意識に苛まれる。
己の発言に血が上り、顔が熱くなった。
だけど、後悔はなかった。
「うん」
目尻に涙を溜めて小さく頷き、たったそれだけ答えた花が開くような笑みが、そんなものは優しく吹き飛ばしてくれたのだ。
この約束を抱いて、明石景真の旅は幕を開ける。




