第二話 裏 渡り人 前
焼けたアスファルトの匂い。蝉の声。錆びた門。白い神殿。傷と血。痛み。血の匂い。黄昏。静寂。白い女神像。ハッチ。黒い穴。降りて行く。闇の底。白光の空間。巨大な機械扉。機械音声。血の魔法陣。響く聖句。
――沈みゆく、身体と意識。
沈みきると、すぐに浮上を始める。
どんどん加速し、雲を抜け、成層圏を越え、重力を失う。
時間の流れが無作為に変調し、空間もまた自由に伸縮する。
無数の歯車が無限の時を刻み、やがて摩耗し朽ち果てる。
朽ちた歯車は銀河を流れ、巡り、回帰する。
身体は星の海を、光より速く、早く、突き抜けて行く。
精神が、その姿をどこまでも追いかける。
――やがて、辿り着いた。
永劫のような、
あるいは一瞬のような旅の果てに。
星雲へと。
――そして、精神が肉体に追いつき、あるべき形を取り戻す。
「――――はッ!!」
荒い呼吸とともに、全身から汗が噴き出しているのを感じる。
まただ。
土の感触と、草の匂い。薄桃色の葉、見知らぬ森。
先ほどまでと変わらない景色に、夢などではなかったと実感する。
開いた目線の先には心配そうに景真の顔を覗き込む、狐の耳を持つ少女。
「気がついた?」
少女の言葉が朦朧とした意識に染み渡る。
全く知らない言語のはずなのに、その意が慣れ親しんだ母語のように自然と意識に融けていく。
「君は……ここは?」
思考がまとまらない。
手のひらから脳へとせり上がる痛みに襲われたところまでは憶えている。しかし今は痛みは嘘のように消え失せている。
「私はコハク。ここはネビュラ。――あなたは多分、ワタリビト」
――ワタリビト。
気を失う前にも聞いた言葉だ。
彼女が名乗ったコハクという名も、見知らぬ言語ではなく日本語の響きだった。
意識が定まったのを確認して起き上がる。
周囲を見渡すと、やはりここは気を失う前に水を飲んだ泉のほとりだ。
「……俺はどれくらいの時間倒れてた?」
なぜ通じるのか解らない言語を、意識して丁寧に話す。
「ニ、三分。痛いところはない?」
十四、五歳くらいに見えるコハクと名乗る少女はしかし、それに似合わぬ落ち着いた声で言う。
やはり言葉が通じている。
そこに疑問はあるものの、考えたところで答えなど出ない。
何にせよ、見知らぬ地で言葉も通じないよりは遥かにマシだ。
「……大丈夫みたいだ」
確かめるように、少し伸びをしてから立ち上がってみる。
痛みどころか生まれ変わったかのように身体が軽く、思考も澄み渡っている。
おまけに、なぜか左腕の傷も消えていた。
「良かった」
微かに微笑む。
決して華やかではないが、密やかに咲く野花のような笑みで。
「ここの事は歩きながら話す。あなたの事はなんて呼べばいい?」
「景真、明石景真だ」
「アカシ、ケーマ」
景真の名にピクっと耳が反応し、それを反芻するように復唱する。
「どうかしたか?」
訊ねると、少し思案する素振りを見せる。尻尾が別の生き物のように揺れている。
しかし、
「なんでもない。行きましょう」
そう言って歩き出したコハクの後を追う。
「行くって、どこへ?」
「――ゴンド温泉郷。私の、生まれ故郷」
風が渡り、振り向いて言う少女の、琥珀色の瞳が揺れる。
微かな、硫黄の匂い。




