第二話 表 異界との遭遇 後
――ネビュラ。
それがわたしの生まれた世界の名です。
女神オルフェナが産み、アニマが育みし世界。
そこに住むのはあなた方にそっくりなヒト族、わたしのような狐族、森に住まうエルフ族など大きく分けて十二の種族。
されど、女神の庇護の元、大きな争いもなく暮らしておりました。
私は”樹海の階”と呼ばれる山脈に位置するゴンドという村に生まれ育ちました。
火山が近く、温泉の湧く美しいところです。
樹海の階は空穴が発生しやすい場所として知られていました。
空穴というのは、言わば空間の歪み……のようなものでしょうか。
こちらの世界――わたしたちはオービスと呼んでいましたが、こちら側と繋がっていると考えられていました。
空穴に飲まれた者は二度と戻らず、逆に空穴からネビュラに現れる者もおりました。
ネビュラでは迷い込んだオービスの民を『ワタリビト』と呼び、その存在を女神の啓示であるとしていました。
――四百年も前のことになるでしょうか。
ゴンドの空が裂け、私を飲み込んだのは。
その後ここ、苔守村で目覚めたわたしは、この姿と未来視の力でウカノミタマノカミの化身として奉られる事となったのです。
小さな農村で祀られる現人神の正体は、異世界からの迷い人だった。
よくある話だ。――フィクションの世界では。
軽い頭痛を覚えこめかみを押さえなら遼が口を開く。
「……あなたは異世界からこの村にやって来て、四百年も生きている、と」
「その通りです。信じてもらえるかは分からないけれど」
当然、鵜呑みにできるような話ではない。
しかし、疑う余地のない点も確実に存在する。
それは今日この村を一人の男が訪れ、その男の名が一ノ瀬遼である事を知っていた、という点だ。
こればかりは超常の力の存在を認めるか、あるいは巨大な権力の介在を想定するしかない。
前者は今彼女が説明した通り。
後者であれば――教団との繋がりを疑うべきだろう。
「未来視……それはそのネビュラでは誰もが持っている力ですか?」
まずは問いを立ててその設定の綻びを探る。
「誰でも、という訳ではありません。未来視は特に、私たち狐族が得意とする力です」
一呼吸置いて燈に目配せをすると、彼女は隣の部屋へ消えていった。
「ネビュラではアニマという目に見えない力の根源……魔力のようなものが水に、風に、大地に満ちていて、それに触れることで人は奇跡を得るのです」
ヒスイは自らの思考を描くように人差し指を宙に泳がせる。
「その発現の仕方には種族差や個人差があり、多くの人は奇跡には届きません」
遼は顎に手を当てて疑問点を口にする。
「アニマがネビュラ固有のエネルギーなら、なぜこちら側……オービスでも未来視の力を?」
「ネビュラにおいてアニマは万物に、つまりそこに生きるものにも宿っているからです。こちらでは私の中に存在するアニマを言わばMPのように消費して行使しています」
(……ん?)
朗々と解説するヒスイの言葉の中に、何か場違いな語句が紛れ込んでいた気がする。
ちょうどお盆に載ったお茶を運んできてくれた燈の方を見ると、彼女は無言で目を逸らした。
遼は小さく咳払いをする。
「消費する……あなたの中にあるアニマを使い切るとどうなるのですか?」
アニマが生命を司るのだとしたら、それを失うことは即ち死を意味するのだろうか。
その危惧を見抜いたように、ヒスイが微笑んで答える。
「時が経てば回復するのでご安心ください」
――深緑の瞳が、遼を覗き込む。
心の奥底、遼本人すら知らない無意識まで見透かされている。そんな錯覚に陥った。
「――不思議ですね。貴方の中には微かですが、アニマを感じます。だから――」
目を閉じ、湯呑みを口に運ぶ。こくり、と白い喉が動く。
「きっと、わたしの呼びかけが届いたのですね」
そう言って微笑むヒスイの顔が、泡沫に溶けた母のそれと重なる――
ふと、ヒスイの視線が遼の右下に注がれている事に気づく。
視線の先にあったのは、真っ赤なトマトが透けるビニール袋だった。
「……食べますか?」
大きな耳がピクンと跳ね、尻尾がゆらゆら揺れる。
犬のようにその感情を表現する尾や耳は、やはり作り物には見えない。
「ヒスイ様っ!」
燈の声にヒスイの肩が揺れた。
燈は呆れたように小さくため息をつく。
「……洗って来ますから少し待ってください」
そう言って遼から袋を受け取ると、お辞儀をしてからまた部屋を出て行った。
――その景色に姉と、自分とを重ねる。
子供の時分から春華は文武両道を地で行っていた。
勉学はもちろんのことスポーツ万能で、おまけに学校では皆のリーダーとして振る舞う。
だが、家での春華はなかなかのポンコツぶりであった。
料理をすれば食す者を冥府へと誘い、掃除をすればより混沌を広げ、洗濯をすれば衣服を燃えるゴミに錬成した。
なんでも器用にこなす遼はなぜ、頭の良い姉がこんな事もできないものかと子供心に疑問だったが、いつしかそれは『自分が姉を支えねばならない』という思いに変わっていった。
元より、多忙な父が支える父子家庭だ。
自分にできる事はなんでもやろうと思った。
家を守り、父と姉をサポートする傍ら勉強も一切手は抜かなかった。
姉は家事全般を遼に押し付けてしまっている事を常々詫び、父は家事代行サービスの利用を提案してきた。
しかし、遼はそれを固辞した。
遼にとってそれは母を喪った一ノ瀬家を守るための、大切な”儀式”だったのだ。
――隣室から水音が聞こえる。燈がトマトを洗っているのだろう。
「姉君の事を考えてらっしゃいますね」
ヒスイの問いかけに背筋が冷える。
この人は、どこまで視えているのだろう。
これも”アニマ”とやらの力なのか。
「……姉のことも、ご存知なのですね」
微かに俯き、眼鏡を押さえてから問うとヒスイが静かに頷く。
「姉君はきっと――ネビュラにいらっしゃいます」
その言葉で、頭の中で纏まりつつあった突拍子もない考えが結晶化する。
「星雲救世会……あれは遥か昔からネビュラに存在する邪教と繋がっています。……彼らはどうやら、ネビュラとオービスを行き来する手段を持っているようなのです」
「つまり教団を追う事がそのまま姉の行方と、あなたがネビュラに帰還する手段に繋がる――と」
バラバラだったピースが一枚の絵に結実していく。
まるで運命のようにこの地に導かれ、神秘に触れ、異世界を垣間見た。
それでも遼は、運命などというものは信じない。
身を委ねることもない。
自らの意思で、この信じがたい現実と対峙する。
家族を取り戻すために。
「正直に言うと、私はあなたが星雲救世会と繋がっているのではないかと考えていました。――今でもその疑いを完全に拭いきれていません」
「それは……無理もありません」
ヒスイはそう言って俯くと、すぐに顔を上げて遼を正面からみすえる。
「――ただ一つだけ、お約束します。わたしは決して、あなたを裏切らないと」
その言葉すら罠かもしれない。
そんな思考も、そのどこまでも透明な翠の光によって消え去っていく。
燈が籠に移したトマトを持って部屋に戻ると、ヒスイはぱぁっと顔を輝かせた。
ニコニコ顔で籠に手を伸ばすと、その中から一番大きなトマトを鷲掴んで豪快に頬張る。
「あっ! ヒスイ様、汁が垂れてます! 小袖に!」
あーあ、と漏らしながらティッシュで必死にその胸元を拭う燈。
あらあらなどと呟きながらも尻尾をゆらゆらさせながらトマトを齧るのをやめようとしないヒスイを横目に、遼もその赤い実を掴み口へ運ぶ。
一口齧ると、果汁とともに甘味と酸味が口いっぱいに広がる。
禁忌に触れた、知恵の実の味が。




