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第二話 表 異界との遭遇 後


 ――ネビュラ。

 

 それがわたしの生まれた世界の名です。

 

 女神オルフェナが産み、アニマが育みし世界。


 そこに住むのはあなた方にそっくりなヒト族、わたしのような狐族、森に住まうエルフ族など大きく分けて十二の種族。

 されど、オルフェナの加護の元、大きな争いもなく暮らしておりました。


 私は”樹海の(きざはし)”と呼ばれる山脈に位置するゴンドという村に生まれ育ちました。

 火山が近く、温泉の湧く美しいところです。

 

 樹海の階は空穴(くうけつ)が発生しやすい場所として知られていました。

 

 空穴というのは、言わば空間の(ひず)み……のようなものでしょうか。

 こちらの世界――わたしたちは”オービス”と呼んでいましたが、こちら側と繋がっていると考えられていました。


 空穴に飲まれた者は二度と戻らず、逆に空穴から現れる者もおりました。

 ネビュラでは彼らを『マヨイビト』と呼び、その存在そのものが()()()()として扱われたのです。


 ……四百年も前のことになるでしょうか。

 ゴンドの空が裂け、私を飲み込んだのは。

 

 その後ここ、苔守村で目覚めたわたしは、この姿と未来視の力でウカノミタマノカミの化身として奉られる事となったのです。



 静かにその柔らかな声に耳を傾けていた遼が口を開く。

「未来視……それはそのネビュラでは誰もが持っている力ですか?」

「誰でも、という訳ではありません。未来視は特に私たち狐族が得意とする力です」

 一呼吸置いて燈に目配せをすると、彼女は隣の部屋へ消えていった。

「ネビュラでは”アニマ”という目に見えない力の根源……魔力のようなものが水に、風に、大地に満ちていて、それに触れることで人は”奇跡”を得るのです」

 ヒスイは自らの思考を描くように人差し指を宙に泳がせる。

「その発現の仕方には種族差や個人差があり、ほとんどの人は”奇跡”には届きません」

 遼は顎に手を当てて疑問点を口にする。

「”アニマ”がネビュラ固有のエネルギーなら、なぜこちら側……オービスでも未来視の力を?」

「ネビュラにおいてアニマは万物に、つまりそこに生きるものにも宿っているからです。こちらでは私の中に存在するアニマを言わばMP(マジックパワー)のように消費して行使しています」

 (……ん?)

 朗々と解説するヒスイの言葉の中に、何か場違いな語句が紛れ込んでいた気がする。

 ちょうどお盆に載ったお茶を運んできてくれた燈の方を見ると、気まずげに目を逸らす。

 

 遼は小さく咳払いをする。

「あなたの中にあるアニマを使い切るとどうなるのですか?」

 アニマが生命を司るのだとしたら、それを失うことは死を意味するのだろうか。

 その危惧を見抜いたように、ヒスイが微笑んで答える。

「時が経てば回復するのでご安心ください」


 ――深緑の瞳が、遼を覗き込む。

 心の奥底、遼本人すら知らない無意識まで見透かされている。そんな錯覚に陥る。

 

「――不思議ですね。貴方の中にも微かですが、アニマを感じます。だから――」

 目を閉じ、湯呑みを口に運ぶ。こくり、と白い喉が動く。

「きっと、わたしの呼びかけが届いたのですね」

 そう言って微笑むヒスイの顔が、泡沫に溶けた母のそれと重なる――


 ふと、ヒスイの視線が遼の右下に注がれている事に気づく。そこにあったのは――真っ赤なトマトが透けるビニール袋だった。

「……食べますか?」

 大きな耳がピクンと跳ね、尻尾がゆらゆら揺れる。

「ヒスイ様っ!」

 燈の声にヒスイの肩が揺れた。

 燈は小さくため息をつき、

「……洗って来ますから少し待ってください」

 そう言って遼から袋を受け取ると、お辞儀をしてからまた部屋を出て行った。


 ――その景色に姉と、自分とを重ねる。


 子供の時分から春華は文武両道を地で行っていた。

 

 勉学はもちろんのことスポーツ万能で、おまけに学校では皆のリーダーとして振る舞う。

 だが、家での春華はなかなかのポンコツぶりであった。

 料理をすれば食す者を冥府へ誘い、掃除をすればする前より散らかし、洗濯をすれば衣服を燃えるゴミに錬成した。


 なんでも器用にこなす遼はなぜ頭の良い姉がこんな事もできないものかと子供心に疑問だったが、いつしかそれは『自分が姉を支えねばならない』という思いに変わっていった。


 元より、多忙な父が支える父子家庭だ。

 自分にできる事はなんでもやろうと思った。

 家を守り、父と姉をサポートする傍ら勉強も一切手は抜かなかった。

 姉は家事全般を遼に押し付けてしまっている事を常々詫び、父は家事代行サービスの利用を提案してきた。

 

 しかし遼にとってそれは、母を持たない一ノ瀬家を守るための大切な”儀式”だったのだ。



 ――隣室から水音が聞こえる。燈がトマトを洗っているのだろう。

「姉君の事を考えてらっしゃいますね」

 ヒスイの問いかけに背筋が冷える。

 この人は、どこまで()()()()()のだろう。

 これも”アニマ”とやらの力なのか。

「姉のことも、ご存知なのですね」

 微かに俯き、眼鏡を押さえてから問うとヒスイが静かに頷く。

「姉君はきっと、ネビュラにいらっしゃいます」

 その言葉で、頭の中で纏まりつつあった突拍子もない考えが結晶化する。

「星雲救世会……あれはネビュラに存在する邪教と繋がっています。……彼らはどうやら、ネビュラとオービスを行き来する手段を持っているようなのです」

「つまり教団を追う事がそのまま姉の行方と、あなたがネビュラに帰還する手段に繋がる――と」


 バラバラだったピースが一枚の絵に結実していく。

 まるで運命のようにこの地に導かれ、神秘に触れ、異世界を垣間見た。

 それでも遼は、運命などというものは信じない。

 身を委ねることもない。

 自らの意思で、この信じがたい現実と相対するのだ。


 燈が籠に移したトマトを持って部屋に戻ると、ヒスイはそれを鷲掴み豪快にかぶりつく。

「あっ! ヒスイ様、汁が垂れてます! 小袖に!」

 あーあ、と漏らしながらティッシュで必死にその胸元を拭う燈。

 あらあらなどと呟きながらも尻尾をゆらゆらさせながらトマトを食べる手を止めないヒスイを横目に、遼もその赤い実を掴み口へ運ぶ。


 一口齧ると、甘味と酸味が口いっぱいに広がる。

 禁忌に触れた、知恵の実の味が。

 

 

 

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