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あなたが世界を愛さずとも  作者: 甘
春日野について
10/43

岐路⑴




泳ぐ。


泳いでいく。




水中にもぐり、流れをかき分けながら、速く、速く、泳ぎ続ける。


たどり着いたゴールで、空中に顔をさらせば、地響きのような歓声が降り注ぐ。生きている実感が猛烈に湧いてくる。



もっと、泳ぎたい。


気持ちのよい息苦しさに、感極まる瞬間に、酔いしれていたい。



あぁ、まだ、もう少しだけ――……





『競泳選手の雪 京志郎(ススキ キョウシロウ)さんが、昨日の朝方、新宿駅付近でトラックに轢かれ――』




――ブツリ。容赦なく消えた。




液晶画面が黒く濁る。



リモコンを投げ捨てた手で、そうっと右肩に触れた。鎖骨のあたりから少しずつ金切り声が上がっていく。


声は、なんとか押さえこんだ。築30年のおんぼろアパートで叫び散らせば、確実に隣人か大家さんから苦情をもらうはめになる。これ以上の災いは勘弁だ。


奥歯を噛み締めると、歯ぎしりが鳴る。ギチギチとした耳障りな音。骨の軋んだ音と似ている気がして、自然と表情筋が歪んだ。



なんでだよ。


ふざけんなよ。


おかしいだろ。



なんで。




自分で言っちゃなんだが、俺は名の知れた競泳選手だった。


名の知れたといっても、たかが知れた界隈程度で、薄型テレビの中の華やいだ人たちのそれとは比べものにならない。


けれど、まあ、それなりに有名だったのはたしかだ。



大会に出れば必ず3位以内に入り、何度も記録を塗り替え、18歳の期待の新生として界隈を騒がせた。


来年のオリンピックに必ず出場することになる――誰もが口を揃えて、俺を称えてくれた。



選手寿命は短い。だからこそ、来年のオリンピックが一番の好機だった。


世界水泳選手権大会で結果を残した。トレーニングだって欠かさずやって、肩と背中の筋肉を鍛えてきた。食事にも気をつかっている。最高の状態に仕上げるためならどんな苦労もできた。



それが、どうだ。


どうなっているんだ。




つい24時間前のことだ。




年の瀬も変わらず、早朝から日課のランニングをしていた。


整備された街並みに沿って代々木から新宿まで走る。冬の冷えた空気を顔面に受けては鼻先を赤らめた。


新宿駅の近くまでやってくると、モダンな喫茶店の前に人だかりができていた。小中学生っぽい少女とカメラを持った大人がいる。すぐに何かの撮影だと察した。



朝から大変だな、と他人ごとのように通り過ぎた、その直後。


視界の端を、わずらわしいほどのカラフルな色彩が横切った。


空に飛び立つ、色とりどりの風船。


スタッフらしき女性が風に逆らい、手を伸ばした。ひもはするりと手のひらをすり抜け、白の目立つ空を飾り立てていく。



あの人が不手際でやらかしたんだろうと同情しながら、走り直そうと体勢を整えた矢先――キキィ! とブレーキ音が静寂を切り裂いた。



交通量の少ない朝方の道路を、1台の大型のトラックが占めていた。


青く点いた信号を過ぎたトラックの50メートル先には、風船を追いかけ道路に踏み出した、小柄な女性が。



頭で考えるよりも早く、体が動いていた。よくそう言うけれど、あのときほどあてはまることは後にも先にもないだろう。




……そこからはニュースのとおりだ。



女性を庇った俺の体が代わりにトラックに突撃した。


軽傷で済むわけもなく、あらゆる箇所がつぶれ、救急車に運ばれた。


あのときの悲鳴と謝罪には参った。傷に障る、響く。激痛のせいで、黙れとも言えない。言えたとしても言うつもりはなかったが。



3日以内に退院したのは、俺の希望だった。一人暮らしで荷物を取りに帰らなければいけないとか、家族に心配かけたくないだとか、建前はいくらでも吐き出せた。


医師は悩んだ末、頭や下半身に問題がなかったため、半日だけ仮退院を許してくれた。


ただ、ひとりになりたかった。




――トラックに轢かれ、肩と腕を損傷しました。幸い、命に別状はなく、すでに仮退院されたとのことです。


――事故現場の近くで、雑誌の撮影をしていたようで。スタッフが事故に遭いそうだったところを、危険を承知で助けに行ったそうですよ!


――自分の身を投げ打ってでも人命を救うなんて……まるでヒーローみたいですね。




このやりとりを何度聞いたことか。台本でもあるのかとつっこみたくなるくらい、どこのメディアも似たようなことを話していた。


マスコミのお好きな美談。感動もののノンフィクション。


んなもんクソくらえだ。


なあにがヒーローだよ。どこにも幸いなとこなんかねえんだよ。ふざけるな。



俺はヒーローになりたかったわけじゃない。


競泳選手のトップに立ちたかったんだ。



現実は、理不尽だ。




「右腕、右肩ともに複雑骨折、靭帯損傷しています。完治すれば生活する分にはなんら支障はありません。……ですが、水泳をするとなると、少々むずかしいかもしれませんね」




はじめは何を言っているのかわからなかった。


支障はない? むずかしい? は? どっちだよ。はっきりしろよ。……頼むよ。聞き間違いであってくれ。



願いは虚しく打ち砕かれた。


俺の選手生命は、その日突然、絶たれたのだ。



悪い夢かと思いたかったが、右半身の痛みがそうさせてはくれない。


肩より上に腕が上がらない。肩を回せない。したければ、ナマケモノより遅く動かさなければならない。


競泳選手として活躍することは、二度と叶わない。



肩より、腕より、心臓のほうが何億倍も痛かった。


ひさしぶりに人前で泣いた。何も言わずに悔し涙を流す俺に、医師は申し訳ないと言わんばかりに項垂れた。



――手術をしたら、もしかしたら……。



最後にそう言われたが、俺には虫の音も同然だった。



俺ん家は、いわゆる大家族だ。


長男の俺を含め、兄弟が8人。実家には、小学生の双子、高校受験を控えた弟、高専の妹がいる。


幼いころから貧困生活を余儀なくされ、選手として肩書きを持つようになってからも、トレーニングや食事制限は基本的に自己流で補い、でき得る限り金を使わないやり方を模索し続けた。


賞金は実家に仕送り、俺の手元にはほとんど残っていない。



手術には多額の費用が必要になる。


どうにかして手術代を払えたとしても、リハビリには時間がかかる。オリンピックには間に合わないだろう。


競泳選手としてのピークは、桜のように儚いものだ。欠陥があるならなおのこと。


最近になってようやく努力が報われてきた若輩者が、借金してでも払う決断を背負うことはできない。



俺は、それほど強くないのだ。




こんなことになるなら。


わかっていたら、俺は――。



あぁ、ほら。やっぱりな。


俺はヒーローでもなんでもないんだよ。




オリンピックは早々にあきらめた。


泳ぐ側はできても、教える側はどうも苦手で、コーチやトレーナーに転身するのは至難の業に思えた。大金と天秤にかけた結果は正しかったのだ。



さて仕事だ転職だと悩んでいると、幼なじみから連絡がきた。自身の所属する小さな芸能事務所で、裏方を募集しているのだそうで、俺は一も二もなく飛びついた。


入院している病室で特別に社長とオンライン上で面接をし、晴れて合格。はじめは付き人かと思っていたが、人手不足なこともあり、いきなりマネージャーとして雇われることになった。



年が明け、無事に退院できた10日後には、初出勤。社長自ら出迎え、端的な指導をしてくれた。


詳しい芸能界の構造や知識はおいおいとして、まずは社会人のマナーや仕事の優先事項を叩きこまれた。マネジメントをむずかしいことと捉えず、担当を責任もって監督する、サポートする、その意識をまっとうするようにとのこと。


体力勝負な面もあると聞いた。それなら自信がある。右肩と右腕は生活するレベルでは動かせるし、左側を駆使すれば受け身も取れる。俺にもできそうな仕事だ。



初の現場は、1月25日、土曜日。


世界で一番憎き場所となった新宿だと知らされたとき、何の因果かと新年早々神様を呪いたくなった。



午前9時。とあるビルにある撮影スタジオに、シャッター音が反響した。


ティーン向けのファッション雑誌『milky(ミルキー)』の着回しコーディネート企画で、撮っては衣装替え、撮ってはメイク直しを繰り返している。



その片隅で俺はたたずみながら、カメラのレンズの奥を眺めた。3人の女の子たちがヘアメイクをほどこし、ポーズを決めている。


そのうちの左端の子が、俺の担当。中学1年生の幼い少女だ。


名を、春日野妃希。中学に上がったタイミングで雑誌に載るようになった新人モデルだ。



はじめて会ったとき、彼女は、紺色のセーラー服を着ていた。




「はじめまして、春日野さん」


「さん付けなんて。わたしのほうが年下ですよ?」


「春日野ちゃん?」


「……なんだか……」


「……キモいな。春日野にしましょう」


「ええ、わたしもそれがいいです。よろしくお願いします、雪マネージャー」




高専に通う妹も、最近まで赤いスカーフを結んでいた。ふんわりとかわいく結ぶのに手こずっていた思い出をなつかしんでいたら、いつの間にか緊張は解けていた。



中学生といえば、思春期と反抗期のダブルパンチだ。


生意気な物言いをしていたり、人目を気にしすぎていたりするのではないかと心配していたけれど、その必要はなかったようだ。



彼女は、妹よりもうんと整っていて、慎み深い。


日焼けを知らなそうな白い肌、傷みのない黒い髪は、少女を少女たらしめているが、それを鼻にかけることはない。


人形みたいに繊細で、天使みたいに凛々しく、隣の席の子みたいに無害そうな、ごくふつうの女の子だ。



聞けば、この撮影は読者モデルとしてだが、年度の変わる4月号から専属モデルに昇格するそうだ。


どちらも同じモデルではないかと疑問に思ったが、けっこうなちがいがあるらしく、収入はもちろん、掲載ページの数や認知度も大きく変わってくるとのこと。


いわば、入賞止まりから表彰台まで登りつめたということだ。それはすごい。



白い壁を背景に次々とポージングしていく女の子たちは、素人目にはすでに立派なモデルに見えた。


シャッター音に合わせ、表情やら体勢やらころころ動いていく。コマ送りのアニメーションのようで見ていて退屈しない。


俺にはできない芸当だし、これまで生き抜いてきた世界ともまるでちがう。蝶よ花よと囲まれた現場は、さながら異世界で、なんだか居心地が悪く感じた。



それにしても、どれだけ撮るのだろう。


現場入りしてから、かれこれ2時間が過ぎた。その間に女の子たちの服装は少なくとも5回は変わり、スタッフは常にばたついている。


パソコンの大画面に、撮影された画が写り出されていく。同じ衣装で何十枚も撮り、選りすぐりの画をスタッフが話し合っていた。俺にはどれも同じで、どれもいいと思うのだが、やはり専門家の目にはちがって見えているようで、厳しくふるい落としている。



モデルも大変だな。真冬だってのに、寒いなか、薄着で笑ってなきゃいけねえんだから。


暖房は効いていても、素足を出していれば寒いに決まっている。スーツを着てる俺でさえ寒くてたまらない。


かわいい! すてき! いいね! と、スタッフが絶え間なく黄色い声援を送るのは、少しでも彼女たちをあたためようという心の表れだろうか。




「妃希ちゃん、寒くない?」


「うーん……ちょっと?」


「ちょっとじゃないでしょ! 手、冷たいよ!?」


「あたしがあっためてあげるう〜!」




春日野以外の2人はカーディガンを羽織ったり、毛皮のついた薄手のニットを着たりと比較的防寒できており、春日野を挟んでおしくらまんじゅうを始める。


かわいらしい光景だ。女の子たちがいちゃついてるのは、見ていて癒される。


カメラマンもたまらずシャッターを切った。オフショット決定ですね、とスタッフがほほえましげに見守っている。




「ひゃあ! くすぐったいよ」


「にしし! あったかいでしょ?」


「もっとぎゅうっとしてやるぞ〜〜!」


「あはは! 押しつぶされちゃう!」




春日野も、あんな、ガキっぽい顔をするんだなあ……。


うれしいような、見てはいけないところを見てしまったような……。



俺を含めた大人の前では、学級委員長のように礼儀正しく、冷静沈着な対応をしていることが多く、年相応のはしゃぎっぷりは、今はじめて目の当たりにした。


そうだよな。おどろくことじゃない。なんたって彼女は、齢14の未成年なんだ。


ガキがガキみたいな真似をして、何がおかしい? むしろこれまでの態度が大人すぎたんだ。


彼女なりに背伸びでもしていたんだろう。想像すると、かわいらしさのあまり笑いそうになった。




「この服のまま、アクセの撮影に入ります」




スタッフがモデルたちにイヤリングや指輪などを付けていく。金属品が加わるだけで、印象がガラリと変貌した。


アクセサリーの威力を思い知り、感嘆の息を漏らした。今までさして興味なかったが、アクセサリーって奥が深いんだな。



そういえば、昔、先輩が言っていた。




「今日のあたし、いつもとちがくなあい?


――って、カノジョに聞かれたんだけどさ。あれ、ヤなんだよな。間違えると機嫌悪くなって、せっかくのデートがぶち壊しなんだよ。結局俺のほうが折れてやって、何がちがうのか聞いたら、ピアス開けたんだと。そんなことかってつい言っちまって、またカノジョが怒り出してさあ。はあ……めんどくさかった……。でもピアスひとつで変わんねえよな? おまえもそう思うだろ?」




早口でまくし立てられてもぶっちゃけよくわからず、生半可に同意した覚えがある。今になって後悔してきた。


なんだよ、先輩。全然ちげえじゃんか。付けるのと付けないのとじゃ、柴犬とコーギーくらいちげえよ。


先輩の意見が多数派なことにおどろきを隠せない。意外だ。世のカレシくんたちは、揃いも揃って目が節穴なのか。残念だ。少しは俺を見習ってほしい。なんつって。



自画自賛している間に、撮影は進んでいた。


先ほどまで3人が並んでいた場所に、木製の椅子が用意されてある。そこに順々にモデルが座り、胸元から上をクローズアップして撮っていた。



春日野は最後で、今はハーフアップに髪型を変えた女の子のターンだ。


名前は、えーと……。いや、覚えてる。喉まで出てるんだ。あ、あ、…………あっ! アイルって子だ!


2時間前に挨拶をして、めずらしい名前だと思ったんだ。春日野の2個上で、モデル歴も長いと聞いた。



だめだな。こんなところでつまづいてちゃ。記憶力もこれから鍛えていかねえと。俺はマネージャーとしてやっていくんだから。




「うんうん。アイルちゃん、いいよ。そう。……うん、いいね。その表情、最高だ」


「えへへ〜」




カジュアルかつ鮮やかな色の服装に、ゴールドのイヤリングとネックレスが映えている。どちらも大振りな装飾で、コーディネートをさらに華やかにしている。


洋服だけだとストリート系の元気っ子だった。アクセサリーを身に付けると、こなれたお姉さん感が増す。



劇的な変化を逃すまいと、焦った様子でカメラマンがレンズを覗く。それほどまでに少女は一瞬にして羽化してしまうのだと、少女自身が訴えているようで、心拍数が上がった。




「もう少し、顔をななめにして……そう! いいよ。かわいい。その調子」


「はーい!」




カメラマンの指示は的確だ。


アイルが小首を傾げると、パーマがかった髪の毛が波を打つ。風鈴みたくイヤリングが揺らめきながら垣間見えた。


きらりと飾りの光沢がまばゆいだタイミングで、機械音が響き渡った。写真を確認しなくてもわかる。いい画が撮れた。



うまい。プロってやっぱすげえな。


プロ……いいな……。




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