三話目
「きききき北薗さっ!確認お願いしますっ!!」
そう言って、嫌に姿勢を正した男が書類を手渡してきて。
「……そこ置いてて」
画面から目を離すこともなくそう答えた私の言葉を聞くや否や男は机にボスンッと紙の束を置くと驚くほど俊敏に私の前から姿を消した。
否、足早に自席に戻っていった。
……はぁ。ここを辞める気は無いとは言え、毎日毎日ここまであからさまな態度を取られると疲れるわと内心嘆息し、チラリと時計に目を向ける。
それは私が働き始めてから4時間はぶっ通しでパソコンに向かっていたことを教えてくれて。
……流石に疲れた。
一息つこうと財布片手に席を立った私が向かった先は一つ下の階にある、休憩スペース。
ではなく、建物外に出てすぐにある自動販売機。
休憩スペースもあるにはあるが、私がそこにいると周りの人間が遠巻きに私に視線を寄越し、逆に疲れて休憩にならないから。それなら初めから、例え徒労だとしても誰も来ない所で一人、一息ついた方がよっぽど賢明だ。まぁそういう訳で外に出てきた次第なのだが。
「……暑い」
8月初旬の今日、アスファルトの向こう側は陽炎がゆらりゆらりと燃えていて。日陰でさえジワリと背中に汗が浮いているのに、ここを一歩出たらと思うとぞっとする。ぼんやりとそんな事を考えながら、もはや私のお気に入りとなってしまった自動販売機と対峙する。
それからいつものように、レモンティーを押そうとした私を他所に
「うわぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
真後ろから、ぎょっとする程大きな声が辺りに響いた。その声にビクリと肩を震わせた私は
「……コーンポタージュ」
一段下の“あったかい”とプレートのついたそれを押してしまって。ガコンッという音と共に落ちてきたのも紛う事なきそれだった。
……百歩譲って水であって欲しかった。最高気温43℃とまで言われている今日、さすがにこんなものは欲しくなかった。なんとも言えない微妙な気持ちで元凶の、声の主を振り返ると。
「いった……たた」
どうやったらそんなに汚れられるんだろうと逆に感心するほどに泥まみれの、ヒョロヒョロした男がうつ伏せで横たわっていて。その状態からよろよろと起き上がろうとしている所だった。
しかも男はそこそこ値が張りそうな、スーツを身に付けていて。
……うん、近付きたくない。すこぶる近付きたくない。そう、思いはしたが。
その男の元にゆっくりと歩みを進めると、足音で分かったのか男も顔を上げ、私を見つめてきて。
それから、男と目を合わせる事数十秒。
無言の間を切り裂いたのは私だった。
男の前に、たった今手に入れたそれをそっと置いた私は何を言うでもなく、再び立ち上がると踵を返して歩き始めた。
そんな私の背後に、
「あっ、ありがと、ございます!」
これまた気の弱そうな声を出した男はそう叫んでいて。
その声に、片手を上げてふるりと振った私は冷房の効いた建物内に入るべく歩を進めた。
……嫌味のつもりだったんだけどなぁと、一人ぼそりと呟きながら。
結局、レモンティーを買い損ねたことに気付いたのはエレベーターに乗り込んだ後で。
流石に下にとんぼ返りはしたくなかったため、仕方なく手ぶらのままフロアに戻ると、その瞬間に突き刺さる幾多もの視線。
でもそれはいつもと違う、どこか……
と、考えていると「北薗くん!」どこか緊張したような、興奮したような上司の声が聞こえて。
その声の方に歩いていくと、その間も周りの視線は突き刺さり。よく分からない、緊張感を含んだフロア内の空気は部長の声一つで一変した。
「本社から呼び出しを受けた、早急に本社に向かいなさい」
その、言葉に息を呑んだのは誰だったか。
誰もが驚きに目を見開く中、部長だけがどこか青ざめた表情をしていて。
その部長の顔の意味するところは何なのか、教えてくれる暇もなく私はフロアを追い出された。
ただただ、呪文のように何度も言われた言葉だけを残して。
『絶対に、社長の機嫌だけは損ねないでくれよ!!』




