本幕 其ノ参
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
雑多な長屋が軒を連ねている大原町の外れ。
鬱蒼と茂る雑木の中に、背の高い塀に囲まれている古びた屋敷が建っている。
そこが今年で五十七の歳を迎えた吉田道宗と珠の住居だ。
月明かりの下で珠は体を引きずるように歩き、やっとの事で屋敷の門前に辿り着いた。
無意識の内に溜息が漏れる。白装束と交戦した紅谷町からは半里ほどもないのだが、疲弊に疲弊を重ねたためか、一昼夜に渡り歩き続けたように感じる。
ふと、頬に小さな刺激を覚えた。嫌な予感を覚えつつ反射的に指先で触れる。
それを契機としたかのように、立て続けに雨粒が落ちてきた。
ざらつく舌で背筋を舐められたような不快感に一瞬で総毛立ち、珠は思わず悲鳴を上げた。悠長に辺りを窺っている余裕はなく、少しでも濡れないようにと体を丸め、開けるのがもどかしいとばかりに背の低い家門を飛び越えて敷地に入ると、脱兎のごとく玄関に転がり込む。
その頃合いを見計らったかのように、大きくなった雨粒が一斉に瓦や地面を激しく打ち鳴らし始めた。
「最悪だな」
珠は上がり框に座り込み、荒い呼吸をつきながら言った。歩くだけでも精一杯の状態だと思っていたが、いざとなるとどうにかなるものだと我が事ながら驚かされる。
その場で力なく仰向けに寝転がり、視線を漂わせながら雨音に耳を傾ける。降り出すまでにはまだいくらかの余裕があると踏んでいたが、それは甘い見込みだったようだ。
小半刻ほどそうして休んだ後に気合いを入れて体を起こすと、吉田の書斎へと向かう。
屋敷には離家を含め五つの居室と中庭がある。以前この屋敷には、変わり者と評判の売れない画家が住んでいた。画家は息抜きをしようと通った賭場にのめり込んでしまい、負けが込んで膨大な借金を背負った。容赦のない取り立てで追い詰められたのか、真夜中に老いて寝たきりだった母を、その直後に妻を包丁で滅多刺しすると、自らの頸動脈を裂いて命を断った。息子が相続した屋敷を、吉田の嫡男が相場以上の額で購入したのだ。
「ご隠居、いますか」
珠は書斎の板戸を指先で軽く叩きながら声をかけたが、返事がない。
襖を開く。行燈の明かりがぼんやりと灯っている室内に吉田の姿はなかった。
壁や襖に隙間なく貼られている水墨画は、全て吉田が描いた物だ。題材は山水が多く、稀に鶯や雀などがある。どれも子供の落書きのように見えるが、本人はそれなりの満足しているようで、よく濁酒を舐めつつ飽きもせずにそれを眺めていた。
以前、珠は縁側で日向ぼこりをしつつ舟を漕いでいた吉田に、水墨画をどうして描くのかと尋ねた。暇潰しに話題を向けただけだったが、嬉々とした吉田に半日に渡りそれを延々と説かれてしまった。いつもは適当に話を聞き流しているのだが、さすがにそれだけの長時間となったため、ぐったりするほど疲れ果てた。肝心の内容についてはほとんど覚えていないが、以来、二度とその話題に触れないようにしなければと心がけている。
「――いた」
ふと珠は呟き、縁側へと向かう。
いつしか風雨は台風のように激しくなり、庭木の枝葉を乱暴に掻き乱していた。
大きな池となっていた庭の中央で、両腕を頭上に掲げて空を仰ぎ、独り言を呟いている人影があった。
「ご隠居」
珠の声が聞こえたようで、人影はゆっくりと振り返った。
小柄で干物のように痩せた体躯、肩の辺りまで伸ばされた白髪、もみ上げと繋がっている鬚、眠そうな瞳、そして鷲鼻の上に黒縁の眼鏡を乗せているその者は、吉田道宗に間違いない。
吉田は珠の声に応えて笑みを浮かべる。
「おお、宗次郎か。いつ帰った」
「それよりなにをしてるんですか」
「見れば分かるだろう。天啓を待っている」
「分かりましたからとにかく傘を差してください」
「ああ、分かった、分かってる。それよりもいつ帰ったんだ」
珠は溜息をつくと、鉛のように重くなった体を叱咤して玄関へ赴く。そして傘立の中から適当な傘を手に取り、逡巡を振り切って再び外へ出た。
いくら傘を深く被っても、横風に吹かれた雨粒は容赦なく着物を濡らしてくる。全身に鳥肌が立ち、足が竦んでしまう。本能がすぐに引き返せと警告を発したが、理性でそれを抑えて込んだ。
やっと思いで中庭に着くと、当の吉田の姿は見当たらなかった。
慌てて辺りを見回せば、先ほど珠が立っていた縁側に濡れた跡がある。
苛立つ間もなく珠は縁側から上がり込み、ふらつきながらも吉田の着替えと手拭いを用意すると、手早く濡れた自分の体を拭きながら書斎へと引き返す。
吉田は持病ひとつなく、馴染みの医者からは百まで生きるだろうと太鼓判を押されてはいるものの、風邪でも引けばころっと逝きかねない歳であるのは間違いない。体調には気をつけるようにと珠が口を酸っぱくして言っても、生返事をするだけで従わないのだった。
書斎を覗くと、吉田は胡坐をかいて座っていた。濡れた体のままで濁酒を舐め、瞬きを忘れたかのように天井の隅を凝視している。
「ご隠居」
「ああ、宗次郎か。どうした」
「着替えと手拭いを用意しました」
「そうか。すまなんな」
吉田はのろのろと立ち上がり、体を拭いて着替え始めた。
今日は大人しく従ってくれた、と珠はほっと息をつく。
「もう夕食は食べましたか」
「さっきな。とても美味かったよ」
「次からは雨が降ってきたらすぐ書斎に戻ってください」
「もちろんだ。儂は濡れるのが嫌いだからな」
幸い吉田の体は冷えていない。そう長い時間、雨に打たれていなかったらしい。
「温かいお茶でも用意しましょうか」
「いや、この酒でいい」
「それならぼくはもう行きますから、なにかあれば呼んでください」
濡れた吉田の着物と手拭いを持ち、書斎から出ようとした珠を、吉田は「なあ宗次郎」と力の抜けたような声で呼び止めた。
「なぜ儂を父と呼ばない。ご隠居などとはずいぶんと他人行儀ではないか」
「気にしないでください」
「気にするなと言われても、だな。ひとり息子からそのように呼ばれれば」
「気にしないでください」
「そう、か」
吉田は寂しげな表情をし、珠の視線から逃れるように背を向けると、緩慢な動作で箪笥から紙と墨、そして筆などを取り出した。これから水墨画を描くのだろう。
珠は吉田の濡れた着物と手拭いを縁側に干し、居間へ向かう。吉田の着替えを取りに来た時は余裕がなかったので気づかなかったが、食卓の上にはふたり分の夕食が用意してあった。
ああ、と珠は息をつく。
「まだ食べてなかったんだ」
もう吉田は水墨画を描き始めてしまっただろう。集中力が途切れるのを嫌っているので、食事を運ぶのはそれが終わってからにしなければならないのが面倒だ。
珠は腰を下ろし、冷めた鱚を箸で突つき口に運んだ。旨い。空腹感を覚えていなかったが、箸が勝手に進む。
風雨はより激しくなっていく。しばらくは止みそうにない。
湿っている着物を替えたいところだが、珠の私室である離屋に行くには、再び風雨の中を歩かなければならない。今は最小限の被害で済んでいるのだから、我慢するのが得策だろう。
「さて、どうしたものかな」
食べ終えた珠は寝転がると、目を閉じて虚ろに呟いた。
肌にべっとりと纏わりつくような雨気が濃密になり、心身の状態が低下していく様をはっきりと感じる。
もしも巫琴に呼び出されなければ、仕方がないから明日はごろごろするかと気楽に考えながら雨を眺められたはずだ。
ほとほと厄介事を起こしてくれた鎌鼬を恨めしく思いつつ、左手で首から下げている印籠を握った。中には丸薬が二十粒ほど入っており、その中の一粒を咽喉の奥に放り込んだ。
丸薬の素材や調合法は巫琴から知らされていない。そのような怪しげな物を口に入れるのは抵抗があるのだが、何しろこれを朝と晩に呑まなければ昼のような発作に襲わるので、選択肢はないに等しい。
いつも手持ちの丸薬が切れる直前くらいに、飛脚が次のひと月分に相当する六十粒の入った印籠を持ってくる。何人かを中継して届けられているようで、飛脚自身も送り主は分からないと言っていた。
何であれ、怒りや失望を買えば丸薬は届かなくなるのだろう。
ふと紅谷町で遭遇した白装束の姿が脳裏に浮かんだ。
あれが鎌鼬なのだろうか。
この状態の内に襲われれば抵抗する間もなく殺されてしまうに違いない。情けないが、今はそうならないようにと祈る他ないのだ。
「考えても仕方ない、か」
吉田が描き終えるのは当分先だ。とりあえずそれまでゆっくりさせてもらおう。
夜が明ければ、嫌でも動かざるを得ないのだから。




