本幕 其ノ弐
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
いつしか空は鈍色へと傾いていた。
覚束ない足取りで光伝寺から出た珠は、鬱々とした空気を体外へ押し出そうと大きく深呼吸をした。ほんの少しだけ体が軽くなったように感じたが、消沈した気分の方は浮上する雰囲気すらない。
その元凶たる巫琴は一刻ほど前に、鎌鼬のことを五日間の内に調べておくようにと命じると、調子の外れた鼻歌を気持ちよさそうに口ずさみながら出て行った。もちろん珠にそれを拒否できる権利はなく、恨みがましい眼で巫琴を見送った。
一歩、また一歩、と珠は亀のような歩みで家路を歩く。
しばらく休んだにも係わらず、依然として疲労が色濃く、水中にでもいるような鈍い抵抗に苛まされている。少しでも気を抜けば膝や腰から力が抜け、その場にへたり込んでしまいそうだ。
発作で苦しみ悶える珠を見ていた巫琴の眼が瞼に浮かんだ。
おそらく最初から制裁を加える気でいたのだろう。次はない、という言葉はさながら最終通告というところか。今さらではあるが、相当に部の悪い綱渡りをしていた事に気づかされる。危うく目と鼻の先に引かれた死線を跨がされるところだった。
無意識の内に何度も溜息が漏れ、どうにも思考は悪い方へと流されてしまう。強引にでも舵を切らなければ、底なしの泥沼に沈んでしまいそうだ。
「まあ、確かに馬鹿らしい話だけど」
珠は意識を少しでも逸らそうと、あえて声に出して言った。
巫琴が訝った気持ちはよく分かる。占われる前の珠なら同様の反応を示しただろう。
無意識の内に我が身に降りかかった惨事を思い起こしてしまったので、珠は慌てて頭を振り、鎌鼬の方へと思考を傾ける。
巫琴に話したとおり、今は漏れ聞こえてきた程度の薄い情報しか持ち合わせていない有様だ。これからどう動くにしろ、せめて事件の概要くらいは知っておくべきだろう。こんな面倒事になるのであれば最初から報告しておけばよかったと思ってしまうが、今さらのそれは後の祭りでしかない。
「そういえば巫琴がきたのは偶然なのかな」
意識せずに漏らした独り言に、珠は引っかかりを覚えた。
少なくともこれまで巫琴がこの町を訪れたのは、珠が嫌々ながら事件の発生を報告した時だけだった。たまたま近くを通りかかったから挨拶をしに来たとは考え難く、それが指先に刺さった棘のように気にかかり、どうにも気持ち悪い。
物思いにふけながらのろのろと歩いている内に、夜の帳が下りた。
一刻も早く休みたいと気が急いたところで、歩調を上げるのは至難の業だ。屋敷まではいつもなら小半刻もかからぬ道程だが、この調子ではその倍は必要だろう。
繁華街から離れているこの辺りでは、古びた長屋や小さな商家が軒を連ねている。以前は提灯を手にして歩く町人や旅籠を探す行商、そして品を急いで売ろうとする棒手振の姿が珍しくない時間帯だったが、鎌鼬の凶行が続いてからは、夕暮れ前に各々の家や旅籠に逃げ込むようになってしまった。
ふいに生温い風が吹き、長屋の建てつけが悪い板戸をがたがたと揺らした。
その瞬間に長屋の中にあるいくつもの気配が震え上がる。固唾を呑んで辺りの様子を窺い、只の風だったと分かったようで、ほっと息を緩めた。鎌鼬が来たのかと案じたというところか。
異様なのは、それが珍しくない光景という事だ。音を立てると死の矛先を向けられると思っているのか、誰もが息を潜めてじっとしている。何事も起こらぬようにと願いながら夜明けを待つのか。
もっとも町全体が同様の状態にある訳ではない。
屋敷や大店の商家などが並ぶ紅谷町を歩けば、夜を通して明かりを灯し、寝ずの番をしている奉公人や用心棒が少なくないためか、いくらかの余裕が感じられた。被害者は繁華街からも出ているものの、見回りがないに等しい長屋よりは襲われる可能性が低いと考えているのか、それとも単に開き直っているのか。
「―― っ」
ふいに身の毛立つ感覚に襲われ、珠は足を止めた。
嫌な汗が背筋を流れる。ほんの一瞬だが、視線を感じた。
何気ない動作を装いながら振り返り、家屋や路地の陰などを入念に確認する。
しかしそれらしい影すら見当たらない。無表情で佇んでいる街角は、単なる勘違いだ、と素知らぬ顔で訴えているかのようだ。
それでも気のせいではない。珠の第六感はそう確信している。
視線の主は珠を監視しているだけなのか、それとも襲撃の隙を窺っているのか。
潜んでいる場所を正確に捕捉できなければ動くのは極めて危険だ。それが面白くない。
問題はこれにどう対処するかだが、心身を疲労に冒されている現状では思うように動けないのは明白で、それを無視して交戦に臨むのは自殺行為に他ならない。加えて半刻ほど前から雨の臭いが鼻についており、次第にそれが濃くなってきている。遠からず降り出すのだろうが、これが最も不味い。
「隠れてないで姿を見せなよ」
珠は声の調子を抑えて言った。
未だに珠に気配を捉えさせない所作から、相手が只者でない事だけははっきりしている。もっともその相手としても、勘づいた珠を同様に警戒しているという感触がある。
時は淡々と足を進める。
相手に動く気配はない。この膠着状態は好ましくない。
珠は焦燥感を無表情で覆い、あからさまな溜息をついて見せる。
「つまらない時間稼ぎをするなら出直してもらおうか」
ふいに何者かの気配が生じ、珠は反射的に顔を上げて視線を向ける。
一丁ほど離れた三階建ての旅籠の屋根に、白装束を纏っている者が立っていた。
その容姿は分からないが、月を背にして立つ様はなかなか絵になっている。あからさまな敵意や殺気はないものの、当然ながらそれが友好の証という訳ではなく、来れるものなら来るがいいとでもいうような、挑発的な余裕が感じられた。
珠は目を細め、険しい表情で白装束を注視する。距離を詰めて顔を拝みたいところだが、それが交戦の合図になり得るという危険性が、足を地面に縫いつけていた。
白装束は動けない珠をからかうように両腕を大きく広げ、仰々しく一礼すると、月が雲で覆われたのを見計らってか、暗中に跳躍し、その姿と同時に気配を消した。
襲撃に備え、反射的に珠は体勢を低くする。
五感を研ぎ澄ませようと試みるが、やはり思うようにできない。
死。相手が珠の状態を悟った瞬間にそれが確定となる。
格好だけは整えた珠だが、そのようなものでどうにかなるとは思えず、まな板の鯉のような心境で、訪れると確信しているその瞬間を恐れた。
それから小半刻ほど経った。
未だ、白装束は襲いかかって来ない。
体を硬くしていた珠をからかうように温い風が吹いた。
「退いたの、か」
半信半疑ではあったが、ただでさえなかった体力は底を突いており、これ以上集中力を保てそうもない。弱気を覚えたからという訳ではないのだろうが、ふいに酷い眩暈に襲われ、その場に膝をついてしまった。無防備を晒しつつ、どうにでもなれと半ば開き直ったが、幸いにして何も起こらなかった。
柔らかい安堵感が強張っていた筋肉を弛緩させ、張り詰めていた緊張の糸が弛んだからか、呼吸の調子が崩れて喉が詰まり、吐血するような勢いで激しく咳き込んだ。いつの間にか全身が冷汗で濡れている。
白装束の嘲笑が聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。
辺りをもう一度見回した後に、珠は深く息をついて頭を振った。
「どうせならこれも占ってほしかったな」