本幕 其ノ拾五
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
「本日はどうも」
魚兵衛の店主である兵衛助は、嗄れた低い声でぼそぼそと話した。
兵衛助は干物のように瘦せこけており、土気色の肌と虚ろな眼、饐えたような体臭などからは、尋常ならぬ状態にあるとひと目で分かる。三十路を迎えたくらいの年齢で、気風がよく、すこぶる快活だったと櫻良から聞いていた珠としては、それが目の前の男と同一人物と思えなかった。生命力が欠けた様は臨終間際の病人のようだ。
櫻良は真理が鎌鼬の手にかかったという噂を耳にしたその日に、馴染みの店だからという口実で様子を覗きに来た。予想どおり家の周りには野次馬たちが人垣を作っていたので、適当に声をかけて事情を聞こうとするも、機嫌の悪い御手先に捜査の邪魔だと怒鳴られ、追い返されてしまったのだ。
そんな話を聞きながら訪れた魚兵衛の暖簾には、休業中と書かれた紙が吊るされていた。暖簾口から店内を覗くと、魚を並べる棚などが置かれていたが、どれも埃を被っており最近使われた様子はなかった。
櫻良は暖簾を潜り「ごめんください」と声をかけたが、返事はなかった。
さらに二度ほど声をかけてみると、店の奥から兵衛助が覚束ない足取りで顔を出した。珠と櫻良を交互に見て首を傾げていたのは、何をしに来たのかと案じたからだろう。
櫻良が弔問の挨拶を述べた後に、珠は袱紗を渡しながら吉田屋の若旦那の遣いで来たと言った。兵衛助はいくらかの間を置いてからそれを受け取り、「どうも」と言うや否や踵を返したので、慌てた櫻良が呼び止めて強引に上がり込んだのだ。
通された六畳ほどの居間は、兵衛助の「少しちらかってるんですが」という言葉を大きく上回った状態で、汚れた座布団や茶碗、徳利、くしゃくしゃになった着物、そして小銭などが無造作に転がっており、それらを退けると小虫が這い出て来た。櫻良は固まって顔を青くするも、平然としている兵衛助の前では何も言えず、絡繰り人形のようなぎこちない動作で腰を下ろしたのだった。
「このたびはご愁傷様でした」
櫻良は丁寧に頭を下げて言ったが、兵衛助は眉ひとつ動かさない。
「いえ」
「さぞお力を落としのことでしょう」
「まあ」
「お悔やみ申し上げます」
「どうも」
会話への糸口を掴もうとしているらしく、櫻良は取りとめのない話題を投げ続けたが、兵衛助は乗ってこない。早く帰れという意思表示のようにも見えたが、櫻良はそれを無視するように一方的に話し続けていた。
それにしても違和感がある。珠は辺りの様子を窺いながらそう思っていた。ふたりの話に耳を傾けようとするも、どうにもそれが気になって落ち着かない。
「そういえば、兵衛助さんには娘さんがいましたよね」
櫻良にとっては適当な話題のひとつでしかなかったのだろう。
しかし兵衛助にとってはそうでなかったようで、目にふっと生気が浮かんだ。
「名前はなんていうんですか」
「お良っていいます」
「歳は」
「今年で四つに」
「お良ちゃんも辛いでしょうね」
「不幸中の幸いっていうやつで、お良は知らないんですよ。色々と騒ぎになる前に親戚に預けたんです。従兄弟と元気に遊んでるって聞いてほっとします」
「そうでしたか」
「本当によかったですよ。本当に」
兵衛助は表情をいくらか緩めて言った。
以後、櫻良は兵衛助の娘であるお良のことに話題を向けた。
それまでは聞いているのかすら判然としない態度を取っていた兵衛助だが、お良の体は弱く布団で臥せっている生活が長いこと、それでも親を心配させまいとして弱音を吐かないこと、具合が良い日は積極的に店の手伝いをしようとしていたことなどを、堰を切ったかのように話した。
しばらくそれに耳を傾け、相槌を打っていた櫻良だが、本題に斬り込むいい機会だと判断したようで、小さな肩に力が入った。
「話は替わりますが、まだ鎌鼬は捕まらないですね」
「そうですか」
話の腰を折られたからか、兵衛助が興醒めしたように表情を曇らせた。
「よろしければその件で、お話を聞かせてもらえませんか」
「話、ってどんな」
櫻良は一呼吸置いて姿勢を正す。
「一刻も早く鎌鼬を捕まえなければ被害者は増え続けます。若旦那様はそれを防ぐために、鎌鼬に関する情報を集められています。何度も同じことを聞かれたでしょうし、ご迷惑だとは思いますが、もう一度、真理さんが殺されたときのことをお話ししてもらえませんか」
大抵の被害者は下手人への怨念を持て余しており、水を向ければ、頼まなくても話し始める場合が多い。今回もそうなると櫻良は思っていたのだろうが、兵衛助は俯いて頭を振り、そして深い溜息をつく。
「なにもないんです」
「なにがですか」
「話せることですよ」
「どうしてですか」
櫻良は驚きながらも平静を保ち、そう問いかけた。
兵衛助の眼から精気が消える。
「関係ないんですよ」
それからは櫻良が何を聞いても、再び兵衛助は生返事でしか応えなくなった。
埒が明かないため、次第に櫻良の口調が刺々しくなる。
どうしたものかと思っていた珠だが、ふいに眉間にしわを寄せた。
「邪魔するよ」
突如その場の関心を全て奪うような野太い声が聞こえ、着流し姿の壮年の男が大股で入って来た。この男は誰だと珠が目で問うと、櫻良は顔をしかめて「佐之輔親分です」と囁いた。
佐之輔は珠たちの前で仁王立ちとなった。その眼にはふたりを観察するような鋭さがあり、櫻良は思わず息を呑み、珠は無表情で見返した。
兵衛助は佐之輔を見上げる。
「親分、なにかご用で」
「おいおい、忘れちまったのかよ」
「なにをですか」
「町会の会合があるから顔を出せって話しただろ」
「そうでしたか」
「油なんて売ってねえで、さっさと来い」
佐之輔はそう一方的に言うと、珠と櫻良を舐めるように睨めつけ、これ以上余計な事を聞いたら承知しない、というように肩を怒らせて出て行った。
掻き乱された空気が静まる前に、兵衛助は頭を下げる。
「すみませんが、そういうわけなんで」
まだ何か言いたそうな櫻良を抑え、珠は「分かりました」と言って頷いた。
納得できずまだ何か言いたげな表情をしている櫻良を部屋から出すと、珠は兵衛助に歩み寄り、その耳元に顔を近づける。そして何事かと動かずにいる兵衛助にだけ聞こえるように「絞殺」と呟いた。
兵衛助の表情は変わらなかった。しかし、その眼は汚泥のように濁った。
珠は満足気に頷くと、玄関で待っていた櫻良と共に店から出た。
辺りに気を配らずとも、ふたりの様子を窺っている気配をはっきりと感じる。本人たちにそのつもりはないのだろうが、好奇や不安の心情などが混在しているそれは、何かしらの秘め事があると声高に叫んでいるに等しい。
ふと櫻良を見れば、不満に頬を膨らませていた。
「どうしたの」
「あの親分の態度があんまりだったので」
「ずいぶんと横柄だったね」
「義理と人情に篤い人だって聞いてましたけど、そんな風には見えませんでした。それにあたしだけならともかく、宋次郎さまにまであんな態度で」
珠は宥めるように櫻良の背中をぽんと叩く。
「とりあえず今日のところは退けばいいよ」
「いいんですか」
「あれで充分だよ」
「宗次郎さまがそれでいいなら」
渋々ながら頷く櫻良に、もう一度珠は「充分だよ」と言った。
それは珠の本心だった。この場から得られる物など何ひとつないのだから。




