6、君へ 後半
†
怪物どもに囲まれる。進路も退路も何も無い。右を見ても化け物、左を見ても化け物、前を見ても化け物。そして後ろは壁。
『―――回線、繋ぎました!』
左手の中で通信機が言った。
間髪入れず、シマは吠えた。
「リンっ!」
少し離れた場所から自分の声が『リンっ!』と叫ぶのが聞こえた。ちゃんと繋がっているようだ。安堵。よし、これできっと、あの馬鹿にも届くはずだ。何も考えずに捲くし立てる。
「リンっ、どこにいるっ? 返事をしろっ! 生きているなら生きていると言え、リンっ! お前が・・・お前が、死ぬなど、そんなはずがないだろうっ! とっとと顔を見せろ! これ以上私を苛立たせるなっ!」
ここまで本音をぶちまけるのはいつ以来だろう。ずいぶん久しぶり、どころか、ともすれば生まれて初めてかもしれない。
「絶対に死なせないぞ、リン! どんなにお前が死にたがっているとしても、絶対に、死なせてなんかやらないからな!」
不覚にも涙が零れ落ちそうだった。目頭が熱くなって、それで思い出す。
「私はまだ、泣いている人間の慰め方を教わっていないぞ! 教えてやると言ったのは嘘だったのかっ?」
彼がそう言ったのはいつだったか。どんな話の最中に約束したのだったか。そうだ。思い出す。
「それに、お前の話はたくさん聞いたが、私の話は全然聞いてもらっていない! 私がなぜ軍にいるのか、知りたくないのか!」
ひどく自分勝手な言葉だと思った。聞いてもらっていないのではなく、自分が話そうとしなかっただけだというのに。まるでリンが悪いと言うように。違うのだ。彼を責めたいわけじゃない。自己嫌悪。敵前逃亡。自分はまだ、本当に言いたいことを言っていない。
「それに―――」言いかけて、躊躇した。「―――あぁ、くそっ。」と、怖気づいた心を化け物の接近の所為にして毒づく。
ドンッ、ドンドンッ
ろくに狙いもせずに先頭の奴を目掛けて撃った。当たったか、掠ったか、どちらにせよ致命傷にはならなかったらしく、そいつが雄叫びを上げた。痛みと怒りに満ちた雄叫び。
―――その時、ふ、と、シマは死を覚悟した。
完全に囲まれた状態で、1人。増援は望めない。来たとしても間に合わないだろう。武器は、銃が1丁とナイフが1本。それだけ。
(あ、もう駄目だ。)
そう思うと、途端に、怖くなった。
ここで、1人で、化け物どもに貪り食われて、一生を終えるのか。
そう思うと、途端に、悔しくなった。
(私は私の人生で、いったい何をやってきたのだろう。何を成したと言うのだろう。)
父の顔、兄の顔、母の顔。
(・・・何も、成してなどいないじゃないか。)
リンの笑顔。自分に向けられた、家柄も階級も何一つ気にかけていない、あの笑顔。彼の気さくな口調がどれだけ自分の心を癒したのか。彼との会話がどれだけ自分の楽しみとなっていたのか。彼に出会ってから、どれだけ世界が苦しくなって、そして同時に輝いていたのか。
自覚。した瞬間、驚くほどすんなり言葉が出てきた。
「――それに何より、私がもう1度お前に会いたいんだ、リンっ!」
シマは覚悟を蹴り飛ばした。
銃を構える。きちんと狙い撃つ。キツネの眉間を撃ち抜く。近い奴から順々に殺していく。トナカイの頭。ラッコの足。タヌキの尻尾。ヒツジの角。ヤギの目。ことごとく部品を間違えている黒一色の怪物を。
自分が死なないために。
(リンに、もう1度会うために。)
自覚してしまえば、なんと単純な想いだろう。どうしてこんなに簡単なこと、今の今まで、こんなに追い詰められるまで分からなかったのだろう。シマは、自分の愚鈍さに嫌気がさしてきた。
(だいたい、ちょっと囲まれたくらいで何をナーバスになっている。この程度の包囲、リンは口笛一つで簡単に切り抜けていたぞ。)
頭の中でリンが笑う。笑って、『シマっ!』と弾んだ声で言う。結局、彼は今どこにいるのだろう。自分なんかよりよっぽど悪い条件で、1人で、戦っているのだ。口笛で陽気な曲を吹きながら。
再び腹が立ってきた。苛立ち紛れに怒鳴り付ける。
「どこにいるんだ、リン! 早く返事をっ」
と、一瞬、意識を通信機へ傾けたその隙に、シェパードの頭をしたサルが飛びかかって来た。
「っ!」
咄嗟に上体を反らしたが、避け切れない。左腕に組みついたソイツが牙を突き立てる。焼けつくような痛みが走った。
ガシャンッ!
破砕音がして、そこで自分が通信機を取り落としたことを知った。
「くそっ。」
肉を噛みちぎろうとして、サルの身体を振っているシェパードの額に、銃口を押しつける。ゼロ距離からのヘッドショット。黒い粒子になって消える怪物。しかし、ソイツに付けられた傷までは消えない。傷口はかなり深くにまで達していた。血が溢れ出ていくのが分かる。一緒に精気や根性と言ったものまで出て行ってしまうようだ。持ち上げることもままならないのは、物理的にか精神的にか。
「・・・くそっ・・・。」
もう1度、呟く。
銃を撃ちながら後退する。背中が壁に当たる。包囲網が縮まっていく。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ―――――そして遂に、引き金が引けなくなった。スライドが不自然に固まっている。弾切れだ。替えの弾倉はない。
シマは銃を投げ捨てた。素早くナイフを引き抜く。白兵戦はあまり得意ではないが、やるしかない。
迫ってきたワニの頭に口の内側から刃を突き立てる。粒子になって消える。反対側からヒョウが諸手を上げて襲いかかって来た。避ける。避け切れない。爪が肩口を切り裂く。痛い。いや、気にするな。逆手に持ち替えたナイフでそいつのシカ頭を切り裂く。突然右足が激痛とともに重くなった。何かに噛まれている。闇雲に足を振った。離れない。痛い。横から腕が伸びてきた。左腕を掴まれる。とんでもない圧力が掛かった。自分の口から、この世のものとは思えない叫び声が出た。痛い。痛い。ゴリラと思しき太い腕にナイフをめちゃくちゃに刺す。唸り声を上げて飛び退く獣。その拍子に、相手の腕に深々と刺さったナイフが自分の手から離れて行った。攻撃手段が失われた。痛い。右足がまだ痛む。終わった。正面からイノシシのタックル。背中から壁に叩きつけられて、息が詰まった。痛い。目の前が暗くなる。もう立てない。痛い。絶望。諦観。痛い。痛い。痛い―――
(・・・リン。)
どうか、彼の命が無事でありますように。心残りと言ったら、それくらいのものだ。
―――正直、ありがたいと思った。少し前までの自分だったら、心残りどころか未練も後悔も何も無く、ただ機械が壊れるように死んでいたに違いない。その死に際は寂しいものだ、と今なら思える。すべて、リンのおかげだ。
(・・・ありがとう、リン。)
そうして、シマは目を閉じた。
もう痛みも感じない。
ただ、眠かった。
自分が一回り小さくなって、地の底に沈んでいくような感覚。
世界が暗闇に包まれる。すべてが消えていく。
その中に、遠く、音楽が響き始めた。
(―――・・・ショパン作曲、ノクターンOp9-2・・・。)
すぐに分かった。
あの後、文献や資料を漁りまくったのだ。ノクターン、とは『夜想曲』という意味。ショパンは19世紀に活躍した有名な作曲家で、ノクターンやエチュードなど数多くの名曲を残し、ピアノの詩人と謳われた人物だった。
その優美な旋律が、いま確かに、聴こえている。
(ありがたいな・・・たとえ幻聴だとしても、最期に、この曲を聴けるだなんて・・・。)
シマの目から一筋の涙が零れた。
夜を想い、月に歌う、か細い口笛の朗々とした音―――
(―――口笛・・・?)
シマは目を開けた。
そこにいきなり、空が飛び込んできた。
灰色の雲に覆われた、低い空。
遮るものは何も無い――怪物どもの姿は1つも無い。
混乱が先に立つ。自分はなぜ死んでいない。ノクターンはまだ聞こえる。獣の咆哮も。
苦労して顔を傾ける。
と、狂ったようにスピーカーに群がる黒い集団が見えた。スピーカーからは、まるで怪物どもを嘲笑うように、麗しいメロディーが流れ出ている。
「・・・リン。」
リンだ。リンしかいない。こんなに奇麗な口笛を吹く人物を、シマは他に知らない。スピーカー越しでも効き目があるのか。なんと万能なのだろう。それにしてもなぜ、奴らはこんなにも口笛を嫌うのだろうか。とても奇麗なのに。もったいないことだ。
どこかから砲弾の音が聞こえた。きっと中央本部の援軍だ。彼らが到着したからには、あと数時間もしないうちに、事態はすべて片付くだろう。怪物どもは一掃され、町には平和が戻ってくるはずだ。
(・・・もう、いいかな。)
シマは再び目を閉じて、今度こそ完全に意識を手放した。
†
リンが口笛を吹き出した瞬間、通信室は静まり返った。
どんな楽器とも違う、細く儚げだが固い芯が入っているような音。リンはマイクに向かい、完璧な音程で旋律をなぞっていく。
ノクターンOp9-2
シマが『奇麗だ』と言ってくれた思い出の曲。
スラーとレガートが多用されているために、1フレーズが長めで、とても一息では吹き切れないはずなのだが、リンは決して途切れさすことなく、滑らかなペダル使いを見事に再現していた。
「すっ・・・げー・・・。」
誰かが呆然と呟いた。音楽の文化が廃れた世界で、リンが操る後進的な、自殺行為としか見なされない口笛が、かつての栄華を朗々と歌う。千年以上前の世界の人々が音楽を愛し、敬い、慕っていた理由を垣間見るようだった。
(シマには絶対、攻撃させない! 今のうちに逃げてくれ、シマ・・・!)
スピーカー越しでも効き目があることは知っている。
監視カメラの映像は、異形のものどもが、スピーカーに暴動の矛先を向けている様子を映し出していた。
リンにはその様が、まるで嫉妬に狂っているように見えた。醜いものが奇麗なものを妬み、破壊する。自分の価値を下げられたくないから。自分より優れたものを認めたくないから。見たくない、知りたくない、聞きたくない。自分のみっともない小ささや、どうしようもない醜さを。
その気持ちは分かる。きっと、誰にだってある感情だ。本性、と言ってもいいかもしれない。汚い部分は隠して、奇麗なものを汚して、安心したい、という思いは誰にだって持ち得るものだと思う。
(・・・でも、壊したら駄目だよな。)
負けるのを恐れて逃げても良い。思い知るのが怖くて隠れても良い。
でも、壊してしまったら、それが本当の敗北だ。
(俺は絶対、怪物のようにはならない。俺は小さくて、醜くて、汚い人間だけど、俺より凄い人を貶めることは絶対にしない。・・・シマは俺なんかより、ずっと優しくて、凄い奴だから。)
その彼に褒めてもらえた事実がある。それだけで、リンはこの先ずっと、真っ直ぐ生きていけるような気がした。
ノクターンが響く。
そこに、ふと雑音が混ざって、間延びした呑気な声が通信室に木霊した。
『―――・・・うーい、こちら、正規軍中央本部、大将、トキタ。化け物どもを殲滅中ー。・・・あ、おい、誰か倒れてっぞ。保護しろー。』
†
中央本部のトラックの中で、トキタ大将はふんぞり返って言った。
「しっかしまぁー、これがマヒトの息子かい! へぇ、よー似てんなぁ、こりゃ。キレーな顔しちまって、ったく。モテんだろうなぁ。ムカつくぜこん畜生。タケガワのクズを閉じ込めたっつーのには笑ったけどなぁ、はっはっ!」
「大将、あんまりそういうこと、大きな声でおっしゃらないでください。」
「気にすんねぇ堅物よぉ! 告げ口されたって俺ぁ困んねぇしなっ!」
「そういう問題ではありません。というかそもそも、告げ口する相手がいないじゃないですか。」
「まぁな。」
大将は愉快そうに、くつくつと肩で笑った。それから不意に笑いを収めて、
「マヒトの息子のくせに、思い切ったことやったよなぁ、コイツ。」
しみじみと言った。見下ろした先では、まだ若い軍人が1人、傷だらけの状態でありながら、安らかに寝息を立てている。ブーツの先でつつくと、嫌そうに眉をひそめて、しかし目を覚ましはしなかった。
「ただの機械ってわけじゃあねぇんだな。」
「・・・命令違反に独断専行。さらに、上官に対する反逆行為を犯したとあっては、いかなヤヅキ総帥のご子息であろうと、懲戒免職は免れ得ないでしょうね。」
「免れるつもりもねぇだろうよ、この様子じゃあ。―――ほんっと、馬鹿だよなぁ。」
「・・・。」
「だが、」
大将はゆったりと煙草をくわえた。すかさず従兵が火を点ける。真っ白い煙を気だるげに吐いて、彼は傲岸不遜な笑みを浮かべた。
「俺ぁ、嫌いじゃねぇぜ、こういう馬鹿。」
「・・・えぇ、存じております。」
「マヒトに言っとけ。お前の息子は俺の権限のもと懲戒免職。軍法会議はなし、ってな。」
「承りました。」
「あれぁ神経、磨り減るからなぁ。経験しねぇ方が幸せだ。ま、民間人の保護って点じゃあ、最善の策を取ったみてぇだしな。これくらいサービスしてやってもいいだろ。どーせ、会議なんかしようがしまいが、結果は変わんねぇんだし。」
そう言って、空へ向けて煙を放つ。溜め息のように重たげな吐息は、荒廃した街並みにたちまちのうちに馴染んで、消えていった。
従兵は表情を読まれないように顔を俯けた。大将は親切な上官を気取っているが、従兵には分かっていた。
(ヤヅキ中佐のためとかじゃなくて、絶対、自分が面倒臭いってだけだよな、この人・・・。)
「おい、何か言いたい事があんならはっきり言えよコラ。」
「落とし所としては最善だろうな、と思っていただけです。」
「ふんっ、どうだか。」
「本当ですよ。」
トラックが速度を落とした。シュウシャ基地に入っていく。ホームに帰って来たのを感じたのだろうか、今回の最大の功労者にして加害者にして被害者でもある彼が、小さく呻いて目を開けた。
(あ、アイスブルー。)
総帥と同じ色だ。だというのに、従兵は何故か、総帥より魅力を感じた。少し潤んでいる所為か、寝起きでぼんやりしている所為か、総帥のような刺々しさは微塵も感じられなくて。
(僕がもうちょっと若かったら、惚れてたかもな・・・。)
目と目が合った瞬間に始まる恋を、信じられるほど従兵は若くはない―――その代わりに彼は、もっと確かで大切なものを知っていた。
「お? どうしたお前、あに見蕩れちまってんだよ。」
「おや、嫉妬ですか、大将?」
「は・・・はぁっ? なに言ってんだよこの馬鹿! クビにすっぞ!」
「あぁ、それは困りますね。」
「本当かぁ?」
「本当ですよ。」と、従兵は肩をすくめた。「大将のお傍にいられなくなったら、僕はショックで死んでしまうかもしれません。」
「ふんっ、バーロォめ。・・・そしたらてめぇ、一生死ねねぇじゃねぇか。」
「――それはつまり、一生お傍に置いて下さる、と?」
「一生こき使ってやんよ。覚悟しとけ。」
照れくさそうにそっぽを向いて無愛想に言った大将に、従兵はにこりと笑いかけた。
「望むところです。」




