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彼女に会うために

 寮の食堂は、講師たちも利用する。予備校の講師は人気商売とあって、授業以外の時間も気さくに寮生と話をした。特に物理講師の村上は、まだ二十代と若く話題も豊富で、男女問わず予備校生に人気だった。

「先生、隣のマンションに引っ越したんだって?」

 秀子が厨房から声をかける。情報が早いな、と村上は驚いたように笑った。

「実家から通えなくもないんだけど、渋滞が酷くてさ。毎日ハラハラするくらいなら、思い切って引っ越そうと思ったんだ」

 隣のマンション、と聞いて、涼介の耳はその会話に釘付けになる。家族向けの分譲から、一人暮らし用の賃貸まで、部屋も家賃も様々だそうだ。東の角部屋は高いくせに空きがない、と、空いていたら借りるつもりだったような口振りに、

「予備校の講師って、そんなに儲かるの?」

 誰かに尋ねられ、冗談だよ、言ってみたかっただけだよ、と怒ったように返すのも面白い。涼介はその会話に便乗して、

「女の人の一人暮らしも多いの?」

 そう尋ねてみた。

「ああ、多いと思うよ。デザイナーズマンションっていう売りだから。俺としては、そんなお洒落じゃなくてもいいから、家賃を安くして欲しいけどね」

 それでも近さに負けて、契約してしまったらしい。確かに、これ以上近いマンションはなさそうだ。おまけに寮の食事付き。

 一人暮らしのOLか……。その魅惑的な響きに、しばらく食事をする手が止まっていた。それを、すかさず見つけて友人の敦司あつしが指摘する。彼は部屋が隣で、隠れて一緒に酒を飲んだりゲームをしたりする仲だ。

「クラスに女子が少ないからって、手当たり次第は良くないと思うぜ?」

 その言葉に、涼介は敦司を睨んだ。

「手当たり次第って何だよ? 俺だって、誰でもいいわけじゃないんだよ」

 すると、敦司はにやり、と笑う。

「じゃあ、ピアノを弾いてる誰かさんだろ」

 完全に図星だったが、再び敦司を睨むと、今度はそれを聞いていた村上が口を挟む。

「ああ、ピアノ弾いてる人、いるよな。ここまで聞こえてくるってことは、こっち寄りの部屋なんだな」

 敦司のせいで、詳しくは尋ねられなかったのは残念だったが、あのマンションにピアノを弾く人物が住んでいることは確認できた。涼介はそれだけでも満足して、憎らしい友人と共に部屋に戻った。


 今日も、ピアノの音が聞こえている。曲は、穏やかな和音に始まり、徐々に独立して流れ出した。それはまるで隣を流れる、夜の川のように感じられ、しばし、窓から見える景色を眺める。月が明るい夜だ。静かでゆったりとした流れはその光を映し、揺らぎながら河口へと運んで行く。

 涼介は物理の参考書を開いていたが、もう一時間ほど同じページのまま、その内容を見るでもなく、過ごしていた。どうしてこんなにも、惹き付けられるのだろう。ただの音なのに。涼介は懸命に、その誘惑から逃れようとしてみた。しかし、勝手に、体の中に流れ込んでくる。もっとも、窓を閉めようとしない時点で、完全に逃れる気はないのだったが。

「俺、このままだと確実に二浪だよ」

 勉強の息抜きなのか、暇を持て余したのか、部屋を尋ねて来た敦司に、そう打ち明けた。姿の見えない相手に恋をしてしまっている現実。後ろ姿だけは確認したけれど、その中途半端さがかえって涼介を惹き付ける。

「気になって、何も手につかない。何かいい方法、ないかな」

「……ないこともないけど」

 敦司はそう言いながら、窓際に寄り、腕組みをする。さっきの穏やかな曲は終わり、今度は甘いメロディが流れ始めた。

「確かに、プロ並みの腕だな。きっと楽譜見ないで弾いてるぜ」

 この曲、難しいのに、と呟く。どうしてそんなことが解るのか、不思議に思っていると、

「俺も、中学まで習ってたから」

 そんな意外なことを言って涼介を驚かせた。敦司は引出しの数が他の友人たちに比べて格段に多い。まだまだ涼介の知らない面を持っていそうで、底知れないとも思う。精神年齢が相当高いのかも知れない。時々、本当に同い年かと疑うような発言をした。

「……で? いい方法って?」

 急かすと、敦司はニヤニヤしながら、まあ、焦るな、と涼介をなだめる。完全に上に立たれて腹立たしいが、何も思い付かない自分が悪いのだ。そこは、ぐっと堪えた。

「休みの日に、村上の部屋に遊びに行く。そして、ピアノが始まったら、その音のする部屋を探すんだ」

 しかし、そうするにはまず、村上に事情を打ち明けなければならない。第三者というか、予備校関係者に知られることだけは避けたいと思った。不真面目な行為と受け取られかねない。首を縦に振らない涼介に、敦司は仕方ないな、というように軽く息を吐き、

「それか、あのマンションの入り口にさ、張り紙するんだよ。ピアノを教えてください、って」

 ピアノを本気で習う覚悟があるんだったらね、と付け加える。その奇抜なアイデアに驚いた涼介は、マジマジと敦司の顔を見つめた。それ以上に良い方法はないように思える。

「おまえ、すごいな」

「まぁね」

 そう言いながら、涼介の机の一番下の引出しを指差す。ここにビールを隠しているのを知っているのだ。敦司は見た目も随分大人びていて、コンビニで堂々と酒を買う。涼介の引出しの中身も、敦司が買ってきてくれたものだった。

「二本で勘弁しといてやるよ」

 勝手に開けて、缶ビールを二本取り出した敦司は、頑張れよ、と涼介の肩を叩いて部屋を出て行った。最初からビールが目的だったのだ。彼の部屋には小型の冷蔵庫が持ち込んであり、涼介もそれを使わせてもらっている。今からさっそく冷やすつもりなのだろう。その背中を見送ったあと、涼介はおもむろにルーズリーフを一枚取り出し、

『ピアノを教えてくれる先生をさがしています。全くの初心者です』

 できるだけ丁寧な文字で書き、その裏に携帯のアドレスだけを記入した。名前や番号を入れて、悪戯があっても困る。

 ピアノを習いたいわけでもないのにこんな張り紙をすることに、若干の抵抗はあった。しかし、どうしてもピアノを弾いている人物を確かめたい。涼介の気持ちはもう完全に、彼女への恋心だったが、弾き手が気になって勉強が手につかないのも事実。これは、受験に失敗しないためにも、必要なこと。涼介はそう自分に言い聞かせて、もう一度その紙を眺めた。


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