寮生活の始まり
隣のマンションから、ピアノの音が聞こえてくる。聞いたことのない曲ばかりだったが、あまりにも情熱的な演奏に、思わず心を奪われてしまう。演奏している本人の姿を見たことはない。音大を受験する女子高生か、それともピアニストを目指す女子大生か。十八歳男子の乏しい想像力では、その程度の人物像しか浮かばなかったが、たとえ深夜に聞こえてきても全く苦にならないほどの技術を持っていることだけは、間違いない。
今年の四月、正確には三月の中旬、大学受験に失敗したことが確定した涼介は、父親の勧めで全寮制の予備校に入った。というのも、実家は中途半端な田舎で近所にまともな予備校がなく、通うとなると朝五時起き。両親への負担も自分への負担も大きいと判断した涼介は、相当気がすすまなかったが、父の言葉に従った。
「涼介、解ってると思うけど、受験のためにここに入るんだからな」
面接兼、寮の下見に訪れた際、父親はそう釘を刺した。都会は何かと誘惑が多い。大学時代を都会で過ごした父の口癖だ。本人も相当な誘惑に翻弄されたのだろう。父が選んだこの予備校は、門限など生活面でも厳しいことで有名で、規則を守れそうな生徒かどうかを、まず面接で確認するということである。母親譲りの柔らかい顔立ちのおかげか、それはすんなりと突破できた。
「寮母さんが三食作ってくれるし、夜中に出歩くのも禁止。これなら無駄遣いのしようがないな」
仕送りも少なくてすみそうだ、と父親が笑う。恐らく、そんな自由のない生活に嫌気がさして、さっさとここを出て行くために、皆勉強に励むようになるのだろう。その時の涼介は、勝手な想像をして溜め息をつき、絶対に一年で終わらせてやる、と心に誓った。
ところが、寮に入って一ヶ月が過ぎた頃。既に親しくなった戦友たちと食堂で夕飯を共にしながら、意外にも心地良さを感じている自分に戸惑っていた。まず、親の小言がない。これは皆が共通して感じる開放感だった。そして、食事が文句なしに美味しい。割増料金もとられず、おかわり自由。寮母の西川秀子は五十代半ばの典型的なオバさんタイプで、小柄で小太り、いつも元気で感じがいい。皆、秀子さん、と名前で呼んでいた。
そして、……ここからは自分だけだろうが、夜、机に向かっていると、何処からかピアノの音色が聞こえてくるのだ。涼介自身はピアノを弾いたこともないし、家族の誰もそんな高貴な趣味などなかったが、聴いていると不思議と心を癒される。はじめのうちは、近くにピアノ教室でもあるのかと思っていた。しかし、その音は深夜になっても聞こえてくることがある。そして、弾き手は、一人。
『どんな人が弾いてるんだろう』
繊細で、かつ情熱的なピアノに、涼介の想像は止まらない。日を追うごとに、あやふやだったそのシルエットは、年上の髪の長い女性の姿になった。鍵盤の上を滑る、細い指が思い浮かんだ。一度でいいから、その姿を見てみたい。涼介は魔法にかかったように、彼女のことばかりを考えるようになっていた。
食事を終え、真っ直ぐ部屋に帰りなさいね、という秀子の声にだらけた返事をした涼介は、携帯の時計を確認した。まだ門限の九時まで一時間以上ある。
「俺、ちょっと外歩いてくる」
いつものように友人たちにそう声をかけ、涼介はいそいそと寮を出た。
会社帰りのサラリーマンが、駅へと急ぐ姿。予備校帰りの生徒が、携帯の画面を眺めながら歩いている姿。涼介が生活する寮は、駅裏の比較的大きな通り沿いにある。予備校はその隣の建物だ。
涼介は、寮の西を流れる川を挟んだ、八階建てのマンションの前に来ていた。ピアノの音が聞こえるのは、この方角に違いない。そう思っていたから。涼介にとって、ピアノの弾き手を突き止めることは、既に楽しみの域に達している。日課といってもいい。男ばかりの寮生活で、クラスも理系。数少ない女子と触れ合うことなど皆無に近いため、余計に執着してしまうのかも知れない。……今日こそは、その姿を確かめたい。
ピアノの音が聞こえる時間帯を研究した結果、平日の、門限の九時を過ぎた頃から。ということは、何らかの定職についているか、学校へ通っているかのどちらかだと推測できる。
涼介はいつものように、橋の上に移動して欄干に凭れ、携帯の画面を見ているフリをしながら、通り過ぎる人影を観察した。帰宅ラッシュの時間帯で人通りが多かったが、立ち止まっている人の姿はなく、誰もが急ぐように足を動かしている。皆、目的地があるのだろう。自分には、こんなに急いで向かう場所なんてないな。そんなことを考えながら、マンションに入っていく人影を探す。しかし、明らかにスーツ姿の男性ばかりで、若い女性は皆、駅のある方角へと消えていった。
五月に入って気候も良く、夜風も心地良かったが、門限が近づくにつれ、何だか寂しいような感傷的な気分になってくる。あと十分。あと五分。涼介はそこであきらめて、マンションに背を向けた。その時。
コツ、コツ、コツ、コツ、と、ヒールの音が横を通り過ぎる。フワッと届く薔薇の香り。反射的に振り返ると、ブランドもののトートバッグを肩にかけたOL風の女性が、マンションの入り口に消えるところだった。後ろでまとめた髪と、スラリとしたパンツスーツ姿がよく合っている。
「……」
胸が、破裂しそうにドキドキ音を立てた。




