別れの曲
今年の誕生日は、ちょうど土曜日だった。午前中の授業を終え、いつものように食堂でレッスンまでの時間を潰していた涼介の耳に、久々の村上の声が聞こえてきた。どうやらまだ奥村を女性だと思い込んでいるようで、さすがに哀れに思えてくる。
「何度かすれ違ったんだけど、綺麗すぎて、声をかけられないんだ」
苦しそうに溜め息をついた。
「そんなこと言ってると、誰かに盗られちゃうよ? まあ、そんなに綺麗な人なら、もう誰かのものかも知れないけどね」
秀子が意地悪く言って笑う。村上は負けじと言い返した。
「いや、カレシはいない気がするんだよ。指輪、してないから」
バカだな。それはピアノを弾くのに邪魔になるからだよ。涼介は心の中で笑いを噛み殺す。
「六階に住んでることも、解ったんだけどさ。怖くて行けないんだ。男と出てくるのを見るのが怖くて」
それなら一生、やめておけ。心の声が届くことを願って、涼介は席を立った。
すっかり慣れた香水の匂いのするトートバッグを持って、いつものようにマンションへと向かう。しかし、インターホンを鳴らしても、返事がない。まだ眠っているのかと思った涼介は、携帯に電話をかけてみた。
『ただいま、電話に出ることができません……』
「何だよ? もう」
涼介は仕方なく、寮へ引き返そうとした。すると、運良く、食事を終えたらしい村上が歩いてくるのが見える。急いで、植え込みの影に身を隠した。
扉がロックされる前に、首尾よく玄関に入った涼介は、村上が階段を上って行ったのを確認して、エレベータに乗り込んだ。食堂で得た情報によると、彼は健康のために、三階の自分の部屋まで階段を使うのだ。
六階の奥村の部屋に着き、インターホンを鳴らす。それでも、返事はなかった。しかし、いつもの彼の行動から、留守だとは思えなかった涼介は、どうしたものかと考える。……あ。ふと、ある光景が脳裏に浮かんで、直後、赤面してしまった。それなら、出直してこよう。勝手な想像で彼の部屋に踵を返し、エレベータホールへと向かう。すると背後で扉が開く音がした。
「……ごめん、またあとで来るよ」
何だか急かしてしまったようで、申し訳なかった涼介は、ろくに振り返らずにそう言った。しかし、
「……涼介、……助けて、」
聞こえたのは、想像もしなかった言葉だった。
その場に崩れるようにうずくまってしまった奥村を何とか部屋の中へ入れ、寝室のベッドに寝かせた。もともと白い肌だが、その美しい顔は青ざめて、苦しそうな表情を浮かべている。
「大丈夫? どうしたの?」
酒の匂いはしないから、二日酔いではなさそうだ。しかし気分が悪いらしく、何度も嘔吐する。もう全部吐いてしまって、水を飲んでまた吐くの繰り返し。涼介はさすがに心配になってきて、病院へ行くことを勧めた。
「誰かに頼んで、車で連れて行ってもらおうよ」
奥村は、力なく、首を横に振る。言葉を発することもできないほど憔悴しきった様子に、涼介は何をしてやればいいのか解らず、もどかしさを覚えた。そんな気持ちを察したのか、奥村は目を開け、縋るような瞳で涼介の顔を見つめた。
「側にいて、」
その瞳から、涙が零れ落ちる。彼が泣くところを見るのは、二度目だった。それで、ようやく、原因を悟った。
『月ちゃんと葉月くんは、小さい頃からホントに仲が良いわね』
バーベキューのとき、リコの母親がそう言っていたこと。奥村と月子が兄妹であることは、間違いない。涼介は今、確信した。だから、かける言葉が見つからない。血の繋がった妹を愛してしまった彼の気持ちを理解しようとするより、もっと他にできることがあるはずだとも思った。
眠ってしまった奥村の寝顔を眺めながら、なんとか元気づける方法はないものかと考える。口先だけではなくて、何か心に響くこと。一刻も早く、いつものように笑って欲しい。それだけを考えていた。
涼介はそっと寝室を抜け出し、ピアノの前に座った。一ヶ月前から練習しているキラキラ星のページを開く。足元の、真ん中のペダルを踏めば、音が小さくなることも覚えた。奥村の見ていないところで練習するのは始めてで、何だか心細いような気分になるのが可笑しかったが……。片手ずつの練習ではもうほとんど間違えない自信があった涼介は、思い切って両手で練習を始めた。
パチパチパチ。拍手の音に、我に返った。リビングのドアに凭れた奥村が、笑顔で手を叩いている。体はまだ辛そうだったが、笑ってくれた。それだけで、嬉しかった。
「上手になったね。ビックリしたよ」
奥村は、横長の椅子の真ん中に座っていた涼介を端へ押しやって、自分も同じ椅子に腰を下ろした。
「涼介はやっぱり、音楽の才能があると思う。音感だけじゃなくて、テンポも正確だしね。楽譜通りに弾いてると、単調な感じに聴こえるものだけど、涼介の演奏はそんなな感じがしないし、ちゃんと表情のある音楽になってるから。……どう? 才能があるって言う理由、納得した?」
「……、」
答えられない涼介だったが、褒められて悪い気はしない。何だか恥ずかしくて俯いた涼介の顔を、奥村はからかうように覗き込んでいたが、やがて静かに深呼吸をした。
「小さい頃、月子とこうやって、二人でピアノを練習したんだ。僕が右手、月子が左手、って決めて、同時に弾くと、ピッタリ合って、すごく気持ちよかった」
そう言って、キラキラ星の右手のメロディを弾き始める。彼の耳には、月子の弾く左手のメロディが聞こえているのだろうか。涼介がそれに合わせて左手のメロディを弾くと、嬉しそうに微笑んだ。
「こないだ、水族館で涼介に会った時……月子が言ったんだ。兄妹に戻りたいと思うことがあるって。こんなに苦しい思いを抱えて生きていくよりも、あの頃に戻って別々の道を歩いて行ったほうが、お互いのためなんじゃないかって」
黒鍵の上を優しく撫でる、細く綺麗な指。彼女の頬を撫でるかのようなその指先を、涼介はジッと見つめていた。
「僕だって、頭では解ってる。そうに決まってるって。でも、僕は月子を愛してる」
聞きたかった告白を今、目の前で聞いている。それは想像していたよりもずっと辛くて、苦しいものだった。自責の念にかられて黙っている涼介に、奥村は全て、話してくれた。
「中学に入る前の冬、両親が離婚したんだ。月子は母親、僕は父親に引き取られて、遠く離れた土地で別々に暮らした。連絡先を聞いても教えてもらえなくて、ずっと会えないまま、何年も過ぎて、……ようやく再会できたのは、僕が高三の時だった」
幼い頃の記憶を頼りに、母親の実家を訪ねて行った奥村は、そこで月子に再会し、連絡先を交換して、頻繁に連絡を取り合うようになった。大学は同じところへ行こうと約束をして、奥村が入った音大に、月子も翌年、入学した。お互いへの気持ちが愛だと気付いたのは、その頃だった。
「月子のこと、涼介にだけでも彼女だって紹介できて、すごく嬉しかったよ」
誰にも本当のことを言えなかった。周囲が気付いていると知っていても、決して言えなかった。彼が今まで抱えてきた苦しみの大きさを知って、涼介はますます言葉を失う。
「愛しているなら、彼女の幸せを一番に考えるべきだって、綺麗ごとだと思う?」
その質問には、答えられなかった。黒いピアノに映った自分の顔を見つめる奥村は、自分に問いかけたのかも知れない。いつの間にか日が落ちて、薄暗くなってきた部屋の中で、涼介はただ、ジッとその綺麗な横顔を見つめていた。
「誕生日なのに、暗い話でごめんね。ちゃんと、プレゼントは用意してあるから」
気を取り直したかのように、奥村は立ち上がって寝室へと戻って行く。やがて大きな包みを持って、現れた。
「これ、良かったら使って? いつまでも借り物じゃイヤでしょ」
その言葉に、中身がカバンであることが知れる。涼介は何か、嫌な予感がした。
「一緒に飲もうって言ったのに、僕がこんなだから、その中に入れといたよ。ドイツのビール、好き?」
ビールなら何でも好き、と答えながらも、笑顔を造ることができない。
「甘いものが嫌いなのは知ってるから、ケーキは買ってないけどね」
よく、月子が買ってきたケーキを一緒に食べたこと。慣れてしまったのか、それとも単なる食べず嫌いだったのか、今の涼介は以前ほど甘いものが嫌いではなくなっていた。むしろ、そのひとときを楽しみにしていた。そのことに気付いて、ようやく笑みを零す。それを見て、奥村も笑った。
「それと……せっかく来てくれてる涼介には悪いんだけど、引っ越すことにしたんだ。新しい先生にはちゃんと、涼介のこと、話してあるから。ホラ、前に会ったでしょ? リコちゃんのお父さん」
やっぱり。何も今日を別れの日にしなくても、と寂しさがこみ上げる。しかし涼介は黙って頷いた。姑息な手を使って、月子との関係を聞き出そうとした罰かも知れない、とも思った。不純な動機と意地で始めたレッスンが、いつしか一番の楽しみに変わっていたこと。それは間違いなく奥村のおかげで、失うにはあまりにも大きくなってしまっていた。
「僕は弱いから、逃げるしかないんだ。彼女との想い出の部屋には、もういられない。勝手だけど、許して」
「ううん。気にしないでよ。葉月のピアノがもう聴けないのは寂しいけどさ」
口にしてから、そのことの重大さに気がついた。毎晩、涼介を癒してくれたピアノが、もう聴けない。不覚にも、涙がこぼれそうになった。
「そうだ。今、何か弾いてよ。葉月が弾いてるとこ、見たことなかったし」
涙を誤摩化そうと、涼介はそんなことを言っていた。彼がどんな曲を弾いても、涙が零れることは、間違いないのに。
奥村は椅子の真ん中に座り直し、誰でも知っている曲を弾き始めた。「別れの曲」。彼の演奏に初めて、悲しみを感じた。今日、誕生日なんだけどな。そう思ったら、とうとう涙が頬を伝った。
「俺、葉月のピアノ、すごく好きだよ。だからピアノは、やめないで欲しいな。俺も受験頑張るからさ、葉月も頑張ってよ」
それが今の涼介の、精一杯の言葉だった。




