作戦と罪悪感
趣味と受験勉強の両立というのだろうか。最近になってようやく、ピアノレッスンが当たり前の行事になりつつあった。才能の有無はともかく、上達を感じられるのは楽しくて、褒め上手な奥村に乗せられていると解っていても、単純に喜んでしまう。それは日頃から自分の能力を超えた難問ばかりを相手にしている受験生にとっては、この上ない快感だった。
しかし、急激に肌寒さが増して、残り時間の短さを肌で感じる日々。志望校を私立にすれば負担は大きく減るのだが、予備校へ通わせてもらっている時点で、贅沢は言えない。それに、最初に決めた国立一本という決意を、曲げたくないのも事実だった。
そんなある日、これも息抜きの一環なのか、寮の部屋の掃除をしろという命令が下った。あまりの汚さが目に余ったのかも知れない。終わったら秀子のチェックが入り、不合格の者はやり直しとなる。
「何だよ急に?」
皆、面倒くさそうに、雑巾や小型の掃除機を持ち出して、掃除を始める。しかし、大掃除をしていると、意外なものや懐かしいものが目にとまって、なかなか進まないものだ。卒業アルバムを持って来ている者同士で見せ合ったり、プライベートなアルバムまで持ち出して、過去の彼女の自慢大会が始まった。誰の元カノが一番可愛いかという投票をしようと誰かが言い出したとき、とうとう秀子の雷が落ちた。
「こら! 晩ご飯までに終わらなかった子は、御飯抜きにするよ!」
それだけは、避けたい。皆、すごすごと各自の部屋に引き上げ、掃除の続きを始めた。
もともと、私物を殆ど持ち込んでいない涼介には、振り返る過去も見当たらず、早々と終わらせて夕飯の権利を得た。唯一のアルバムは、この寮に入ってからのもので、入塾式から始まっている。顔と名前が一致しなかった頃の写真は、新鮮だった。今となっては見慣れた顔ばかりなのが、可笑しい。
最初のうちは、食堂で撮ったり、部屋で撮ったりしていた写真も飽きて少なくなり、次のページは夏休みのバーベキューの時に撮ったものだった。と言っても、実際にシャッターを切ったのは自分ではなく、他の大人たち。後日、記念にと言って奥村からもらった写真だ。
『あの人たち、兄妹だよ』
妹の言葉がよみがえり、涼介はジッと、写真の二人を見比べる。……確かに、口元や細い鼻筋は、似ているかも知れない。それに、涼介には一つ、思い当たる節があった。それは、利き手。月子は左手で箸を使っていたから、左利きに間違いない。奥村は楽譜に何か書き込む時も、ケーキを食べる時も右手を使っていたから、右利きだと思い込んでいたが、涼介の頬を叩いたのは、左手だった。
咄嗟の時に出るのが利き手、というのを、誰から聞いたのかは思い出せないが、左利きの友達の親や祖父母がまた左利きだった記憶から、遺伝的な要素もありそうに思えたのだ。
『気にしたって仕方ない』
涼介はそう自分に言い聞かせた。もし彼らが兄妹だったとしても、それは涼介が立ち入って良い問題ではないからだ。しかし……。
『何で彼女だって言ったんだよ?』
付き合いの長いであろう友人たちにさえ隠していることを、知り合ったばかりの一生徒に対して、軽々しく口にするだろうか。
リコなら、知っているに違いない。連絡先を聞いていないことを、初めて後悔した。しかし、普通に尋ねたって答えてくれるはずがない。涼介の心は、もどかしさで一杯だった。
「ねえ、リコって何曜日にレッスンしてるの」
レッスンが終わり、楽譜をカバンに入れた後、極力自然にそう尋ねてみた。携帯番号を聞き出したいだけだが、素直に言えるはずがない。
「木曜日の四時からだよ。なんで?」
当然帰ってくる質問だ。涼介は再び、極力自然に、
「別に。家まで教えに行くの、大変だろうな、と思って」
恐れていた通り、奥村の目が、訝し気に涼介を見る。しかし、やがてからかうような表情に変わった。
「何、気になるの? リコちゃん可愛いもんね。カレシいないみたいだから、告白してみたら?」
これも、まあ想定内の会話だったが、すぐさま否定したい衝動に駆られた。が、それをぐっと堪え、
「大学受かるまで、彼女作らないって決めてるんだ。だから、やめとく」
あんなに可愛げのない女は見たことがない。顔のつくりは、それなりに整っていて可愛い子の部類に入るのだろうが、彼女の性悪さがそれを台無しにしている。
「ホント可愛いんだ、リコちゃん。木曜の夕方は、ご両親が揃って留守になるんだけど、先生と二人きりで練習できるから、一週間で一番幸せ、って言うんだよ? 今どき、そんな可愛いこと言う高校生、いないよね」
ああ、もう完全に騙されている。バーベキューの時の、勝手な行動を見ていれば、少しは気付きそうなものなのに。リコが長年、奥村に対してすり込んできた良い子のイメージに、洗脳されているに違いない。
「あ、そうそう。涼介、もうすぐ誕生日だよね。何か欲しいものある?」
突然話題が変わった。気になることが多すぎて、自分の誕生日のことなどすっかり忘れていた。奥村は、レッスン生の誕生日に、毎年プレゼントを渡しているらしい。大変だな、と思いながら、
「……特に、ないけど」
「そんなこと言わないで、何かあるでしょ?」
「ないって。別に良いよ、そんな気を遣ってもらわなくても」
女子じゃないんだから。涼介はそう言ってから、ふとあることを思い付いた。
「物じゃなくていいなら、あるけどさ」
「何?」
「一緒に、飲みに行きたい。葉月と」
さすがに驚いた顔をした。が、すぐに優しい笑顔に変わる。
「涼介も可愛いこと言うなぁ。でも、さすがに未成年を連れては行けないから、ここで飲もうよ。ちゃんといいお酒、準備しとくから」
楽しみにしてて。超がつくほど可愛らしい笑顔で言われて、涼介は急に罪悪感に襲われた。月子とのことを聞き出したいと思うあまりの、作戦だったから。リコの携帯番号を聞き出すよりは確実な方法のはずだが、狭いエレベータに乗り込んだ涼介は、大きく溜め息をついた。
大人を騙して、大人の秘密を聞き出して、どうするつもりなんだろう。あんなにも無防備に自分に接する奥村に対して、罠を張るような真似をするなんて。涼介は迫ってくる誕生日に向けて、日に日に罪悪感をつのらせていた。
「どうしたんだよ? 溜め息なんかついて」
部屋にやってきた敦司が、そう言いながら涼介の机の引出しを開ける。
「なんだ、空っぽじゃん。ここならあるかと思って来たのに」
最近、どうも落ち着かなくて、ビールを消費するペースが速くなってしまった。それに、
「志望校、決めた?」
敦司の口から、そんな言葉が出るとは思っても見なくて、マジマジとその顔を見つめる。もう、そんな時期なのだ。解ってはいたが、まだきちんと、向かい合っていなかった。
「……敦司は? 決めたの?」
「だいたいね。行けるところに行くしかないから、選択肢は少ないよ」
「そうだね……」
それは涼介にも、当てはまることだった。余計なことに気をとられていないで、今やるべきことに向かい合わなくては。たとえ志望校の偏差値に追いついていても、確実に合格できるという保証など、何処にもない。
「安心が、欲しいよね」
つい、そう口にしていた。
「同感」
敦司も笑う。一度失敗している者同士、もう同じ過ちは繰り返せない。
「やっぱシラフだとダメだな。こっちの話題になるから」
「まあ、たまにはいいけど」
隣のマンションから、ピアノのメロディが流れ出した。誰でも知っている曲を弾くことは稀だと知っていた涼介は、窓の外を見る。いつもは自分の中にある強い情熱を、丁寧に音にこめて表現していた彼が、思いをぶつけるかのように鍵盤を叩き付ける様子が目に浮かんだ。
「革命、か。何かあったのかな?」
敦司が呟くように言った。涼介も、同じことを思っていた。