継体天皇はどのように死んだの?
前回、前々回と紹介した継体天皇であるが、その日本書紀における記述は奇妙です。このように書いてあります。
或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
翻訳すれば、こうなります。
ある本では「天皇は28年の甲寅の歳に死んだ」とある。25年の辛亥の歳に死んだというのは、百済本記によった。これによれば「辛亥の歳の3月、安羅に軍を進め、乞乇の城を作った。この月、高麗が王の安を殺した。また、日本の天皇と太子と皇子がともに死んだそうだ」という。この辛亥年というのが25年にあたる。あとは後世の人が明らかにするだろう。
ここで28年とか25年というのは、継体天皇が即位してからの年ということになります。奇妙というのは、日本書紀の記述が「百済本記によった」というのであれば、継体天皇は太子や皇子とともに死んだことになってしまい、後の安閑天皇や宣化天皇の即位はないことになります。
こういう、後代の天皇の正当性を疑わせるような記述を日本書紀がなぜ残したのか、そこが自分の疑問なのです。




