光明皇后「楽毅論」について
光明皇后は能書家として有名であり、王羲之の『楽毅論』を臨書したものが特に優れているといわれています。この作品には「天平十六年十月三日藤三娘」と署名があり、正倉院に残されているそうです。
ところで、この天平16年というのはどういう年でしょうか?
天平12年に、九州で藤原広嗣の乱が起こっています。その4年後の天平16年には、県犬養広刀自(天平のファンタジアシリーズではヒロミ)の子、安積親王が死亡しています。一説によれば、藤原仲麻呂による毒殺とも言われています。
光明皇后が楽毅論を臨書した天平16年というのは、このように世間に不穏な空気が流れている時代でした。
それでは、この『楽毅論』とは、どのような内容だったのでしょうか?
楽毅は、中国戦国時代、燕の国の将軍でした。斉の国を攻めて、そのほとんどを攻略し、莒と即墨の2城だけを残しながら、これを落とさないままでいたところ、解任されてしまいました。『楽毅論』は、この2城攻略に向けた楽毅の姿勢を遠謀あるものとして賞賛しています。
楽毅はその後亡命します。その事を燕の恵王より責められると『報遺燕恵王書』を書いて先王への溢れる敬愛と忠誠の情を表したといいます。この『報遺燕恵王書』は、諸葛亮の『出師表』と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われているそうです。
天平16年という時代に、このような『楽毅論』を臨書した光明皇后は、どういう心境だったのでしょうか?




