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佐紀盾列古墳群の被葬者について

 仁徳天皇の皇后である磐之媛(いわのひめ)命は、佐紀盾列古墳群のヒシアゲ古墳またはコナベ古墳に葬られているといわれています。根拠は、延喜式という平安時代の書物に「平城坂上墓」があると記録されているからでしょうか。

 この磐之媛(いわのひめ)命が死んだ後に皇后となった八田皇女(やたのひめみこ)の墓は、宮内庁によって、同じく佐紀盾列古墳群のウワナベ古墳が陵墓参考地とされています。

 磐之媛(いわのひめ)命は、仁徳天皇が八田皇女(やたのひめみこ)を妃にしようとしたところ、嫉妬して家出すてしまったというほどの人物でした。この二人を、これほど近くの古墳に葬ったことにするというのは、どうにもセンスを感じません。

 それにもかかわらず、どうして、ヒシアゲ古墳ないしウワナベ古墳の被葬者が、そのように(、、、、、)考えられたのでしょうか。私は、遅くとも、平城京の時代には、そのように(、、、、、)考えられたものと思います。これらの古墳は平城宮のすぐ北側に位置していて、当時の人々がその建築当時に古墳の被葬者について関心を払わなかったとは思えないからです。ここから先は、直感でしかないですが、平城宮建設時に、古墳の被葬者をそういうことにした(、、、、、、、、、)のだと思います。おそらく、この磐之媛(いわのひめ)命と八田皇女(やたのひめみこ)の伝説が、当時の皇室において重要な意味をもっていたのです。それゆえ、平城宮から見てもっとも目立つこれらの古墳の被葬者を、そういう伝説上の重要人物に比定したのだと、そう思うのです。

 平城京は、元明天皇の時代に完成されたものでした(710年)。その後、皇統は、元正天皇と女性天皇が続き、我らが聖武天皇を挟んで、孝謙天皇と続きます。こうしてみると、平城京は、女性天皇の時代と言うことができるかもしれません。そして、平城宮の北側の佐紀盾列古墳群は、女性を被葬者としているものが多いです。そこでこの辺りを、「女性」の縁でまとまっているとみるのは、妄想のしすぎでしょうか?

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