葛野王の発言の謎
前回は懐風藻のディープさについて紹介させていただきましたが、今回はその中で掲載された葛野王について紹介します。
葛野王は、天智天皇の第一皇子、大友皇子(弘文天皇)の第一皇子です。おさらいしますと、大友皇子は、壬申の乱の時に、天智天皇の弟の天武天皇と争った敵方の首領です。
時代はくだり、天武天皇の時代の持統天皇の世です。持統天皇は、天武天皇の奥さんですね。天武天皇の長男の高市皇子が死亡した時のことです。このとき、皇太子の擁立について皇族で議論したらしいです。議論が紛糾したところで、葛野王が「日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である」、「どの皇子が最も皇太子に相応しいかとの天意を議論しても、その天意を推し測れる者などいない」、「血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自然に定まる。これ以上誰も余計なことを言うべきではない」などと発言して、議論がまとまったということです(Wikipedia日本語版「葛野王」最終更新2022年8月24日(水)21:02日時は個人設定で未設定ならばUTC)。この辺りのことは、懐風藻にも書いてあります。
さて、鴨居が疑問に思うのは、「日本では神代から親子間での皇位継承が行われて」いるということは、必ずしもそうではありません。直近の天武天皇自身、親から皇位を承継したのではなく、兄の天智天皇から皇位を承継しています。それにもかかわらず「兄弟間での継承は争いの元である」と言い切れるのか。
そしてこの議論の結果として、文武天皇(当時は軽皇子)が皇太子となり、天皇に即位したということですが、文武天皇は天武天皇の子でも持統天皇の子でもありません。その孫です。この議論の時、葛野王の発言に対して天武天皇の皇子である弓削皇子が何やら反論しようとしたところ、葛野王の一喝で発言が許されなかったとのことです。弓削皇子は天武天皇の子であり、他の兄弟が天皇に即位していないとすれば、弓削皇子が天皇に即位したって「親子間の皇位継承」ということにはならないのでしょうか。
さらに奇妙なことに、懐風藻がこうした議論の経過を葛野王の功績として賞賛しているにもかかわらず、それで結局誰が即位することになったのかは明記していない。これはどういうわけでしょうか。
なお、皇位の兄弟継承が禁忌で親子継承が原則だとすれば、天智天皇以下の皇位は、まず大友皇子(弘文天皇)に継承し、次いで葛野王が継承するべき、という考えもあり得ましょう。
こういうわけで、葛野王は「?」の多い人物です。どなたかヒントをお持ちの方、教えてください
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