その9
夏休みの練習は朝7時に始まる。朝早くに起きるのは大変だけど、暑さを避けられるし、1日のうち練習後の時間をたっぷり使えるから悪くないなと思った。
6時50分に校門をくぐりグラウンドを見渡すと、既に陸上部員が何人か集まっていた。これはいかんと駆け足でグラウンドを横切って部室へ向かう。
「おはようございます!すぐ荷物置いてきます!」
「ケイちゃんおはよう。焦らなくていいよー」
春香さんの前を通り過ぎた後、「ケイちゃんは元気だね」とみやさんが春香さんに話しかける声が聞こえた。
部室棟3階の一室、重い鉄のスライドドアを開けると、目の前に赤羽が立っていた。
「おっと、赤羽おはよ」
あまりにもドアを開けてすぐの所にいたからぶつかりそうになった。すると赤羽は手を伸ばして、私の後ろのドアの持ち手を掴んだ。そのまま勢いよくドアを引き、バン!という音とともに部屋が遮断された。陸上部員のお喋りの声が聞こえなくなり、外の世界と切り離されたような錯覚に陥る。
「あかばね?」
ドアと赤羽に挟まれ身動きが取れない。さらに赤羽は自分の腕をドアに当てて私を見下ろす。その目は今まで赤羽からは感じたことのない冷たい目をしていた。
「調子わるいのっ」
赤羽は私が話しかけるのなんかお構いなしで顔を近づけ、そのまま乱暴に口づけを交わす。
一度離れてから、ほとんど間を置かず、もう一度唇と唇が重なる。
「ちょっ……ん!はう!んっ…………」
2回目のキスは赤羽の方から舌を入れてきた。ぺちゃぺちゃと音を立て、お互いの唾液が口内を行き来する。
「ぷはっ!はぁはぁ……ど、どうしたの?」
「走りに来てるのか、ケイに会いに来ているのか分からなくなっちゃった」
「へ?」
そう言って、赤羽は私を残して部屋を去っていった。
―――
徐々に日が昇り気温が上がっているのを感じながら練習が進む。赤羽はいつも通り淡々とメニューをこなしている。一通りメイン練習が終わり、最後にリレーのバトンの練習をしようということになった。まずは春香さんはみやさんと、隣のレーンで私と赤羽がパスを行う。
いよいよ赤羽と共同で走る時間が来てワクワクしている私に対して、赤羽はいつも以上に表情がない。ともすれば嫌がっているように見える。
「赤羽、まずは前と同じ足長でやろっか」
「ん」
離れていった赤羽が助走線の印をつけたのを確認し、「いくよ!」と声を出す。
前の試合での失敗以来、初めてのバトンパスだ。
固くならないように気をつけて走り始める。
目指すは数十メートル先にいる赤羽。今は遠くても、すぐに触れる距離まで届く。
ぐんぐん加速し赤羽に接近する。やがて助走線を越えて、合図の声を出そうとした瞬間だった。
「ハ……!」
赤羽がその場に止まったままスタートしない。地面を向いていた赤羽が私の声でようやく気付いて、しまったという顔をしていた。
「ちょっと!」
ぶつかりそうになりながらもなんとか横に逸れて回避した。急いで振り返り、思わず声を荒げる。
「どうしたの赤羽!リレーやりたくないの!?」
「うん」
赤羽はあまりにもあっさりと即答した。やる気の温度差に胸がざわつく。
「合宿のときはやろうって言ってたじゃん。気が変わったの?今日の赤羽なんだか変だよ」
「……」
「私は初心者で下手くそかもしれないけど、一緒に頑張ろうよ」
「……」
「私は赤羽のために走るからさ」
「……はぁ」
赤羽のため息でハッと意識が覚醒し、全身に緊張が走る。
赤羽は一度首を下げて目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。部室で見たよりも冷たい目をしていた。
「……ねえケイ」
その口調はあまりにも暗くて重い。本能的な恐怖を感じて意識が凝縮される。だけど時間が止まることはない。
「な、なに?」
次の一言を聞くまでの間は永遠に思えた。思いたかった。
「誰がこんなにしんどいことするの?」
「っ!しんどいって、赤羽は陸上が楽しいんじゃないの?リレーも出たいって!」
「うるさいなあ!」
これ以上先に行っては駄目。私たちの間で築いてきた何かが崩れる。私も熱くなって言い返してしまったことを後悔してる。時間を巻き戻して撤回するから。だからお願い、言わないで。聞きたくない、聞きたくない!
「リレーってさ、人に合わせなきゃいけないし」
「……」
「窮屈でしょ?」
「でも……」
「ケイが知ったような口をきいて、つべこべ言わないで。悪いけど私はケイとは走れない。走る資格がない」
私は赤羽に嫌われた。赤羽に拒絶された。
その場で崩れ落ちた私は、意識レベルが低下し、やがて気を失った。
―――
―――
もう何日経っただろうか。
私はその日から練習には顔を出さず、自分の部屋の隅で息を潜め続けている。
よかれと思って言ってたことが、実は赤羽を追い詰めていたみたいで。私は1年前の失敗をまた繰り返してしまった。だけど1年前よりも傷が深い。中々立ち上がる気力が湧いてこない。




