その2
真夏の大会だからアップは軽めにして、ケイと二人でサブトラックからメインスタジアムの招集場所に向かう。
隣を歩くケイは、アップを終えてからもやる気に満ちた顔はそのままで足取りが軽い。
「ケイ緊張してる?」
「全然してない」
ケイから私に同じ質問をされることはなかった。陸上選手として先輩の私には聞くまでもないといった所なのだろうか。
だけど実際の私は、まだ地区の一次予選なのに緊張で胸が痛む。額から流れる汗は暑さのせいじゃなくて多分冷や汗だ。
招集場所の室内レーンは緊張感に包まれ、誰も口を開いている様子はない。私たちも喋ることはなく競技役員の号令を待つ。
1組の選手から順に名前を呼ばれ、ゼッケンとスパイクの確認を受ける。6組あるうち、私は2組でケイは3組。待機場所となる縦に並べられたベンチに座ると、もうレースが終わるまでケイが視界に入ることはなくなる
招集が終わるとすぐに1組と2組の選手が外に出るよう指示が出た。荷物を全て置いてシャツとハーフパンツを脱ぎユニフォーム姿になる。同じくユニフォーム姿になった2組の選手を見ると、日焼けの有無や髪型、ユニフォームとスパイクの色は様々だけど、私が一番背が高いし、筋肉量も私が飛びぬけていることが自分でもわかった。
ベンチから去る瞬間、後ろを振り返りるとケイと目が合って、私の固まった顔の表面がほんの少しだけほぐれた。
午前10時25分
1年女子100mの競技開始がアナウンスされる。1組の選手は既にスタートブロックの調整は済んで、後はスタートするだけだった。
鳴り響く号砲がまるで処刑までのカウントダウンに聞こえた。前方へ駆け出していく1組の選手を見送ってから自分のレーンに入る。さっき少しだけほぐれた顔の皮膚がまた固まる。
風は全く吹いていない。
大丈夫、絶対に勝てる。
自分の力で次のステージへの切符をつかみ取る。
スピーカー越しにスターターの合図が出る。
スタートして前傾姿勢から体を上げると、ゴールは遥か先に見えた。全身をフルに使って前へ前へ駆ける。100mが長い。早く終わってほしいと泣きそうになる。
結局最初から最後まで、私の視界には誰も入らないままゴールラインを越えた。
「さすがだね小蒔ちゃん。ケイちゃんも予選突破おめでとう!」
「あざます」
「春香さんもおめでとうございます!」
春香さん、みやさんもレースを終え、軽いダウンの後、陣地でしばしの休息をとる。
涼しい日陰にいるだけで火照った体が熱を放出して体力が回復する。
「みやもお疲れ様。ベストが出てよかったね」
「ありがとう」
えへへと笑うみやさん。その笑顔は本心なのか、それとも予選落ちのショックを隠しているのか。私と違ってみやさんは多分本心だけど。
そして……
「ケイちゃん、ちょっと固くなってたんじゃない?」
「なんか力んじゃったみたいで」
ケイは前のナイターに比べると幾分かタイムが落ちた。それでも組では2着だったし、私と共に二次予選進出も決まった。
……そして。
弱い自分は心の奥底で、ケイの走りが固くなってタイムが落ちたことに安堵していた。そのうえ私と一緒に二次予選を走ることに落胆と焦りを感じていた。
ケイと同じ組で勝負することになったら私はゴールまでたどり着くことはできるのだろうか。
「ねえ赤羽、これから2時間半どうやって休んだらいい?」
「あぁっと、うん。1日何回もレース出るの初めてだもんね。とりあえず日に当たらないようにして……」
次のレースは午後1時すぎ、そしてリレーは今日の最終競技で、午後3時45分から。
午後1時20分
『只今より行われますのは1年生女子100m二次予選です。全部で2組、タイムレース決勝で行われます』
二次予選は16人の進出者のうち、ケイを入れた予選のタイムの下位8人が1組目に、私を入れた上位8人が2組目に振り分けられる。16人中タイム上位6着までが自力で県大会進出になるけど、振り分けの仕組みで、実質的には2組目の順位がそのまま地区予選の順位になる。
しかし、ケイはその「実質的」を覆して見せた。
1日で一番日差しが強く感じる時間、少し湿ったような銃声音が鳴り響き、1組がスタートした。
「ケイ!ファイト!!」
スタートライン後方で待機する私や2組の選手を置き去りに8人の選手がぐんぐん加速する。遠近感が取りづらい位置にいてもなお、ケイが2位以下を突き放しダントツ1着でゴールしたのが分かった。
心なしか会場がざわつく。みやさんの甲高い「キャーー伊藤さーん!!」という声が耳に入った。
タータンが陽炎でゆらゆらと揺れるのを見ながら、5レーンに入る。スタートブロックが日に当たっていたせいで熱い。
『On your marks』
タータンに触れる指も熱くて焦げそうだけど、表情は崩さない。
『Set……バン!!』
今日2回目のレース。体が全力を出すことに馴染んできて一次ほどの恐怖は感じなかった。たっぷりと温度と湿度を含んだ空気を切り裂いて進む。左側から気配がして横並びになる。これはいい勝負になる、負けたくない、負ける所をケイに見られたくない……
「あかばねー!」
ゴールラインを越えてレーンに沿って徐々に減速する。立ち止まって振り返ると、ゲートで日陰になっている所からユニフォーム姿のケイが笑顔で手を振っていた。その手は人差し指と中指を立てて、私が2着だったことを表していた。
「ハァーハァー……ソッ!」
一度顔を下げて誰にも聞かれないよう悪態をつき、両手を握りしめ爪を手のひらに食い込ませる。しかし顔を上げるころには、笑顔を張り付けて私からもケイに手を振っていた。
「ケイ―!」
「赤羽2位!やったね!お疲れさま!次は春香さんだね」
アドレナリンの出たケイはいつもよりテンションが高く、笑顔が眩しい。
ケイは一次のタイムで出遅れ、二次は1組目に振り分けられたのにも関わらず、ベストタイムを出して地区予選6着に滑り込んだ。




