その1
ケイ 〈伊藤惠〉
陸上初心者。明るめの茶髪、スパイクは蛍光イエロー。
赤羽に触れるまであと一歩のところまで来た。
赤羽 〈赤羽小蒔〉
アスリート体型。走るときは伸ばした髪をひとまとめにする。
ケイが陸上にのめり込んでいくのを見て何やら複雑な想いを抱いている。
赤羽視点になります。
陸上は楽しくない。
正確には、楽しい風を装っているけど、根っこの部分では逃げ出したいと思っている。
じゃあどうして、もう10年近くも走り続けているのだろう。
強迫観念を持っているのだと思う。私には陸上ぐらいしか周りに誇れる物がない。陸上が出来なくなり病んでいった姉のようにはなりたくないという臆病な私の防衛本能。
「弱い自分は、ケイには見せたくないな」
ユース陸上競技対校選手権大会…地区予選会
7月末から9月にかけて地区・県・地方に勝ち上がりの、学年別の大会。高校陸上のもう一つのメインの大会。
電車を乗り継いで競技場前の駅を降りると、まだ8時にもなっていないのに太陽は高々と上がっていて、じりじりと肌を焦がす。同じ高校生の群れに混ざって数百メートル先のスタジアムを目指す。ちょうどスタジアムの入り口で立ち止まり空を見上げると、反り返る灰色の外壁が太陽を隠して、私が今立っている所も日陰になっている。さっきまでの暑さは少し和らいだけど、その代わり、この無機質な巨大建造物に飲み込まれて生きて帰れないのではないかと寒気を感じた。
スーっと息を吸う。
今から私は戦う。
風になる。
何も考えないようにして、恐怖と緊張を隠し通す。いつも通りにやればいい。
ほっと一息入れたところで後ろから声がした。
「赤羽、おはよ」
「ケイ!おはよう、早いね」
私の好きなケイ。好きなんだけど根っこの部分では……言葉に出来ない複雑な何かを押さえつけて笑顔を作る。
「いっつも遅刻しそうになってるのに」
「今日は早起きしたんだ」
言われてみれば、いつものケイの眠気まなこは見られなくて、活力に満ちている気がする。
「10時から100mあるしね」
「なるほどね。それじゃ、皆の所にいこっか」
今日の場所取りは長距離ブロックの男子がやってくれている。地区予選は学校の数も少ないから、競技場の中通路を巡っているうちに、すぐにブルーシートで丸まって寝ているみやさんを見つけた。行き止まりになっている一番奥だ。
シートでくつろいでいる男子たちに声をかける。
「おはよう、場所取りありがとねー」
「あ、ありがとうございマス」
ケイもつられてお礼をする。男子が企画してくれた会を途中で抜け出したあの日以来、ケイが1年の男子と話しているところは見たことがない。
「おはよう赤羽さん伊藤さん!2日間頑張ろうね!」
色黒の同級生と二言三言交わす。その間ケイは気まずそうにもじもじしていた。
うちの陸上部は3年生が抜けて、部員は9人しかいない。女子4人が短距離で、残り5人の男子は全員中長距離の選手。全員が何かしらの競技にエントリーしているから、陣地に誰もいなくなる時間が自然と発生する。
「ねえケイ」
「ん?」
「今回はご褒美形式じゃなくて、今すぐしたい」
最近はもうケイのキスなしでは走る気力が出ない。依存症ってこういうことを言うのかなと思ったりする。
ケイは辺りを見渡すと、誰もいないことを確認して小さく息を吐く。
「短めにお願いね」
「そうする」
ケイが目を閉じる。無防備なケイを見るこの瞬間、いつも私はよからぬ思いを馳せてしまう。
外の気温が高くて、ケイの唇は涼しく感じた。
今日は注文通り、触れただけですぐに離れた。
「アップいこっか」
ケイは私を受け入れてくれる。それがたまらなく気持ちがいい。
「ん」
今日は100mと4×100mリレー。100mの方は私もケイも、実力を出せばほぼ間違いなく二次予選に進めるから、多分3レース出ることになる。本当は3回したいところだけど、胸の中の言葉に出来ない複雑な何かが歯止めをかける。
ウオーミングアップのため2人でサブトラックへ向かう。隣で歩くケイは今までにないぐらいやる気に満ちて、「やってやるぞ」という顔をしていた。一方の私は、この前ケイに「赤羽って試合の時表情がなくなるよね」と言われた。「そうかな」と返すと「かっこいいけどね」と付け加えられ、やっと褒めてくれていたことに気が付いた。恐怖で顔が強張っていることを見透かされたわけではなくてほっとした覚えがある。
ケイが気になって思考が反芻する。臆病な私の緊張と恐怖を抑え込もうとする。心臓がいつもより速く脈打ち、呼吸が速くそして浅くなってきた頃、ある結論が、まるで雷に打たれたように頭にバチっと浮かび上がる。とても悪魔的だけど、複雑な何かがしっくりと解決できてしまった。ケイの白い肌が、少しハイライトがついてきた明るい髪が、さっきまで触れていた唇が私を奮い立たせる。
緊張しても怖くても、私が走ることができるのは、ケイのおかげだ。
緊張しても怖くても、私が走るのをやめられないのは、ケイのせいだ。
……私はケイを、私が陸上をするための道具にしている。
じゃあ好きってなん……
「赤羽?」
「あ、ううん大丈夫」
「アップは一緒にする?別でする?」
「……別でしよっか」
後ろめたくて、サブトラックに着くととすぐにケイから離れ、足早にジョグを始めた。
シリアスな展開を予定していますが、その先をお楽しみに、どうかお付き合いいただければと思います。




