その9
赤羽はポカンとしたままだ。私のジェスチャーでは伝わらなかったらしい。せっかくやったのに、空回りしてけっこう恥ずかしい。スリスリと膝歩きで赤羽に近づき、耳打ちする。競技の歓声がうるさくて声の調節がし辛い。
「チューするんでしょ!大会で頑張ったら!」
やっと思い出したようだ。赤羽はハッと目を開いて口元を隠す。次第に顔がほぐれ、しまいには気まずそうに私から目を逸らしてニヤケ顔になっていた。
「が、頑張るってどうすればいいの?」
私はあごに手を当てて「うーん」とうなる。言われてみれば確かに、目標がぼんやりしている。赤羽がどんなレースをしてもキスはしてもらうつもりだから適当に言ったけど、どうしようか。何も思いつかない。
「頑張るって、そりゃ……頑張ったら、だよ」
「なにそれ」
フフと赤羽から穏やかな笑みがこぼれた。かっこ悪いとか負けるとか、そういうネガティブなものから赤羽を少しでも遠ざけることができた。
「赤羽がどんな走りをしても、自分で『頑張った』って思ったらそれでいいよ」
「そっか、それじゃ頑張るね。でもなぁ」
困ったような顔をして、歯切れが悪い。まだ踏ん切りがついていないようだ。
赤羽の気持ちになって想像力を働かせる。準決勝では自分が一番予選のタイムが遅くて、自信がなくて、負けるのがかっこ悪いとすると。
「赤羽の言う『かっこ悪いところ』を私に見せたくないんだ?」
赤羽にとっての私の存在の大きさはわからないけど、少なくともその他大勢の人よりは大切に思っているだろう。キスはするし好きって言ってくるし、付き合っている人もいないって言っていたし。
「そう、そうなの。どべたになるのをケイに見られたくない」
「だったら別の場所に行って、見ないでおこうか?」
見るなと言われても、絶対になんとかして見るつもりでいるけど。
「それはちょっと寂しいというか違うじゃん」
「むう」
「……そうだ!」
せっかくの提案を「違うじゃん」と言われて一人で感傷に浸っていると、赤羽が何か思いついたようだ。
「ゴールのところで待っててよ」
―――
準決勝の始まる12時になる少し前。観客席から、赤羽に指定された場所へひとりで移動する。レース直前になって私が立ち去るのを見て、春香さんやみやさんだけでなく、他の部員も皆不思議そうにしていた。春香さんが「ケイちゃん?」と言ったけど、聞こえなかったフリをして速足で階段を上る。
到着した場所は、第1コーナーの外側にある入場ゲート。競技場に入るか入らないかの所でひっそりと場内を見渡す。観客席では選手を上から見ていたけど、ここからだと選手とほぼ同じ目線の高さになる。そしてゴール側からスタート側を向いているから、選手は私のいる方へ正面から走ってくることになる。
100mの前には女子3000mの決勝があって、ゴールした選手が何人か座り込んで体を休めていた。本来応援をする場所じゃないし、3000mの選手の付き添いをしているわけでもない私に、奇妙な視線を送ってくる人もいた。
アナウンスの声も観客席で聞いていた時より遠く聞こえる。
『只今より行われますのは、女子100メートル準決勝。2組行われ、各組3着までの選手とタイム上位2着までの選手が決勝進出となります』
スクリーンに映し出された1組目のスタートリストにはノエルの名前があった。赤羽は2組目のようだ。遥か遠くのスタートラインでは、ノエルが練習走行をしていた。観客席とは視点が全く違うから、かなり不思議な感覚がする。アナウンスの声も歓声も、選手の姿も小さい。まるで大会の蚊帳の外にいるみたいだ。
『第1組。8名でのスタートです』
赤羽がなぜ私にこんな寂しい場所にいるよう指示したのか、レースが始まるとすぐに分かった。
『On Your Marks……Set……パン!』
遠くで響く銃声と共にスタートした選手が、横一列になって真正面から迫ってくる。前傾姿勢から加速し、やがて全速力で走って来る。だけど、
「誰が速いか分からないな」
前から見ているから、遠近感が掴めず誰がどの順位にいるか判断できない。これなら赤羽が最下位でも見た感じの印象は薄くなる。
段々選手が近づいてきて怖い。遠くにいた人たちがものの十数秒で、表情までくっきりと分かるほど私の視界の中で大きく膨らんできた。
ゴールした選手はそのままコーナーを使って減速し、私のすぐそばまで接近する。ノエルの順位は多分2位か3位だと思うけど、次の組を見るために視線をスタートラインへ向ける。
赤羽が一番外側のレーンで、スタートの調整をしている所だった。
「頑張れ~」と小さくひとり言を言う。観客席から見ていた予選の時とは違って、距離が遠くて赤羽が何をしているのかはっきりとは見えない。精いっぱい目を細めて凝視する。
『On Your Marks』
早くもスタートの合図が始まる。赤羽は一度だけ、力ませた両肩をストンと落とし、クラウチングの体勢になる。
『Set……パン!』
声援は遠くで聞こえていて、今レースが行われている最中だという現実感がなかった。だけど、私の目はしっかりと赤羽を見ることができた。
迫ってくる赤羽は、ただ前を見つめて走っている。凛と力みのない淡々とした、私の好きな表情。
赤羽は一番外のレーン、つまり私に一番近いレーン。順位もタイムも分からないけど、真正面から赤羽が私の方へ走ってくるのを見て、まるで私のために走ってきてくれたのかなと錯覚がした。
ゴールしてそのまま9レーンのコーナーを行くのかと思いきや、赤羽はカーブせずにトラックからはみ出てしまう。ゴールした後も一直線に私のもとへ走ってくる。さすがに疲れて、歩行になったけど、足を止めることはなかった。
私と目が合う。肩で息をしたユニフォーム姿の赤羽が両手を広げて歩み寄ってくる。走り終わった直後に腕を上げるのはとてもしんどいはずなのに。だから私も両手を広げ、私は赤羽に駆け寄る。
多分、観客席から見えるんだろうなと思いながら、私たちは二人で抱き合った。
前の時は赤羽に潰されるぐらい強く抱かれたけど、今回の赤羽は私にもたれかかるだけになっている。
「頑張ったよ、ケイ」
赤羽の首元と背中の汗が、私のほっぺと赤羽の背中に回した掌に触れる。
鼻をすする音が聞こえ、声も少し震えていた。
「お疲れ様、よく頑張ったね」
自分なりの不安や恐怖と戦い抜いた赤羽にねぎらいの言葉をかける。
意図してこの場所を指定したのかは分からない。だけど、レースを終えた彼女を、私は誰よりも早く迎え入れることができた。




