その8
一旦競技場の外へ出て、エントランスから100mのスタートに一番近いゲートへ向かう。競技を終えた選手は、競技場の中の通路を通ってスタート付近まで戻り、自分の荷物を取りに戻るから、その時に合流する。
通路の出口から、春香さんと赤羽が揃って出てきた。二人ともスパイクを脱いで、靴下で歩いている。上半身は汗ばんでおり、100mを走るのに費やしたエネルギー量を物語っていた。
「春香、赤羽さんお疲れ様!」
「みや~疲れたよ~」
春香さんは緊張の糸がほぐれた様で、みやさんの肩に手を置いて「はぁ~」と大きく息を吐いた。
「赤羽、やったね」
赤羽は準決勝でもう一回レースがある。もしかしたら決勝まで行って、後二回走るかもしれない。
「ありがと」
赤羽の微笑みは久しぶりに見た気がした。
「まだレースあるけど疲れてない?スパイク持つよ。あと荷物も」
「慣れてるから大丈夫だよ」
赤羽はえへへと返して全く意に介していないし、それが普通だし健全だ。こんなやりとり、人生の中で一々数えていられない程たくさんある。だけど、自分の提案が拒否された事実に、繊細な私の心がチクリと痛む。
なんてことない、なんてことはないから、これぐらい。記憶がフラッシュバックしそうになるのを目を瞑って抑え込む。
「どうしたのケイ?」
「ううん!何でもない!」
「小蒔ちゃん、着替えてからダウンいこっか」
「了解です。ケイ、みやさんありがとうございました。先に陣地に戻っててください」
赤羽は春香さんと競技場内になる更衣室へ向かっていった。
―――
準決勝の招集まで2時間弱。赤羽は陣地に戻って回復に努める。汗で濡れたユニフォームをブルーシートに広げて乾かし、軽いアイシングの後にストレッチをして、ゼリー飲料とオレンジジュースを流し込む。
「やっぱりノエルは速いね、敵わないや。ノエルだったら決勝も地方大会にも行けるかも。12秒66って、速すぎでしょ」
赤羽の口数が多い。ストレッチマットにうつ伏せになってから喋り続けている。アドレナリンが出ているのだろうか。
「1年生で1着で準決はヤバい。予選タイムも上から数えた方が早いし、一流だね」
ノエルノエルと、ここにいない人の話をしている。1年生で準決勝に進んだのはノエルと赤羽だけだった。準決勝へは予選の各組2位以内の人と、2位に入れなかった全選手の中でタイムが速かった順で6人が+αとして準決勝に進む。リザルトだと、赤羽の走った第5組からは+αの、つまりタイムが良くて拾われた選手はいなかった。そして、赤羽の予選の記録は、タイムで拾われた6位の記録よりも遅かった。「組が遅くて助かった」ってやつだ。
「大体12秒5を切ったら一流で、11秒台は全国レベルの超一流で、……聞いてるケイ?」
「あ、うん」
やはり、赤羽には落ち着きがない。その態度には見覚えがあった。つい昨日の、200mの予選のときだ。
―――『特に全国に繋がっている大会だとベストを出してもお構いなし。順位ばかり気にする大バカになるのよ』
昨日のノエルの言葉を思い出した。
―――『あんたの前では元気良いところを見せて、不安なり不満なりを誤魔化していたんでしょうね』
……不安なんだ、今の赤羽。
リザルトで他の選手と赤羽の記録を見て、赤羽の決勝進出は難しいだろうなと思ってしまった。なぜなら、準決勝に進んだ選手の中で、赤羽の予選のタイムが最下位だったから。
きっと赤羽も、「敗北のレース」が待ち構えていているのを感じている。
記録には興味がないの?じゃあ、赤羽は何を目標に走っているのだろう?……全国大会?
マットで腹ばいでいる赤羽の目の前に移動する。赤羽は私に構うことなく、組んだ腕にあごを置き、視線を下げたままだ。不貞腐れているような、諦めているような。とにかくよろしくない。
「ねぇ赤羽」
「中学の途中から、もう私はノエルには一度も勝てて……」
「赤羽!」
やっと赤羽と目が合う。さっきのレース前の凛とした落ち着きはなかった。
陣地には私たちしかいない。他のみんなはマイルリレーの見物で観客席にいる。
「準決勝、怖い?」
「……っ」
「不安なの?」
「…………何のこと、かな」
赤羽はうつ伏せから、私と同じ正座を崩した座る姿勢になり、私と向き合う。
言葉ではそう言っているけど、目が泳ぎ、明らかに動揺している。
ノエルの名前を出すのはやめておこう。説明するのが面倒くさい。
「赤羽は今の自分では決勝には進めないと思っているんじゃない?それで、負けるのが怖いんじゃないの?」
言葉にして声に出した瞬間、恐怖で心臓の鼓動が急激に速まる。
これ以上はムリ。デリケートな部分に踏み込みすぎた。昨日までの私だったら、赤羽の異変に探りを入れはしない。
だけど、赤羽がさっき私に見せてくれた風のような走りを、もう一度見たいと思ってしまった。
もし赤羽が今の私の言葉を否定して、はぐらかして自分の殻に閉じこもるようなら……私も、元の空っぽな自分に戻る気がした。それが怖ろしくてたまらない。
「……ケイには、ケイだけには気づかれたくなかったな」
「ごめんね」
赤羽が本音を言ってくれた。ホッとしたのもつかの間、赤羽を傷つけていやしないだろうかと不安になる。
「かっこ悪いよね、途中で負けちゃうのって」
そんなことはない。だって春香さんは、予選敗退でベストタイムでもなかった。だけど全力でこの大舞台を駆け抜けた勇姿は、私の目に鮮明に残っている。
でもここで赤羽を否定して言い合いになると、絶対に良くないことになる。ギクシャクして、ともすれば修復不可能なほどの溝ができてしまうかもしれないと本能で感じた。
赤羽の価値観を否定しないまま、赤羽の邪念を振り払い、全力で走ってもらうにはどうすればいいのか。必死に考えた末に思いついたのは、あの”作戦”だった。
「途中で負けた人は頑張っていないってことなのかな~」
「え?」
どういうこと?と赤羽が聞く前に、私の右の人差し指で赤羽の口を指差し、そのまま私の唇を数回叩く。恐怖を隠し、にんまりと笑って見せる。
「頑張って、3日分、するんでしょ?」
大会初日の帰りの電車内で取り決めた”このインターハイで頑張ったら、金土日でお預けしたキスをまとめてする”という約束。
私が仕掛けたご褒美作戦。結局は色仕掛けだ。……さあ、どうなる。




