第17夜 暗転して暗雲
前回のあらすじ
馬、奪いました。
「急げ、急ぐんだ!」
帝国より走る部隊が一つ。とても慌てた様子で走っていた。
全体で50人ほどの部隊で戦争するにも応戦するにも心許ない人数で、部隊を率いているその人も日曜日に縁側でお茶を飲んでいるのが実に似合いそうな老人で、戦争向きな人では無かった。しかし、その人は本心から焦った様子で兵士達に走れ、走れと命じる。
「まだ、ご存命でいらっしゃると良いが‥‥。」
彼は帝国后妃付きの親衛隊の1人、エンコフという老将軍だった。彼はその直属の上司である妃の望みで辺境伯領に部隊を連れてきていた。目指すは妃が大事にする皇子の下、そして、彼を保護することが彼の使命だった。
シリウス皇子は妃と皇帝の18女1男の長男であり末の子どもだった。妃とっては何百年待望の息子であり、次期皇帝となる大切な跡取りであった。しかし、運が悪いことに何千人に1人しか持たない魔眼を持って生まれたことで、父に疎まれ、常にその命を狙われるようになる。妃は我が子を例え、実の父であり愛する夫であろうと殺されたくはないと、今まで必死に皇子を守ってきた。
しかし、まさか出陣する直前に皇子を同伴させることを決め、送り出すとは妃も考えておらず、慌てて自身が持つ部隊を送り出し追わせたたのだ。彼を保護し、連れ帰る為に。
‥‥しかし、もしかするともう既に‥‥。そんな思いがエンコフには過ぎる。
しかし、彼は希望を絶やさないよう自身を奮起させる。
「‥‥今、私が行きますぞ!皇子!」
エンコフはそう自身に言い聞かせるように言い、馬を走らせた。
だが。
そんなエンコフの前に信じられない光景が広がる。
魔族の、自身の国の兵士達が隊列も組まずにこちらに向かって逃げてくるではないか。それも何千人も鬼気迫る表情で尋常では無い様子だった。思わずエンコフの部隊は立ち止まる。
魔族は誇り高い。滅多なことでは撤退をしない上に、負けず嫌いでプライドが高い者が多い。‥‥そんな彼らが我先にと逃げる様子にエンコフも部隊の兵士も呆然と見てしまう。
「‥‥一体何が起こったんじゃ‥‥。」
エンコフは馬上から逃げ惑う1人の魔法士を引っ掴んで捕まえると、事情を聞いた。
「すまんが、状況を教えてくれ‥‥。」
「わ、分からないのです‥‥!」
「分からない?分からないということは無いであろう。」
「いえ、そうとしか言いようが無いのです。いきなり戦力の半分を向こうの罠で失くし、敵の奇襲で惑っていた私には‥‥一体何が起こったのか分からないのです。」
曰く、詠唱中に顔を上げたら、今に絶命しそうなほどの恐怖に突然襲われ、あまりの恐ろしさから我を忘れて、逃げてきたのだという。恐怖が一体何で、どこから湧いたかも分からないが、とにかく恐ろしくて戦場に居られなかったと魔法士は言った。
エンコフはその話を聞きながら瞠目した。帝国側が戦闘不利であったというのも驚きだが、戦場から逃げ出すほど恐怖とは一体何なのか。しかし、今はそれに気を取られすぎてはいけない。どうしても聞かなくてはいけないことがある。
「‥‥皇子は!?皇子はどこへ!?」
「東の崖です。まだそちらにいらっしゃるかと‥‥。」
その話を聞いて、エンコフは魔法士を離すと自身の部隊に告げた。
「東の崖だ!あともう一踏ん張れ!」
そうして逃げる彼らとは別の方向にエンコフは馬を走らせ、部隊を率いていく。
エンコフは彼らが見た恐怖というのに心当たりがある。もう随分昔の話だが、まだ小隊長であったエンコフもまた彼らのように戦場から撤退したことがある。まさか、あの時と同じようなことが起こったというのだろうか?
‥‥皇子に何事も無く、無事でいることをエンコフは願う。
彼を大切に思うのは妃だけでなく、このエンコフもなのだから。
東の崖の頂上に行く長い山道に入る。名馬であれば崖をも駆け越えることができるが、生憎、そんな馬は持ち合わせていない。
針葉樹が鬱蒼と立ち並ぶ山林の中をひたすらに走る。すると頂上から悲鳴が聞こえた。
「ああああああ!!」
「嫌だぁ!死にたくない!!」
その声にエンコフは馬に走れ、走れと指示を出す。頼む、間に合ってくれ。その時、山林の間から何かエンコフ達の前に落ちてくる。‥‥よく見れば、それは魔族で皇子の使用人であった男だった。恐怖に歪んだ壮絶な表情を浮かべたまま絶命しているようだった。エンコフは焦る。使用人が死んでいるということは皇子も‥‥!!
「シリウスさまあああ!!」
エンコフは死に物狂いで崖を目指す。急いで急いで急いで急いで‥‥!彼を、救わねば、救わねばならない。針葉樹林の木々が少なくなり、頂上がすぐそこまで見える。あと少し‥‥あと少し‥‥あと少し!!走れ、走れ!!
そうして、間に合ってくれ‥‥!!
だが。
彼を出迎えたのは大量の血飛沫だった。
一方、帝国王城、謁見の間。
「何!?兵が命令も無しに撤退した!?」
「はい。今、速達の伝聞魔法が来ました。」
謁見の間では、黒づくめの皇帝直属の暗殺部隊の1人が、先程から苛立ちが止まらない様子のナーバルにそう報告する。
その報告を聞いて、ナーバルは舌打ちし、怒号を上げた。
「何じゃ何じゃ‥‥!たかだか何千人程度の敵に不利になった上に、逃走だと?奴らは我が魔族ではない。全員、首を刎ねよ!」
「‥‥し、しかし‥‥。」
「わしが皇帝じゃ!わしが言っているのだから、わしが全てだ。実行の手筈を整えよ。」
そうナーバルが指示すると、暗殺部隊のその男はその表情に困惑と迷いを浮かべながらも、その謁見の間から出ていった。
誰もいなくなった謁見の間でナーバルは親指の爪を噛みながら、どうにも上手く行かない現状に怒り狂っていた。わざわざ2万に兵を増やしたというのにこの敗北ぶり。2万でも惜しいと思っていたというのに、とんだ無能共しかいなかったらしい。
フローレンスを落とせば、皇帝となった自身に箔が付くというもの。だからこそ、先帝でさえも成し得なかったフローレンス侵略を実行したというのに‥‥!!
「ふざけやがって‥‥これではわしが舐められるではないか!!」
そう1人怒りに燃えるナーバル。
その瞬間はそんな時にやって来た。
『おいおい、めっさ怒ってんな!君!』
実に呑気な声がナーバルにかけられる。その声にナーバルは顔を上げる。皇帝に向かい、何と砕けた口調で声をかける不届き者がいたことだろうか、すぐに姿を見つけ、その首を切ろうとしたが‥‥ナーバルの周りには‥‥不思議なことに‥‥誰もいなかった。
「?」
『おーい、何、探してん?もしかしてミーをお探しかえ?』
しかし、声は聞こえる。それもかなり近い場所から声が聞こえていた。そう‥‥至近距離。つい耳元で声を発しているような‥‥。
『そりゃあそうや。だって、ミーは“君の体内”におるんやもん。』
「!?」
息を呑む。ナーバルはすぐさま謁見の間にある鏡の元に向かう。そうして自身の顔を映すと、それは‥‥自分の目にダイレクトに映っていた。
「わ、わああああ!!」
思わず、自身の顔に手を当てその目を抉り出そうとする。しかし、何故かその手は自身の思い通りに動かない。手はぶらん、と何かの意思を失ったようにただ垂れるだけだった。
「な、な‥‥!」
『あー自分の体に異物があるんのが、嫌やった?ごめんごめん。いやあ、でも、“寄生虫”が1匹2匹いるぐらいで驚かんで欲しいわぁ。』
「‥‥きせいちゅう‥‥だと‥‥?」
腰が抜ける。何故か足が動かなくなったのだ。全くどうする事もできず、ナーバルは謁見の間の絨毯に倒れ込む。受け身も取れず倒れたのに、痛みは何故か無かった。自分の身体がまるで‥‥自分のものでは無くなったかのように。
『聞いたことあっしゃろ?水辺に行くカマキリ、カエルの口に飛び込む芋虫とかの中身、蝶の蛹から出てくる蜂は有名やな‥‥それが寄生虫なんよ。他人の身体の中で生きて、そして、“その身体を操るヤツ”。』
「!?」
ナーバルは声を出そうした。しかし、もう口も動かなかった。‥‥何故なら、この身体は既に‥‥恐らく。
『ミー、ずっと待ってたんよ。君が皇帝になるのを。だって、そうやろ?“そうなって欲しかったんやから”。』
「‥‥!!、!!!!!?」
『君の身体に数百年住まわしてもらいつつ、君の体をずっと使わせてもらいましたわ。いやあ、贅沢やね。おかげで“先帝もおしゃかに出来ましたわ”。』
「!?」
『あれ?君、覚えてない?先帝の夕飯の中に、毒を入れたの。君がノリノリやったから、見ていて楽しかったんやけどなー。あーそういや、今回の件も本当にノリノリでやってくれはったね。フローレンスへの出陣、皇子の同伴‥‥まあ、ようやったわ。』
嘘だ。とはもう言えない。だってもう喉も動かない。何故、何故、こんなものが自身の中にいたのだろう。何故‥‥自身がこんな目に‥‥?
『しゃーないで、君。君がミーの宿主である以上、そうなる運命や。そうそうでも、喜んで?今日でミー、君からおさらばするから。』
その言葉に思わずホッとした。そうか、早く、早く出て行ってくれ!!気持ちが悪い。酷く吐き気がする。お前がいるというだけで嫌だ。皇帝であるわしから離れろ!!
『でも、おさらばしたらな?君、死んでしまうけどええ?』
‥‥絶句した。
『宿主の宿命やもん。しゃーないわぁ。もう君の身体の中で食うとこなんて、貧弱な脳みそしかないし、ミーの力で今、君生きているようなもんやもん。寄生虫としての存在意義を考えるわー。それに、もう君の身体を使ってやる事ないし、主も帰ってこい、と言うし。しゃーない、しゃーない。』
「‥‥あ、‥‥い‥‥や‥‥。」
『それに君が皇帝のままの方が、ミー損する~。だって、あのいけ好かない子が出て来たら、君の立場フルに利用されるもん。あーやだやだ、君を操るのはミーだけで充分だい!』
「い‥‥や‥‥あ、だ‥‥!」
『嫌、言われてん困るわ~。ミーもう次の異動先、申請してるし。‥‥受理されないけど。
‥‥あーでも、君に感謝が無いわけじゃないからな‥‥。』
『‥‥魔眼をあげるよ。皇帝陛下。』
『思う存分、魔眼で世界を見ればいい。』
その途端、ナーバルの目に膨大な情報が雪崩込む。何十もの獣人の国のシーン、何百ものフローレンスのシーン、帝国の隅々に渡るような視野情報だけではない。何千という動物の営みに何万もの植物の死、何億もの大地の揺らめき、何兆に渡る種族や動物の口の動き‥‥膨大すぎる情報の多さにナーバルは泡を吹いて苦しむ。そうして、一秒と持たずに脳が焼き切れた。
『おやすみなさい。宿主。さようなら!』
鏡に映っていたのは、倒れ込み動かなくなったナーバルと、その傍らで笑う少女。しかし、現実には不思議なことに、泡を吹いて亡くなったナーバル1人しかいなかった。
エンコフは着いた途端、自身に血飛沫がかかるのを、寸前で避けた。‥‥おかげで視界は良好のまま、その場所で行われていることを正確に誤解なく理解することが出来た。しかし。同時に身が竦む。
レーテンブルグ候を先程切り払ったその人を見ようとするとまともに思考が動かなくなる。恐怖で麻痺してしまい、今に逃げ出したくなるのだ。しかし、エンコフは耐え抜いた。恐怖に足が動かなくなりそうになりながらも、その人が次に狙いを定めただろうその幼子‥‥皇子を即座に見つけ、その人の剣が振り下ろされる前に彼に駆け寄ったのだ。
「なりませぬ!!」
恐怖に怯え、顔面蒼白のまま震える彼の前にエンコフは彼を守るように身体を滑り込ませる。それによって、幼子に振り下ろされる筈だった剣は、エンコフの顔の目の前で止められた。それが驚きか、慈悲かは知らない。しかし、それに内心、間に合ったとエンコフは胸をなで下ろした。少なくとも時間稼ぎが出来た。そうして皇子の身代わりになるように自身をその恐怖に晒し差し出し、自身の剣を地面に起き、頭を垂れた。
「エンコフ殿!?」
自身の兵士達の驚く声が聞こえる。彼らも間に合ったのだ。しかし、彼らではこの存在の前に自分を差し出すなど無理だろう。エンコフは“2度目”だからこそ、耐え忍ぶことが出来ている。あの必死に逃亡したあの時。確かにあの時と同一人物かはエンコフには分からない。しかし、今、感じるこの恐怖はあの時に近かった。だからこそ、踏ん張れる。あの時の敵から逃亡した恥をエンコフは忘れたことは無い。今、その時の恥を拭い、勇気を振り絞る時だ。そして、何より‥‥後ろには守るべき人がいる。
「‥‥どうか慈悲を。この方だけは、この方だけは手をかけないでいただきたい。」
エンコフはその人に懇願する。全身で、自身の首を刎ねてしまっても構わない。だが、この人だけは逃して欲しいと願う。この恐怖しか人に与えない存在に慈悲があるのか分からないが、やるしか無かった。それだけ大切な存在なのだ。形振り構っていられなかった。
だが、そんなエンコフにかけられたその人の返答は予想外のものだった。
「‥‥貴様は、保障できるのか?それで。」
思わず、顔を上げる。そこには酷く冷たく深く鋭利で凍えた目があった。
「貴様は、この者が今後生きて、我が領地を荒らさないという保障が出来るのか?」
その問いに絶句してしまう。つまり、この人は彼が皇子であること、皇帝の後継者であることを知っていて、手にかけようとしている。将来、自身の領地にまた侵攻しようとするだろうと踏んで。
その人は淡々と続ける。彼の使用人がここにいれば普段とは違いすぎるほどの、あまりの饒舌に震撼していただろう。しかし、その内容はこの場にいた魔族の血の気を引かせた。
「保障出来ないのならば、殺す他あるまい。俺は領主だ。領地と領民を脅かす者は何であろうと生かすことは出来ない。敵が幼子であろうともそれは変わらん。‥‥で、貴様は保障出来るのか?」
今この場の主導権は全てこの領主にある。今ここで、説き伏せねば、一瞬で皇子と自身諸共殺されてしまうだろう。そうなれば、帝国は後継を失い、また長い内紛に陥る‥‥!エンコフは苦しい選択を迫られた。
(どうする‥‥!どうすれば良い‥‥!!)
彼は今、急激に逆転の一手を編み出さなければならなかった。




