束の間の休息
独軍国演説から1日経った4月14日の正午頃。
天高く輝く太陽に照りつけられながらサイパン島の良港ガラパンに艦隊が入港した。
石山少将率いる水上打撃艦隊である。
ガラパン独特の奥まった港湾をタグボートに先導された数万トンの巨大な軍艦が次々と桟橋に接弦し、休暇を貰った兵士達をタラップから吐き出していた。
1週間振りの大地。
それも、常夏の島ということもあって兵士達の顔も明るい。
しかし、その集団の中でも、へばってしまっている者達が数名居た。
「うう………まだ頭が痛い……………」
学は頭を抱えると、タラップの手すりに寄り掛かりながらそう呟いた。
顔は真っ青で、全く元気が有るようには見えない。
「おい、大丈夫か?麻袋はあるぞ。」
それに見かねて、俺が肩に下げていた雑嚢から麻袋を差し出すと、手を振り回して怒り始めた。
「一体、誰のせいでこうなったと思ってんだ兵長っ!!」
「船酔いか?」
「おい、ふざけんなっ!お前が飲ませた酒のせいだよっ!!」
本当に俺のせいなのか?
じっと学を見てみる。
真っ青な顔に、吐き気。
医者じゃなくとも学が二日酔いだというのは分かる。
あくまでもさっきの船酔いは冗談だ。
それでも、学が酒を飲んだのは自分の意思だろう。
俺のせいじゃあない。
「全く、自分の飲み過ぎを人のせいにするのは良くないぞ。」
しかし、まるで無知でも見るかのような目で見返してきた。
「俺はあの時、水をくれって言ったんだぞっ!蒸留酒を持ってきたくせに何言ってんだっ!!……………うう……頭に………響く…………」
「蒸留酒………?」
何かあったか?
引っ掛かるな。
蒸留酒……蒸留酒……………
「ユニオンのボトルに入ってるから怪しいと思ったけどさ、せめてビールにしろよ。…………………王冠も回収できなかったし、散々だ。」
ユニオン………?
………ああ、ユニオンビールか。
「………そういえば、北村大尉から回ってきた瓶だったな。」
俺も飲んでからはよく覚えていないが、今考えてみると、北村大尉が回した酒を飲んでいた隊員は、軒並みひっくり返っていたと思う。
「…………一気に仰って、よく生きていたな。」
「まあな。…………お前こそ頭が痛いとか言いながら一斗くらい飲んでなかったか?」
「一斗!?」
俺は蒸留酒を飲む前にそんなに飲んでいたのかっ!?
「いや待て。大瓶30本も空にした覚えはないぞ。」
「なぁに言ってんだよっ!一升瓶を開けてたじゃねえか。それどころか、料理長が景気付けに持ってきたあの馬鹿にでかい大瓶を一気に全部飲んじまうしさ。」
喋っている内に持ち直したのか、学は手すりに力を掛けると、ぐいっと立ち上がって、俺の肩を叩いてきた。
と、何とも言えない甘ったるいような臭いが漂ってきた。
「おい、それ以上近寄るな。かなり酒臭いぞ。」
俺が思わず顔を遠ざけると、学も流石に頭に来たのかびしっと俺に指を差して、
「お前が一番飲んだんだから、お前が一番臭うはずだっ!なあ、そうだろ雨っ!」
話に干渉せずに黙って立っていた雨の方を向いた。
雨が数段上に立っていることもあって中々苦しそうな体勢だ。
「え、自分ですか?」
そして、そうまでして話し掛けられた雨はと言うと、自分に話題が振られるとは思っていなかったのか、首を傾げて辺りを見回した。
「お前以外に誰が居るってんだっ!」
「まあ、学が雨と言えば自分しか居ませんけど。」
「それで、お前は、一体、どう思うっ!!」
………………悪気はないことは分かるが、無神経な態度は言葉と相まって学に油を注いでいる。
学の顔は真っ赤に染まり、返答如何では雨に襲い掛かりそうだ。
まあ、そうなった時は全力で羽交い締めにして止めるが………
そんなこんなを知ってか知らずか雨は、しばらく俺と学を交互に見た後、
「どちらも言う程違いませんよ。臭いは。」
「おい、お前が町を探索しようって駄々こねるからわざわざ休暇を貰ったってのに、そう言うか。…………よ~く分かったぞ。…………兵長、帰ろう。」
「まあ、町に繰り出しても行く宛はないしなぁ。」
思わぬ肩透かしを喰らって怒る気も失せたのか、捨て台詞を残して学は雨を突っ慳貪に突っ張ると、タラップをそのまま上ろうとした。
それを雨が手振りで止めようとする。
「待ってください、一杯おごりますから。」
「いらんっ!もう昨日でいっぱい飲んだからな。」
………恐らく必死で呼び止めているのだろうが、必死さが微塵も感じられない。
しかし、言葉では通じないと理解したのか、学がさらにもう一段上がろうとした途端。
目にも止まらぬ速さで雨の右腕が伸び、すんでの所で学の襟元を掴むと、勢いよく手前に引っ張った。
不意打ちを喰らった学は、よろける間も無く雨の前に引き戻されると、体勢を崩して尻餅をついた。
タラップが鋼鉄製ということもあって、落下の衝撃から立ち直ると、痛そうに尻を抱えて踞った。
今更だが、雨は、機体整備の俺達二人と違って、爆弾運びやら何やらの重労働に従事していた。
考えてみれば、この細い体にそれだけの力が有ることは簡単に想像がつく。
「それじゃあ、行きましょうか。」
雨は学を立たせると、にこやかにそう言った。
有無を言わせぬその笑みに、学はがくがくと頷く。
その光景を見た俺も、このときばかりは、学の臆病を笑うことは出来なかった。
それほどまでに雨の行動には鬼気迫るものがあったのだ。
ガラパンの街中は、ジンタの街頭演奏やら、呼び込みをしている露天商の怒鳴り声やらで騒音の巷になっていて、道行く人は兵士や行商人でひしめいていた。
下水道が整備されていないからか鼻に付く糞尿の臭い。
時折、人混みの隙間から見える道端では、ボロを着たルンペンがヅケにありついていたり、南洋特有の褐色の肌色をした街娼が兵士を相手にしていたりと、異国の地のはずなのに東京市街のドン底街の様な風景があちこちに見られる。
あんまり観光で来て良い場所じゃないんじゃないか?
1歩でも道を踏み外せば危険な目にあいそうな雰囲気なのに、雨はさっきから乗り気だ。
何故分かるのかと言えば、いつもは必要な事以外はあまりしゃべらないのに、船を降りてからずっと兵長と、たわいのない話をしているからだ。
それでいて表情は、全くいつも通りというのが何か怖い。
兵長も兵長で、雨に平然と話し掛けている。
「それで、雨は何処に行きたいんだ。」
「やはり銭湯と食堂です。日本に居た頃には経済的にも厳しくて行けませんでしたから。」
あくまで飄々と語る雨に、兵長は驚いたように首を振った。
「銭湯にすらいけなかったのか!?5銭だぞ、5銭。風呂入りたい時はどうしていたんだ?」
………何だか酷い言い様だな。
別に、体を洗うだけなんだから井戸の水を被るとか、たらいで水浴びするとか方法なら一杯有るだろうに。
聞いても語りたがらないから多分だけど、方言と習慣からするに恐らく、兵長は、東京市街生まれなんだろう。
そうでもなければ、汚れたら風呂に入ろうなんて考えない。
第一、貴重な薪の無駄遣いだ。
「軍属になる前は川に入っていました。兵長はどうだったんですか?」
それに比べて雨は、田舎者だと思う。
それも川に入るってことは、それなりに南の地域なんだろう。
俺は岩手の生まれだから分かるんだけれど、東北の冬は寒い。
本当に寒い時は川が凍る。
どう考えても、冬に川に入れる土地じゃあない。
それに、不自然なほどにですます口調をするのは、裏日本の人が、田舎丸出しの方言を隠すためによくすることだと主計科の人から聞いたことがある。
案外、九州辺りが出身だったりするのだろうか?
「……うん……ま…まあ、俺の家は裕福だったからな。桧風呂だったよ。………そうだ、学はどうだったんだ?」
そうこう考えている内に、雨の質問に言葉を詰まらせていた兵長が、急に話し掛けてきた。
「ん?………ひょっとして俺か?」
思わず聞き返すと、兵長は肩を竦めて、
「お前以外に学が居るか。」
……………………。
まるで人を馬鹿にするかのようなその言い草が、頭に来た。
それでも、聞いてなかった自分が悪いから仕方ないか。
「…………何を話してたんだ?全く聞いてなかった。」
「風呂だよ、風呂。どうしていたんだ?」
風呂?…………………風呂…………
…………聞いたら聞いたで一瞬、嫌な記憶が頭をよぎった。
乾いた田畑にやつれた稲、吹きっさらしのボロ屋の片隅で、藁に転がって皆が肩を寄せて寝ている夜中、火の消えた囲炉裏を囲んで、着古した一丁羅の作業服を着た親爺とお袋が何かを話し合っている光景…………
…………風呂なんて入ってなかったな。
適当に誤魔化そう。
「そりゃあお湯に浸か…」
しかし、それより先に雨が口を挟んできた。
「そういえば、学はあまり家の事を話たがりませんね。どうしてですか?」
「えっ!?」
再び、脳裏に嫌な記憶が………
「いや、どうしてってさ………」
慌てて言葉を探すが、直ぐには出てこない。
雨の言葉に悪意がないのは分かるけど、何故だか、話したら話したでまた嫌な予感がするような………
「どうしたんですか?忘れたんですか?」
人の気も知らずにずけずけと言う奴だな。
雨は、まるで追い詰めるかのように、催促をしてくる。
「いや、えっとな…………」
雨から目を離して辺りを見回す。
何か話を逸らせられる物はないか。
人混みの中、路上、軒下、看板………………………
「……………………取り合えず、そこの店に入ろうじゃないか。」
それが、追い詰められてようやく出た答えだった。
丼飯屋「島原」。
風雨に晒されて黒ずんだ看板には、でかでかとそう書かれていた。
屋根は瓦張りだが、建ててから年月が経ちすぎたせいなのか、店主が手入れをしていないからなのか、半分近くが剥がれ落ち、残ったものもひびが入っていたりと荒れ放題になっている。
まあ、それでも、ベトン造りや、藁葺き、トタンが多くを占めるガラパンの街中では、それなりに目立つ。
所々傷んだ木造の玄関先には、これまたボロボロになった提灯が下げられていて、店の惨状と合間って哀愁を誘う。
街道沿いに建ち並ぶ古い軒並みに違わず、中々年季が入っている店だ。
入り口の引戸を開けた途端、店の中から喧騒と共に漂ってくる丼特有の良い匂いと熱気。
表の雰囲気とは違って、どうやら繁盛しているようだ。
店の中は薄暗いが、それほど汚れていない。
机はそのほとんどが埋まっており、店に入った3人は、唯一空いていた一番奥の机を囲んで座っていた。
「ええっと………牛丼は小が2銭5厘、大が5銭……天丼はむきみ天が3銭、いかえびの上丼で5銭か。…………海老はともかく、よくまあ、こんな南の島で牛が手に入るよなあ。」
「いえ兵長、牛の放牧ならこの島でも出来るでしょうが、海老はこの周辺の海では取れないでしょう。」
「いや、どう考えても牛も海老も無理だろ。」
「じゃあなんだ?親子丼にでもするか?流石に鶏は見かけるだろう。」
「注文すれば分かりますよ。」
「そうだな、じゃあ俺は親子丼にするか。学はどうする?」
「俺か?俺はだな、牛丼にするよ。」
「牛丼っ!?挑戦するなあ。」
「となると僕は天丼ですね。」
「お前もかっ!?」
「牛は安全でしょう。」
「まあ、なんだ。しらす丼やら……カルビ丼?とかよりはましじゃないのか?」
「そうか?じゃあ、雨。注文は頼んだ。」
…………………………………………………………………………
「所で兵長。」
「何だ?」
雨を送り出してからしばらくして、不意に学が話し掛けてきた。
ビールの王冠を手元で弄るのを止めて、学の顔を見てみると、割りと真剣な顔をしていた。
とは言え、学は真剣そうな顔をしておいて平然と馬鹿げた事を言う奴だからな…………
「次の作戦はどこでやるのか分かるか?」
…………存外まともだった。
なら、それに対して俺も真面目に答えないといけない。
「次の作戦か………」
少し呟いて反芻する。
言われてみれば、確かに気になる事だ。
出港してからサイパン島沖の海戦までは、如何に航空機で艦隊を殲滅するかで猛訓練していたし、海戦からはドンチャン騒ぎが続いてそれどころじゃなかった。
これからは一体どうなるんだろう?
「………………流石に中部太平洋でドンパチはないだろうから、案外、豪州辺りでやるんじゃないのか?」
しばらく考えてからそう結論を出した。
しかし、学には理解できないのか、首を傾げられる。
「おーすとらりあ?何でそんな所でやるんだ?」
「だからさ、米国は第1艦隊も第2艦隊も直ぐには動かせない状況で、唯一動ける第3艦隊は撃退されたんだから、太平洋で活動できる艦隊はもう居なくなったってことになるだろう。そうしたら太平洋には他に敵は居ないわけだから印度洋か、豪州のどちらかしかない。」
分かりやすいように身振り手振りを加えて説明してやったのに、より一層、首を傾げてくる。
………やっぱり駄目だったか………
「何で艦隊なんだ?お前が言う通りなら、さっさとハワイを取っちまえばいいじゃないか。」
「そう簡単に行くもんか。ハワイには強力な陸上機が大量に配備されているんだぞ。爆撃を反復されればあっという間に艦隊は全滅だ。」
「何言ってんだよ。だから今の内に叩いた方がいいんだろ。今なら敵機の数も少ないはずだ。後からじゃ手遅れになっちまうぞ。」
…………………なかなか痛いところを突いてくるな………
でも、確かに言われてみれば、ハワイを攻撃しないと思ったのは、ハワイが巨大な軍港や飛行場を抱えた難攻不落の不沈空母だ、と昔から聞いてきたからだ。
しかし今は、艦隊が居ない。
意外と思っているよりも簡単に占領出来るのではないか?
「それはだなぁ…………」
「米国内世論を刺激しないためですよ。」
返答に躊躇していると、いつの間にか席に帰ってきていた雨が代わりに答えていた。
その両手には丼を三杯載せたお盆を携えている。
「べい、国内よろん?」
「米国内世論、要するにアメリカの民衆の考えの事です。」
雨はお盆を椅子に置くと、丼を机の上に並べていく。
「米国は、民主主義国家ですから、何をするにも国民の支持が必要です。特に、戦争などと言う国費の大浪費をするのなら、それを国民が納得出来るだけの大義が必要です。しかし…」
丼と箸、湯飲みを並べ終えると、椅子の上に置いていたお盆を机の隅に立て掛けて椅子に座り、真っ直ぐに学を見据える。
「今の米国にはその大義が有りません。」
しかし、学は首を傾げた。
「それはおかしいだろ。俺達は第三艦隊をやっつけたんだぞ。理由なら十分あるはずだ。」
「それは場所が駄目です。学は、何故サイパン島沖で迎え撃ったか理解していますか?」
……………………!
雨の余計な一言にカチンときたのか、一瞬だけ学の腕がびくんと震えた。
それでも堪えて、
「俺がそんなこと知るわけねぇだろ。」
「だからそんな質問をするんです。」
……………………!!
学の顔が顰めっ面になり、手が握りこぶしに変わる。
そして、背凭れに凭れるのを止めて、机に両肘をつく前傾の姿勢になった。
明らかに、飛び掛かる体勢だ。
「おい、抑えろ。ここは店屋だぞ。」
「気にすんな。雨なんて1発で倒してみせる。」
そういう問題じゃないだろう。
かと言って、学を止めたところで、雨が挑発を続けていては意味がない。
遅かれ早かれ取っ組み合いになるのは目に見えている。
しかも雨は、学と違う方で頑固だから話して分かるような奴じゃない上、先程経験したように力も滅法強い。
酒がまだ残っているからか、怒りでぶっ飛んでいるからかは分からないが、学は綺麗さっぱりそれを忘れてしまっている。
……………どうしたもんかなぁ………
俺の気苦労にも気付かないで、二人はどんどんと話を続けていく。
雨は机に身を乗り出して説明し、学は腹を立てて机を叩く。
しかし、それは唐突に終わりを告げた。
学の腹の虫が鳴ったからとかではなく、一向に飯に手をつけずに言い争いをしている俺達に、堪忍袋の尾を切らせた店主の鉄拳が舞ったからだった。
「……………学、覚えておけよ。」
「いや、……ま、本当に済まなかった。」
「学はいつも何も考えずに行動するからそうなるんです。」
「雨、お前にも言っているんだぞ。」
「………済みませんでした。」
「本当にな。」
時は夕暮れ、名残惜しむかのように長い影を落とす夕陽を背に受けて、とぼとぼと俺達はガラパンの街を後にしていた。
飯は食えないし、親爺さんには殴られるは、門限まで時間がないはで、今日は本当にえらい目にあった。
まだ痛む頬を擦って、事の元凶である学を睨み付けていると、本人も罪悪感は感じるのか、目を逸らそうと顔を背けた。
「「「……………………………」」」
いつも能天気に明るいはずの学がしおらしいと、何となく重い雰囲気が立ち込めてくる。
どうも、俺から話を切り出さないと、雨も学もいつまで経っても話す気はないようだ。
「しかしまあ……あの店の主人、相当強かったな。あっという間に吹っ飛ばされちまった。」
「それよりも、あの店主どっかで見た覚えないか?」
………………俺が、どうにか考えて口を開いたというのに、あっという間に開き直りやがった!
でも、確かに学が言うように、あの主人、何処かで見たことがある。
「お前もか。けど、何故か思い出せないんだよ。雨は分かるか?」
「二人が知らないことを、知るわけがないでしょう。」
「いや、何だかんだでお前の方がよく知っているだろう。」
「そんなことは有りません。他人から聞いたことをただ言っているだけです。」
「それなのに、あれだけ色々と出てくるのか。」
「日課は機体の整備と情報収集ですから。」
…………機体の整備と情報収集かぁ…………
「機械の世話と盗み聞きが日課ってかなり暗い生活じゃないか?」
どうやら学も同じ事を考えていたらしい。
俺が言いたかったことをそっくりそのまま代弁してくれた。
しかし、全く理解できないといった表情で雨はそれを否定する。
「それは学の認識が間違っています。機体の整備は整備士の義務ですから、毎日実行するのは当たり前です。それに、人間は社会性を持つ生き物ですから、常に新しい情報、つまり話題を取り入れなければ周りと協調が取れず、孤立することになります。」
「「…………?」」
噛み砕いているのは分かるけれど、いつも以上に堅苦しくて何を言っているのかさっぱり分からない。
最初の機体の整備は整備士の義務というのはまあ分かるが、社会性やら情報が協調やら、何が何だか…………
学に至っては完全に固まってしまっている。
俺達が何も言わないのを、雨は理解と判断したのか、満足げに頷く。
おい、何を勝手に納得しているんだ!
これじゃあ全く分かんないぞ。
まあ、あんなに満足そうに頷かれては言うに言えず、しばしの沈黙が過ぎた。
しかし、それは先程のような重苦しいものではない。
いつもの雨に戻ったという安心感と、雨はやっぱりこういう奴なんだという諦念にも似た納得とがあったからだ。
それでも何を言えばいいのか分からず、何となく空を見上げた。
夕暮れの赤を覆い尽くそうとするかのような夜空に、星が目一杯輝いていた。
東京では見ることの出来ない吸い込まれるような星空だ。
思わず見とれていると、いきなり雨が小突いてきた。
「兵長、何をそれほど見ているんですか?」
「何をって…………星に決まっているだろう。」
話の最中に目移りをされて腹を立てているのか、当然のことを聞いてくる。
雨は、この綺麗な星空を見て何も感じないのだろうか?
この幾千万の名もの無き星達の輝き、それが果てしなく続いていく夜空。
「都会と違って排気と明かりがないから、人の肉眼で星が見えやすくなっているだけです。見ている景色は変わっていません。」
「俺も兵長と違って田舎暮らしだったからな。星は見飽きたぞ。」
………………どうやらこの二人には、共感を期待できないようだ。
思わず肩を落とした。
「俺は都会で暮らしていたからな。空一杯の星なんて初めて見たんだよ。」
「まさか。晴れてさえすれば星はいくらでも見れるじゃないですか。」
「そうでもないんだよ。神少しょ………じゃなくて養父が言うには、昔は神田の辺りも、木造建築が並び立つ横町だったらしいんだけどさ、第三次大戦後から始まった近代化の為の区画整理で片っ端から潰されたんだよ。それでできた空き地に、法律では制限のないカフェーやらバーやらが、雨後の竹の子みたいに建っていたせいで夜中はネオンの洪水。神保町の街並みは辛うじて当時のままだけど、周りが明るくちゃあな。見るに見えなかった。」
「「…………………………」」
…………おい、急に黙るな!
憐れむような眼で見るのは止めろ。
しかし、二人は急に後ろに振り向くと、ひそひそ話を始めた。
「俺、子供の頃は、都会に憧れてたけど………都会って何て言うのか………可哀想だな。」
「最近はよく思いますが、都会の人は物に恵まれているが故に、逆に貧しいと思える生活を送っているのではないですか?」
「いやいや、お前は田舎を全く知らないからそんなことを言えるんだよ。」
何だか早速、雲行きが怪しくなってきた。
「では、日本には貧乏人しか居ないことになります。」
「その結論を出すのは早すぎないか?」
「都会に居ない、地方にも居ない、では何処に居るんですか?」
「………………地主としょうぎ?は金持ちだって母ちゃんから聞いたことがあるぞ。」
待て待て待て待て……
「やはり、政治家に人脈を……」
「おい、お前等っ!何で星からそんな話になるんだっ!馬鹿な話はさっさと終わらせて帰らないと門限に遅れるぞっ!!」
これ以上はまずいと思い、咄嗟に大声で怒鳴った。
恐らく、門限という単語が効いたのだろう。
二人は、ぴたっと話すのを止めると、慌てたように港へと駆け始めた。
その後ろ姿が、声の届かない場所まで行ったところで、上着のポケットから懐中時計を取り出す。
針は6時を少し過ぎた辺りを指している。
「門限はもう過ぎているけどな。」
まあ、俺は学達と違って2日間の休暇申請だから関係ないが…………
笑って懐中時計を仕舞う。
そして、あくびをして道端の草むらに横になった。
ここ数日、雨が降っていないのか、乾いた感触が返ってくる。
心地好い気温、何となく寝心地の良い寝場所。
眠気を誘うには充分だ。
何せこっちは、あのドンチャン騒ぎから一晩も経っていないのだ。
今更ながら、今日の疲れがどっと吹き出してきた。
皇鳥だって明日明後日に出港するわけでなし、門限を過ぎてしまえば外泊も遅刻も変わらないだろう。
まあ、明日どうなるかは知らないが、明日は明日の風が吹くさ。
枕代わりに雑嚢を敷いて空を見上げた。
先程と寸分違わぬ位置に光る数知れない星達。
本当は何とか座とか言って星座があるのだろうけれど、1つとして分からない。
しばらく星空を見上げていると、段々と眠気に襲われてきたので、あくびをして目を閉じた。
今日は良い夢を見られそうだ。