猫は呟く
ひどい気だるさを覚えながらベッドから這い出る。体温計で測ってみれば、ようやく平熱にまで落ち着いたようだった。まったく酷い目にあった。久しぶりにひどい風邪だった。何となく、体は丈夫のような気になっていたけれど、どうやらそれは根拠のない自信だったようだ。
ふと思い立って、机の上に置いたままだった小説を手に取ったけれど、まだ頭が重いような気がして読む気にはなれずに、机の上へ置き直す。部屋を出るとそのまま台所に向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してお気に入りのコップに注ぐ。
昨日今日と学校を休んでしまった。休んだ分の遅れを取り戻さないとなと、ぼんやり思う。
そして、カラスの事を考える。
あの子は今日も屋上で待ってくれているだろうか?
少しだけ胸が痛んで、その事実に驚く。とても悪い事をしている気持ちになってすっかり落ち着かない。熱に浮かされていた時も何度も思い浮かんだ事だった。
不思議な子だな、と思う。
まさか初対面の女の子に「ネコ」なんて渾名を付けられるとは思わなかったし、自分の渾名を「カラス」にする女の子がいるとも思っていなかった。ただ、きっと彼女はこちらの気持ちをくみ取ってくれたのだと思う。何となく、本当に何となく一人になりたくって、学校を彷徨った。誰も居ない場所なんて、めったにあるはずがない。そうして立ち寄った屋上に、彼女は居た。
それこそ本当に何となくだけれど、彼女は自分と同じ気持ちなんだと、その時思った。
だから渾名を付けられても悪い気はしなかった。あえて口に出さなくても、こっちの気持ちをくみ取ってくれた彼女に好感を覚えた。たまたま、同じ場所に立ち寄った同士のような気持ちだ。同じ場所に居ても、会話は少なく、友達と言っていいのかさえ危うい。
でもとても心地良い時間だ。
彼女もそう思っていてくれたらいい。いや、そう思っていて欲しい。
自分の不在を、彼女はどう思うだろうか?約束なんて、とりつけているわけでは無い。義務でも無い。ただ、どちらとも言うわけではなく、一緒にいる。
俺は彼女の纏う雰囲気にすっかり参っているんだな、とぼんやり思う。
彼女は、カラスは今までに会ったどんな女の子とも違う気がした。何かしっかりとした芯が彼女の中にあって、きっと彼女はそれを、ひと時も忘れたことがないのだ。同じ場所にいるだけで安心感があって、それがとても心地よい。
彼女はどうだろうか。自分と居て心地良いと思ってくれているだろうか?姿を現さない自分を心配してくれているだろうか?ミネラルウォーターをコップに注ぎながら思う。いや、それはいくらなんでも自意識過剰と言うものだろう。自分が彼女にしたことは寝る道具一式を貸したことくらいだ。自然と笑みが零れる。初対面の女の子が目の前で寝始めるだなんて体験、バスや電車の中以外で体験した人間は、そうはいないんじゃないかと思う。
彼女の寝顔を、見てはいけないと思いながらも見つめながら、気が付けば自分が微笑んでいる事に気が付いて驚いた。
気の置けない他人なんて呼び方はきっと正しくは無いんだろう。でも彼女と俺はきっとそういった関係なのだ。少なくとも俺はそう思っている。彼女もそう思っていてくれればいいと思っている。
明日は学校へ行こう。そして屋上へ行って彼女に会いたい。もし居なかったら、きっと俺は彼女を探すだろう。不在だった事を謝るだろう。彼女は戸惑うかもしれない。会う約束なんて交わしていないんだから。でも、もしかしたら、屋上で俺と彼女が交わしている「何か」は、約束よりも大事なものなんじゃないかと、ふとそう思ったのだ。
「俺はすっかり彼女に参っている」
ぽつりと零れ落ちた独り言が、キッチンシンクに吸い込まれていった。