第10章:銀河帝国の参謀、日本で働く。
コンペ決戦から三週間が過ぎた、少し肌寒い秋の週末。
奏は神坂に指定された都内の静かなカフェを訪れていた。ガラス越しの街並みを背に座る神坂は、以前のような全身から放たれていた刺々しい緊張感を削ぎ落とし、どこか遠くを見つめるような穏やかな目をしていた。
「忙しいところ、わざわざ来てくれて感謝する。新渡戸さん」
神坂が静かにコーヒーカップを置く。奏はいつものように無駄のない美しい動作でお辞儀をし、対面の席に着いた。
「神坂殿。ネクスゲートを去られたと伺いました」
「……ああ。会社からは慰留されたが、引き際だと思った。数字と効率だけを絶対の正義と信じ、現場で汗を流す『人間』を不確定なリスクとして切り捨ててきた私の手法は……完全に破綻した。テイコク電機の役員会で君の言葉を聞いた時、胸を殴られたような衝撃を受けたよ」
神坂は自嘲気味に苦笑し、手元のカップに視線を落とした。
「私は『システム』を作っていたつもりだったが、実際に作っていたのは『誰も愛さない冷たい計算機』だったんだな。君に敗れて……初めて自分がどれほど狭い世界で数字を弄んでいただけだったのかに気づかされた」
神坂の言葉には、敗北の悔しさと同時に、長年背負っていた重圧から解放されたかのような透明感があった。
奏は静かに、しかし威厳と温かみを込めて語りかけた。
「神坂殿。あなたの構築した論理や分析精度は、紛れもなく至高の領域にありました。……だが、どれほど緻密な盤面を描こうとも、駒を動かすのは血の通った『人間』です。論理で人を屈服させるのではなく、配慮と信頼によって『論理が活きる環境』を整える。それが、私がこの地球という星で学んだ『和の戦略』に他なりません」
「『和の戦略』か……」
「あなたの持つ圧倒的な論理的洞察力に、現場を思いやる視点が加われば、もはや敵う者などこの社会には存在しないでしょう」
神坂は驚いたように目を見開き、やがて視界を覆っていた霧が晴れたかのような爽やかな笑みを浮かべた。
「……かつて『完璧な参謀』と呼ばれた君にそう言われると、不思議と再起する勇気が湧いてくるな。実は、すでに新たなコンサルティングファームの立ち上げ準備を進めている。今度は数字の先にある『働く人々の心』に寄り添う仕事をしたいと考えているんだ」
神坂はゆっくりと立ち上がり、奏に向かって右手を差し出した。
「次に出会う時は、さらに強く、しなやかなビジネスマンになって戻ってくる。……また戦ってくれるか、新渡戸さん」
「ええ。いつでもお相手いたしましょう」
奏はその手を強く握り返した。
かつてゼノビア帝国の参謀だった頃の自分は、敗者を踏みにじり、徹底的に排除することしか知らなかった。だが今、目の前にいる元敵対者は、互いを高め合う真の友へと変貌を遂げていた。
「勝つこと」よりも「共に生きること」の価値を知った瞬間だった。
週が明け、いつもの活気に満ちた月曜日の営業二課。
オフィスには電話のベル音、キーボードの打鍵音、そして慌ただしく書類を持って行き交う社員たちの熱気が満ちていた。
「新渡戸くん! 次の新規プロジェクトのKick-offミーティング、10分後からだから準備お願いね!」
「了解しました、佐々木殿。アジェンダの事前共有
、および関係各所への『根回し』は既に完了しております。各部署の懸念事項もすべて吸い上げ、調整済みです」
「えっ、もう!? 本当に仕事が早すぎて助かるよ!」
結衣が心底感心したように親指を立てて笑う。
奏は自席のデスクに置かれたアクリル製のネームプレートに、そっと視線を落とした。
『営業二課 新渡戸 奏』
かつては数千隻の宇宙艦隊を指揮し、銀河の覇権を巡って冷徹に版図を広げていた。
しかし今の自分には、この「営業二課」という泥臭くも温かい小さな戦場があり、背中を預け合える仲間たちがいる。
(お中元、お辞儀の角度、付き合い残業の解体、建前と本音、そして根回し……。地球の、とりわけ日本のビジネス社会に息づく『和』の文化とは、集団の個々の力を極大化させ、摩擦を最小限に抑える最高峰の外交プロトコルであったか)
かつて不合理極まりないと見下していた地球の慣習。その深遠な合理性を完全に理解し、己の力へと変えた異星の参謀は、静かに、そして誇らしくスーツのジャケットを羽織る。
「新渡戸くん、行こう!」
「はい。参りましょう」
定時退社と圧倒的な成果、そしてこの場所で働くすべての人々の笑顔を守るため。
銀河帝国の元参謀は、今日も一人の誇り高き日本のサラリーマンとして、爽やかにオフィスを駆け抜けていくのだった。




