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『七歩目』  天井から聞こえる足音は、数えてはならない。  作者: kaka


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第1話「一歩目」

引っ越しの荷解きは、思ったより早く終わった。


段ボールが三つ、キャリーケースが一つ。それだけが、雨宮唯の新しい生活のすべてだった。四階建てマンションの最上階、402号室。相場よりも二万円も安い家賃を見たとき、唯は理由を深く考えなかった。ただ、駅から近くて、日当たりがよくて、そして――ひとりになりたかった。


荷物を片付け終えた頃には、もう日付が変わっていた。


シャワーを浴び、髪を乾かし、ベッドに横になる。真新しい部屋特有の、少しよそよそしい静けさが耳の奥に張りついている。実家では隣室のテレビの音や、上階の生活音が絶えなかった。だからこの静寂は、むしろ心地よいはずだった。


――はずだった。


スマートフォンの画面が、午前二時十七分を示したとき。


コッ。


天井の、それも部屋の隅ではなく、ちょうど真上あたりから、小さな音がした。木の床を、素足が一度だけ踏むような。硬く、乾いた音。


唯は薄闇の中で目を開けた。心臓が、意味もなく一拍だけ跳ねる。


――上の階の人かな。


そう思いかけて、唯は思い出す。内見のとき、不動産屋がはっきりと言っていた。「四階が最上階です。上は屋上に出るための機械室だけで、人は住んでいません」と。


気のせいだ。パイプの収縮音か、風で何かが軋んだだけ。そう自分に言い聞かせて、唯は布団を頭まで引き上げた。


だが、耳は勝手に、次の音を待っていた。


一秒、二秒、十秒――。


何も鳴らない。ただ、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。やがて唯は、いつのまにか眠りに落ちていた。



翌朝、その出来事は記憶の片隅に追いやられていた。満員電車、終わらない会議、上司の小言。日常の騒がしさが、昨夜の小さな異音をあっさりと塗りつぶしてしまう。


けれど、その夜。


午前二時十七分。


コッ、コッ。


唯は暗闇の中で、はっきりと目を覚ました。今度は、二つ。昨夜よりも、確かに近い場所から聞こえた気がする。天井の、ちょうどベッドの真上――そこに誰かが立っている、そんな錯覚すら覚えるほどの近さで。


唯は息を止めた。上の階には誰もいない。それなのに、確かに二歩分の重み、二歩分の間隔で、何かが床を踏んでいる。


「……ねずみ、とか」


声に出してみても、少しも安心はできなかった。ねずみの足音は、あんなに一定のリズムで、あんなに――意志を持ったように、鳴らない。


震える指でスマートフォンを取り、幼馴染の兵頭続にメッセージを送る。彼は心霊音声を扱う配信者で、こういう話を面白がる人種だった。


『続、今大丈夫? 上の階から変な音がするんだけど』


既読はすぐについた。


『上、誰か住んでる? 話聞かせて』


『それが……上は屋上しかないはずなんだよね』


数十秒の間があってから、返信が来た。


『それ、録音しといたほうがいい。マジで』


その一言に、唯の背筋が冷たくなる。冗談めかした彼のスタンプがいつもなら添えられるのに、今夜はそれがなかった。



三日目の夜。


唯はあらかじめスマートフォンの録音アプリを起動させ、枕元に置いていた。理性では「気のせいを証明するため」だと思っていた。けれど本当は、確かめるのが怖くて、何かに背中を押してほしかったのかもしれない。


午前二時十七分。


コッ。


一歩目。


唯の意識が、暗闇の中でわずかに強張る。


コッ。


二歩目。


――増えている。


昨夜が二歩だったのだから、今夜は。


コッ。


三歩目。


唯の唇が、無意識のうちに小さく動いた。


「……いち、に、さん」


言ってしまってから、ふと、管理人室の掲示板の隅に書かれていた、消えかけの走り書きを思い出す。あれは何かの張り紙の下に、誰かがボールペンで小さく残した文字だった。


――かぞえるな。


意味がわからず、そのまま忘れていたはずのその言葉が、今になって唯の頭の中で膨れ上がる。


天井の足音が、止まった。


三歩目のあと、静寂が落ちる。あまりに完全な静寂で、耳の奥がキーンと耳鳴りを起こすほどだった。唯は息を殺し、その静けさに耳を澄ませる。何も聞こえない。何も。


――終わった。今夜は三歩だけ。


そう思った、その瞬間だった。


コッ。


四つ目の音。


けれどそれは、天井からではなかった。


玄関のドアの向こう、廊下側から。まるで唯が数え終えるのを、すぐそこで待っていたかのように。


そして、続けてもうひとつ。今度ははっきりと聞こえた。ドアの向こうから漏れる、湿った吐息のような、掠れた声。


「……よん」


唯の口からは、もう悲鳴すら出なかった。


スマートフォンの録音アプリだけが、赤いランプを灯したまま、静かに時間を刻み続けていた。

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