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「キキキ……久シブリノ肉ダァ。柔ラカソウダナァ」
ゴブリンを扱った物語は数多く存在する。彼らは時に愉快な友人として、あるいは滅ぼすべき害獣として幅広く活躍する。
だが、大きく裂けた口から涎を垂らし、ごちそうでも見るような目で少女を見るゴブリンは、どう考えても友達にはなれそうになかった。
「あえて良いところを挙げるなら、分かりやすくて助かるってとこかな……」
わけも分からず妙ちきりんな場所に飛ばされて混乱している俺としては、まったく躊躇する必要のない"敵"の存在は、むしろ隣にいる謎の少女より扱いやすかった。
「キキ……死ネェッ!」
「…………くっ!」
どうやら不味そうな俺を先に片付けてからゆっくりごちそうを味わう腹づもりのようだ。
ボロボロのナイフを構えなおしたゴブリンが俺に襲いかかるのと、俺がとりあえずの武器を見つけるのはほぼ同時だった。
「当たれっ!」
頼むから当たってくれと祈りながら、地面に落ちていた拳大の石を投げつける。幸いなことに、石はゴブリンの顔にクリーンヒットして奴を転ばせた。だが、ダメージはさほどでもないらしく、ゴブリンはすぐに頭を振って起き上がろうとする。
どうする?近付いてナイフを奪うか?それともまた石を投げて怯ませるか?
逡巡する俺の後ろで、少女の落ち着いた声が聞こえた。
「──『炎よ。天の御子よ。我が手に集いて敵を討て』!」
彼女がそう言い終えると同時に赤く燃える何かが俺の脇を高速で横切っていく。それはちょうど投石のダメージから快復して立ち上がったゴブリンの頭に命中した。
「ギ、ギギィッ!」
ゴブリンは1メートルほど後方に吹っ飛んだ後、その全身を炎に包まれながら苦悶の叫び声をあげ、そして動かなくなった。
魔術師、怪しげな呪文、それに炎。もはや疑うべくもない。俺が今目にしているのは──"魔法"だ。
「やったぁ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら喜びを表現する少女。今飛んできた攻撃……おそらく火球だろうが、魔術師という単語からこちらも予想していたとはいえ、自分より小さな少女があの凶悪なゴブリンを一撃で倒してしまったことに俺は軽い衝撃を感じていた。
彼女の振る舞いにもその力を誇示するような様子はまったく見られない。つまり、"ここ"では"これ"が普通なのだ。
あの黒い穴に落ちた時点でこの先ろくな目に遭わないだろうと覚悟していたが、あらためてとんでもない場所に来てしまったと頭を抱えた。
とりあえず今の俺がすべきことは、おそらく人類サイドに立っていそうな少女と良好な関係を維持することだった。
「ありがとう。また助けられちゃったな」
「そ、そんなことないよ。私だってゴブリンが近付いてることに気付かなかったし。それにクラスメートなら助け合うのは当然だし、今回はおあいこっていうことで……どうかな」
少女は照れるように杖をぶんぶんと振ってから、「お願い!」と手を合わせて俺を拝んできた。どうやら彼女はあまり感謝されることに慣れていないようだ。
2度も命を救ってもらった以上恩義を感じるのは当然なのだが、これ以上言うと彼女がさらに恐縮してしまいそうなので、俺は提案を受け入れることにした。
「それにしても魔法って凄いんだな。はじめて見たよ」
「正確には"魔術"だね。魔法だと神聖魔法とか呪術も入っちゃうから……って、これ今日の授業でも言ってたでしょ?」
「え?あぁ……そうだっけ?寝てたからよく覚えてないかな」
「もう。アキュート2号がこんなところにいるなんて……」
どうやら少女は俺のことを学校の同級生だと勘違いしているようだった。だが、その勘違いのおかげで俺にも彼女の正体が掴めてきた。魔法や魔術について勉強し、魔物と戦う術を知り、そして"ダンジョン"の中にいる彼女は、つまり──
「座学も大事な勉強なんだから。そんなだと、立派な冒険者になれないよ?」
「あ、ああ!これからは気を付けるよ!」
危なかった。もう少しで魔術師ギルドって言うところだった。やはり何事も奇をてらうのはよくない。
煙を上げるゴブリンの死体のそばでしばらく待機して増援が来ないことを確認すると、俺たちは洞窟の先へと進んだ。もっとも、俺には奥に進んでいるのか出口に向かっているのか判別できないのだが。
少女に聞いてみようかとも思ったが、「じゃあ君はいったいどこから入ってきたの?」と聞き返されると困るので、大人しく彼女の後をついていった。
コスプレ少女と2人で地面の凸凹に足を取られないよう注意しながら歩く。……まあ、"こちら側"の価値観だと俺の学ランの方がコスプレっぽいのかもしれないが。
それにしても洞窟でミニスカートってどうなんだろう……なんてことを、ヒラヒラと翻る少女のスカートを眺めながら考えていた。
薄暗い通路を無言で歩き続けるのもいい加減退屈になってきたので、俺はそれとなく少女に話しかけて情報を得ることにした。
「そういえば、アキュート2号って何?」
「え?アキュート知らない?いつも教室でナギアと喧嘩してるツンツン頭の男の子いるでしょ。あれがアキュートだよ。『俺は現場主義なんだ』とか言って全然勉強しないの」
「なるほど、あいつか」
「そうそう。早く冒険者になりたいのは分かるけど、まさか先生に内緒でダンジョンに潜るなんて……」
「ちょっと生き急ぎ過ぎな奴みたいだな」
「うん。……って、それは君もじゃない!私より先にここに来てたんだから、やっぱり考えなしのアキュート2号だよ」
少女を取り巻く状況がなんとなく理解できた。彼女は冒険者を育成する学校の生徒で、教師に黙って危険なダンジョンに入った向こう見ずな友人を連れ戻すためにここに来ているのだ。
「アキュートがね、"施しの森"の奥に学園やギルドがまだ見つけてないダンジョンがあるって……そこで凄い発見をしてみせるって言って。私は止めたのに、全然聞く耳持たなくて」
溜息と共に前を歩く少女の背中が丸くなる。彼女が友人を止められなかったことを後悔しているのは明らかだった。
だが、少女の語った事実は俺にとっても看過できない情報を含んでいた。
「学園やギルドがまだ見つけてないダンジョン」、そして俺を助けた時に言っていた「早まって先生たち呼ばなくて良かった」という台詞……つまり、ここで俺たちの身に何か起こったとしても、おそらく救助は来ないか、手遅れになった後だろう。
しかも少女はアキュートを助けるために進んでいるのだ。当然ながらその足が進む先は出口ではなくダンジョンの奥だろう。
……このまま彼女についていっていいのだろうか?
俺は特殊な戦闘訓練を受けているわけでもない、ただの一般人だ。ゴブリンを撃破したとはいえそれは少女の魔術あってこその結果だ。大人も警察もいない、怪物だらけの危険地帯に身を置いていれば命の保証は無い。むしろ彼女の足手まといになってしまうかもしれない。
いや、本当はそんな論理的な思考ではなかった。俺はただ怖かったのだ。だからもっともらしい口実を作って逃げようとしている。だがこのまま行けば俺はきっと……。
そんな考えが頭をよぎった時、不意に少女がこちらを振り向いた。
「でも、君がいてくれてよかったかも。やっぱり、独りぼっちでダンジョンを歩くのは怖いから。……ありがと」
そう言うと少女はくりっとした丸い目を少し細めて、俺に微笑みかけた。高原に咲く一輪の花のような、可憐な笑みだった。
……誰かに感謝の言葉をかけられたのは、いつ以来だろう?そもそも他人とこんなに長く会話するのも随分久しぶりな気がする。
「そうだ、私たちまだ自己紹介してなかったよね。私はプリムラ。君の名前は?」
「……宗太。松幸宗太」
「ん?マツユキの方が名前……でいいのかな?」
「いや、宗太の方だよ」
「そっか。それじゃあソウタ、これからよろしくね!一緒にアキュートを見つけて、先生たちにバレないうちに帰っちゃおう!」
「ああ!」
俺はなんてくだらないことを考えていたんだろう。たとえ冒険者だろうと、魔術とやらがあったとしても、こんなに小さな少女を1人置いて逃げるなんて選択は、男のすることじゃない。
それに、ただあてもなく逃げてあの家に帰る方法を探すよりは、何の下心も悪意もなく真っ直ぐな視線で俺を見つめ、笑顔を向けてくれたプリムラの隣にいる方がずっと穏やかな気持ちになれるのだから。