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第一章 モノクロームの雨宿り

世界から色が消え去って、もうどれくらいの歳月が流れただろう。

水瀬駆(みなせかける)にとって、日常とはすなわち、あまり質の良くない更紙(さらがみ)に粗いドットで印刷された、古いモノクロのグラビア雑誌のようなものだった。

見上げる空の青は、光の強さに応じて濃淡を変えるだけの、ただの退屈な灰色の広がりに過ぎない。初夏の街路樹を彩るはずの鮮烈な緑は、俺の網膜に届く手前で、くすんだ墨色か、あるいは泥のような粘り気を持った暗灰色へと沈んでいく。交差点で明滅する信号機の赤と青にいたっては、それが発する色彩の差異ではなく、光る位置の上下と、網膜を刺激する輝度のわずかな違いだけで機械的に判別していた。

二十二歳。地方の国立大学で建築学科に通う駆は、周囲の人間に対して、この決定的な「欠落」を徹底的に隠し通していた。

心因性視覚障害。

それが、かつて俺が家族で巻き込まれたあの凄惨な交通事故のあとに下された、冷徹な診断名だった。脳の視覚野にも、眼球の構造にも、医学的な異常は一切認められない。にもかかわらず、事故の凄まじい衝撃と、その後に訪れたある精神的トラウマによって、俺の精神は「世界を色で認識すること」を拒絶してしまったのだ。治療の手だては見つからないまま、カウンセリングの効果もなく、俺の世界は灰色一色で固定されたまま大人になってしまった。


「おい水瀬、またそんな暗いコンクリートの塊みたいなデッサン描いてんのかよ。お前の絵、上手いんだけどさ、なんか血が通ってないっていうか、冷たいんだよな」


背後から声をかけてきたのは、同じゼミの友人である佐藤だった。佐藤は駆の肩を軽く叩きながら、机の上に広げられたスケッチブックを覗き込んできた。

駆は、芯の尖った鉛筆を動かす手を止め、小さく息を吐きながら苦笑を浮かべた。


「建築の基本は陰影と構造だからな。色なんていう不確かな要素に惑わされない方が、空間そのものが持つ純粋な美しさが際立つんだよ。色彩っていうのはさ、時として構造の欠陥を隠すための化粧みたいなものだから」


「出たよ、天才特有の屁理屈。まあ、教授がお前のその『モノトーンの空間支配力』を大絶賛してるんだから、それが正解なんだろうけどさ。俺なんか、色がないと図面一枚引くのも退屈で死んじゃうわ」


佐藤はひらひらと手を振りながら、自分の席へと戻っていった。

『色に惑わされない』――それは、駆がこの灰色の世界で生き延びるために身につけた、最大の見栄であり、完璧な生存戦略だった。色が見えないからこそ、光の当たる角度、影の濃淡、物質の質感だけで、他者を圧倒する完璧な設計図を描き出す。大学内で「異色の天才」「光と影の魔術師」などともてはやされる皮肉な現実を、駆は冷めた目で受け入れていた。本当は、ただ色彩という強烈な情報から見放されているだけだというのに。

その日の夕方、大学のキャンパスは予報にない猛烈なゲリラ豪雨に見舞われた。

空を覆い尽くした雨雲は、駆の目には重苦しい黒色と灰色の斑(まだら)模様に見えた。バケツをひっくり返したような大粒の雨が、アスファルトのコンクリートジャングルを容赦なく叩きつけ、白い水煙を上げている。


「くそ、ついてないな……」


生ぬるい突風が吹き荒れ、駆の薄いシャツを一瞬で濡らしていく。と同時に、こめかみの奥が、ずきずきと重く脈打ち始めた。

雨の日はいつもそうだ。気圧の急激な変化のせいか、あるいは、あの事故の記憶の残滓(ざんし)が雨の音をトリガーにして暴れ出すのか、ひどい偏頭痛が駆の脳を苛む。視界の端がチカチカと明滅し、灰色の世界がさらに歪んでいく。

駆は濡れた前髪を片手で押さえながら、キャンパスの最も奥まった場所にひっそりと佇む、古びた文学部の旧図書室へと逃げ込んだ。数年前に最新の設備を備えた新図書館が完成して以来、この木造二階建ての旧館には滅多に人が立ち入らなくなっていた。文字通りの「雨宿り」をするには、これ以上ない静かな穴場だった。

ギィ、と重い木製の扉を押し開けると、室内には湿った木と、乾燥しきった古い紙の、どこか懐かしい匂いが充満していた。

薄暗い室内に、窓ガラスを激しく激しく叩く雨音だけが、まるで古いノイズレコードのように低く反響している。駆は、誰の姿もない閲覧室の窓際の席に腰を下ろし、痛む頭を両手で挟み込むようにして目を閉じた。頭痛の波が引くのを待つ間、俺は無意識のうちに、濡れた鞄からスケッチブックを取り出していた。

鉛筆が、乾いた紙の上を滑る。

サラサラ、という摩擦音が雨音に混ざり合う。駆は、窓の外で激しく降りしきる雨の情景を、ただの線の粗密だけで切り取っていく。水滴がガラスを伝う軌跡、煙る遠くの校舎、水たまりに広がる波紋。色を持たない彼にとって、絵を描くことだけが、この世界と自分を繋ぎ止める唯一の、そして最も細い糸だった。

その時だった。


トントン、と、湿った木床を叩く小気味よい靴音が、静まり返った図書室の奥から響いた。

駆が驚いて顔を上げると、入り口の扉の前に、一人の女性が立っていた。

彼女は大きな、そして駆の目にも明らかに「周囲の灰色とは異なる異質な明度」を持った傘を、慣れた手つきですぼめた。それから、傘についた水滴をピッピッと床に向けて払った。その一連の動作があまりにも迷いなく、洗練されていて、駆は思わず持っていた鉛筆を止めて、彼女の姿を凝視してしまった。


「ふう、セーフ……じゃないか。これじゃあ、結構濡れちゃったな」


彼女は、誰に聞かせるでもなく独りごちながら、濡れた白いノースリーブの肩を小さくすくめた。

駆の目には、彼女の髪も、肌も、着ている衣服も、当然のように白黒のグラデーションでしか見えない。しかし、彼女が纏う空気だけは違っていた。まるでその身体の輪郭の周囲だけ、目に見えない光の粒子が狂ったように躍っているかのように、圧倒的な瑞々しさと存在感を放っていたのだ。

美鈴は薄暗い図書室の中に、先客である駆がいることに気づくと、一瞬だけその丸い瞳をさらに丸くした。だが、気まずそうに目を逸らすわけでもなく、すぐに初対面の人間とは思えないほど人懐っこい、ひまわりが咲くような笑みを浮かべ、駆のいる窓際の席へと迷いのない足取りで歩いてきた。


「隣、いいですか? 新校舎の方、どこもかしこも雨宿りの人とゲリラ豪雨から避難してきた学生でいっぱいで、座る場所すらなくて。ここは、すごく静かで素敵ですね」


「あ、ええ。どうぞ。ここはもう、誰も使いませんから」


駆は突然の侵入者に戸惑いながらも、机の上の荷物を引き寄せ、席を半分空けた。

美鈴は「失礼します」と鈴を転がすような声で小さく頭を下げて腰を下ろすと、すぐに首から下げていた無骨な、しかし見るからに年季の入ったアンティークのフィルムカメラを愛おしそうに手にとり、小さなハンカチで丁寧に水滴を拭き始めた。


「カメラ、ですか」


あまりの沈黙に耐えかねて、また、彼女の持つ独特の雰囲気に気圧されそうになるのを誤魔化すために、駆は柄にもなく自分から声をかけた。


「ええ。私、芸術学部の写真学科の二年生なんです。凪利美鈴(なぎりみれい)って言います。雨の日の景色を、この古いフィルムで撮るのが、何よりも好きで」


美鈴はそう言って、窓の外の、駆にとっては灰色に濁った陰鬱な世界を、まるで恋人を見つめるような、熱を帯びた瞳で見つめた。


「雨って、不思議だと思いませんか? 街の表情を、たった数分でガラッと変えちゃうでしょう。すべてのものが水に濡れて、光を反射して、いつもよりずっと……なんて言うか、鮮やかになる気がするんです。まるで、世界が新しく生まれ変わったみたいに」


美鈴の口から滑り落ちた「鮮やか」という言葉。それは、今の駆にとって最も遠い場所にある概念であり、同時に、かつて失った最も残酷な果実の名前でもあった。


「君には、この雨がそんなに綺麗に見えるんだね」


少しだけ、本当に少しだけ自嘲のニュアンスを混ぜて呟いた駆の言葉に、美鈴は不思議そうに首を傾げた。もちろん、彼女は駆の目が灰色に染まっていることなど知る由もない。彼女の視線は、駆の顔から、机の上に広げられたスケッチブックへと滑り落ちた。そこには、駆が今しがた描いた、雨に濡れるキャンパスの、冷徹なまでに正確なデッサンがあった。

美鈴の瞳が、まるで夜空に星が灯るように、きらりと輝いた。


「わあ……すごい。これ、水瀬くん――あ、名札が鞄についてたから、勝手に読んじゃいました。水瀬くんが描いたんですか?」


「ええ。一応、建築学科なので。空間の骨組みを捉える練習です」


「建築の絵っていうより、まるでこの紙の上が、本当に呼吸しているみたい。ねえ、水瀬くんの描く絵には、すごく温かい風が吹いているね。色なんて、何ひとつ使っていないのに。鉛筆の黒と、紙の白だけなのに、どうしてこんなに優しいんだろう」


色なんて、何ひとつ使っていない――。

その言葉は、駆の胸の最も柔らかい部分を、優しく愛撫されたようでもあり、同時に、自分の致命的な秘密を背後から見透かされているような、得体の知れない恐怖でもあった。


「俺には、色を塗る才能がないんだ。だから、光と影のバランスだけで、色彩の不在をごまかしているに過ぎないよ」


駆がそう言って、防衛本能のままにスケッチブックをパタンと閉じようとした、その瞬間だった。

美鈴の白く細い指先が、そっと、駆の右手に自分の手を重ねた。

ビクン、と駆の身体が強張る。

ひんやりとした雨の冷たさと、それとは相反する、彼女の皮膚の奥にある柔らかな、脈打つような温もりが、駆の手の甲から袖を伝い、全身の神経へと一気に伝播していく。


「誤魔化してなんかいないよ」


美鈴は、駆の目を真っ直ぐに見つめて言った。彼女の瞳の奥には、濁りのない純粋な熱があった。


「私には見えるよ。この絵の中に、水瀬くんの、世界に対する優しい眼差しが。ねえ、今度私に、あなたの世界を、もっともっと教えて?」


窓外の豪雨の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。

駆の耳に届いたのは、ドクン、と大きく跳ねた、自分自身の心臓の音だった。

そして、そのすぐ隣で、美鈴が愛おしそうに自分の胸にそっと手を当て、何かを確かめるようにして静かに息を吐いたことに、この時の駆はまだ、気づいていなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーー


二人の距離は、雨音に急かされるようにして、奇妙な速度で縮まっていった。

美鈴は濡れたノースリーブのポケットから、小さな、透明な包み紙に包まれたハッカ飴を取り出すと、「はい、頭痛に効くおまじない」と言って、強引に駆のひらを開かせてそれを握らせた。


「え……なんで、俺が頭痛だって分かったの?」


駆が目を丸くして尋ねると、美鈴は待ってましたとばかりに、悪戯っぽく、猫のように目を細めて笑った。


「だって、さっきから水瀬くん、ずっと右手でこめかみを押さえて、眉間にものすごいシワが寄ってたもの。私、写真学科だからね。人の表情の変化とか、視線の動きには、ちょっとだけ敏感なの」


駆は自分の手のひらの上のハッカ飴を見つめた。包み紙が図書室のわずかな光を反射して、鈍い灰色に輝いている。口に放り込むと、ツンとした刺激的な清涼感が鼻を抜け、不思議とこめかみの痛みが少しだけ和らぐのを感じた。


「ねえ、水瀬くん。雨が止むまでの暇つぶしに、ちょっとしたゲームをしない?」


美鈴が、机の上のカメラを脇に退け、身を乗り出してきた。彼女の髪から、雨の水滴がひとしずく、駆のスケッチブックの端に落ちて、小さなシミを作った。


「ゲーム?」


「うん。『嘘つきゲーム』。ルールは簡単。お互いに、この図書室から見えるもの、あるいは身につけているものの『色』を順番に教え合うの。ただし、その中に一つだけ、相手に絶対にバレないような『優しい嘘』を混ぜなきゃいけない。相手がいつ嘘をついたか、どの色が偽物かを見破れたら、見破った方の勝ち」


駆の心臓が、どきりと冷たい音を立てた。

色を教え合うゲーム。

全盲ではないが、世界が白黒にしか見えない心因性視覚障害の駆にとって、それは圧倒的に不利な、というか、破滅を意味するあまりにも危険なゲームだった。もし適当な色を口にして、それが実際の色彩と完全に乖離(かいり)していたら(例えば、本来なら茶色であるはずの木製の机を、的外れな緑色だと言ってしまえば)、自分の障害がその場で完全に露見してしまう。

しかし、美鈴のまっすぐな、好奇心に満ちた瞳を見つめているうちに、駆の胸の中に、普段なら絶対に湧き上がらないような、奇妙な意地と、そして一種の「賭け」のような衝動が芽生えた。


(バレたらバレたで構わない。どうせ、この雨が上がれば、もう二度と会うこともない他人のままだ。色の見えない男だと、哀れみの目を向けられるだけだ)


「いいよ。乗った。じゃあ、言い出しっぺの君からどうぞ」


美鈴は満足そうに頷くと、窓の外、雨に煙るキャンパスの敷地の境界線を指差した。


「じゃあ、第一問。あそこにある、古びた文学部の部室棟の屋根。あれはね、くすんだ、すごく深い赤色。何十年も雨風にさらされて、まるで熟しすぎた林檎がそのまま錆びちゃったみたいな、寂しい色をしてるの」


駆は窓の外に視線を向けた。俺の目には、その指定された建物の屋根は、周囲の木々よりもわずかに明度が低い、ただの中彩度のグレーにしか見えない。だが、駆は脳内の記憶のデータベースを、猛烈な勢いで検索した。建築学科の学生として、キャンパス内の主要な建物の構造や歴史は頭に入っている。確か、あの建物は昭和初期に建てられた、登録有形文化財指定の手前の赤レンガ造りだったはずだ。だとすれば、屋根が赤である確率は極めて高い。


「……本当、だな。それは嘘じゃない。実際の屋根の色も、くすんだ赤だ」


「あ、正解。やっぱり建築学科だね、細かいところまでよく見てる」


美鈴はつまらなそうに唇を尖らせた。


「じゃあ、次は水瀬くんの番。私をあっと驚かせるような嘘をついてみて」


駆は唾を飲み込み、自分の机の上に置いてある、使い込まれた革製のスケッチブックの表紙を見た。

俺は、この表紙が本当は何色なのかを知らない。買ったときは、ただ「手触りがいいから」という理由だけで選んだのだ。俺の目には、それは深い、重みのある暗灰色に見える。

駆は、一般的なお洒落なスケッチブックの定番の色を頭の中でシミュレーションする。黒か、あるいは高級感のある茶色か、それとも――。


「このスケッチブックの表紙。これはね、光の届かない、深い海の底みたいな、綺麗な『紺色(ネイビー)』だよ」


美鈴は、駆の言葉を聞いた瞬間、スケッチブックの表紙をじっと見つめ、それからゆっくりと、駆の顔を覗き込んだ。彼女の瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、複雑な色彩を伴って揺れたように見えた。それは驚きなのか、あるいは別の感情なのか、駆には判別できなかった。


「……ふーん。海の底の、紺色。素敵ね。じゃあ、それは『本当』ってことにしてあげる」


「してあげるって、何だよ。俺の勝ちでいいのか?」


「さあ、どうかしらね」


美鈴はクスクスと含み笑いを残し、自分の首から下げた、あの無骨なカメラのストラップに細い指先で触れた。駆の目には、そのストラップは白と黒の中間、やや明るめの、ザラついた質感の灰色の紐に見える。


「じゃあ、私からの最後の問題。このカメラのストラップ。これはね、綺麗な『琥珀色(アンバー)』なの。遠い昔の夕暮れの光を、そのままギュッと閉じ込めて固めたみたいな、すごく温かい色。さて、これは本当? それとも、私がついた嘘?」


琥珀色。

駆はその色の名前を、明確に知っていた。まだ俺の世界に、豊かな色彩が溢れかえっていた十歳より前の頃。祖父の書斎の机の引き出しの奥で見せてもらった、太古の虫が閉じ込められた、あの美しく透き通った樹脂の宝石の色だ。光に透かすと、黄金色とも蜂蜜色ともつかない、胸の奥が痛くなるような温かい輝きを放っていた、あの色。

駆は美鈴の表情を、食い入るように観察した。彼女はいつもと変わらない、悪戯っぽい微笑みを浮かべている。しかし、その奥にある瞳は、まるで駆の魂の底に沈んでいる「何か」を、じっと、息を潜めて釣り上げようとしているかのように、静かで、深く、張り詰めていた。

駆は一か八か、自分の直感と、彼女の纏う「温かさ」の気配に、すべてを賭けることにした。


「……本当だ」


駆は、掠れた声を絞り出すようにして答えた。


「それは嘘じゃない。君によく似合う、すごく綺麗で、温かい琥珀色だ」


美鈴は、一瞬だけ、本当に息を止めた。

その瞬間の彼女の表情を、駆は一生忘れることができないだろう。

彼女は、今までに見たこともないような、今にもボロボロと大粒の涙をこぼし出してしまいそうな、切なくて、歪んだ、しかし世界で一番美しい笑顔を浮かべたのだ。


「……大正解。水瀬くん、君の勝ちだよ。私、完全に降参」


その言葉と同時に、図書室の窓を激しく、狂ったように叩いていたゲリラ豪雨の音が、まるで魔法が解けたかのようにピタリと小降りになった。厚い雲の切れ間から、夕暮れの淡い、しかし力強い光が、古いガラス窓を通して室内に斜めに差し込んでくる。


「あ、雨、止んじゃったね」


美鈴は、差し込んできた光に目を細めながら、本当に名残惜しそうに呟いた。彼女は手際よくカメラをバッグに収めると、椅子から立ち上がった。


「楽しかったよ、水瀬くん。私の負け。このおまじないの飴の代金は、今のゲームの勝ち分で帳消しにしてあげるね」


「待って、凪利さん。あの、もしよかったら、連絡先を――」


駆が慌てて立ち上がり、言いかけると、美鈴は振り返り、人差し指を自分の薄い唇にそっと当てて、シー、と微笑んだ。


「連絡先は、ナシ。だって、私たちは出会ったばかりの、お互いに秘密を抱えた『嘘つき同士』だもの。……また、雨が降ったら、この場所で。もし、運命の神様が私たちのついた嘘を許してくれたら、きっとまた会えるよ」


彼女は、入り口に立てかけてあった、大ぶりの、おそらく彼女にとっては鮮やかな色彩を持っているであろう傘を手に取ると、今度こそ一度も振り返ることなく、図書室の重い扉の向こうへと去っていった。

静まり返った室内には、再び古い紙の匂いだけが残り、駆の手のひらには、彼女から手渡されたハッカ飴の包み紙が、俺の体温を吸って、少しだけ温かくなっていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


大学からの帰り道、駆を苦しめていたあの激しい偏頭痛は、綺麗さっぱりと消え去っていた。

しかし、それと引き換えにするようにして、胸の奥につかえた奇妙な違和感と、ざわめきだけが、どうしても消えてくれなかった。


(なぜ、彼女は最後に、あんなに泣きそうな顔で笑ったんだろう)


最後の質問。カメラのストラップの色。駆は自分の記憶と直感を信じて「本当(琥珀色)」と答えた。そして彼女はそれを正解だと言った。だが、もしそれが、彼女が仕掛けた二重の罠であり、実際には全く違う色だったとしたら。あるいは――彼女は最初から、俺の目が色を認識していないこと、必死に嘘をついて周囲を騙していることに、気づいていたのではないか。

歩道橋の上から見下ろす街の景色は、相変わらず無機質なモノクロームの濃淡だけで構成されていた。行き交う車のヘッドライトも、ストップランプも、ただの白い光の点滅にしか見えない。この灰色に塗り潰された世界の中で、凪利美鈴という少女の存在だけが、まるで強烈な磁場のように、駆の凍りついた心を揺さぶり続けていた。


「ただいま……」


誰もいない、家賃四万五千円の狭いアパートの一室に戻った駆は、部屋の電気をつけることもせず、鞄を床に放り投げてベッドに仰向けに横たわった。

薄暗い天井を見つめる。そこにあるのは、見慣れた、退屈な灰色の天井クロスの模様だけだ。

部屋の片隅にある、祖父の遺品を並べた古い木製の棚の上。そこに、一台の小さなアンティークのオルゴールが置かれている。

駆は身体を起こし、吸い寄せられるようにして棚の前に歩み寄ると、その金属製の重いネジを、ゆっくりと回した。

キィ、キィ、と、長年手入れをされていないギアが、錆びついた悲鳴を上げる。

やがて、小さな真鍮のドラムが回り始め、ピンが弾かれて、不器用なメロディが部屋の静寂に流れ出した。

ポロン、ポロロン……。

……ポロン。

そのオルゴールは、数年前に内部のゼンマイと調速機(ジャイロ)が壊れて以来、一定のテンポを保って演奏することができなくなっていた。

ある時は、何かに急き立てられるかのように狂ったように速く鳴り響き、またある時は、力尽きてそのまま止まってしまうのではないかと思えるほど、不自然に間隔が空く。不規則で、不穏で、しかしどこか人間的な、壊れたリズム。


「……本当に、不器用な音だな」


駆は、棚に寄りかかりながら、その不協和音の一歩手前のメロディに耳を傾けた。

色彩を失った世界。

自分を守るために、張り巡らせた無数の嘘。

そして、ゲリラ豪雨と共に現れ、琥珀色の謎を残して去っていった、凪利美鈴という少女。

窓の外では、いつの間にか、昼間の激しさとは打って変わった、しとしとと静かな夜の雨が、再び街を濡らし始めていた。

壊れたオルゴールの途切れ途切れの音が、夜の雨音に静かに溺れ、溶けて消えていく。

それが、二人の運命を根底から狂わせ、そして同時に、過去のすべての真実を解き明かすための、長くて切ない旅路のほんの序章に過ぎないことを、この時の水瀬駆は、まだ一ミリも知る由がなかった。

これから読み進めていただく全編のなかで、二人が刻む時間の経過や、記憶のパズルのピースに、いくつかの「歪み」や、説明のつかない「矛盾」のような違和感を覚える瞬間があるかもしれませんが、読者の皆様の自由な想像と考察にお任せしたいと思います。(丸投げでごめんなさい!!)

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