第一章:揺らぐ幻影
手鏡を手に入れてから、三日が経った。
アヤカはそれを、寝室の小さなチェストの上に飾っていた。最初は、ただの装飾品のつもりだった。けれど、翌朝からメイクのときに使うようになった。縁の模様がどこかクラシカルで、持っているだけで気分が上がる。小さな自分だけの世界を映す鏡。そんなふうに思っていた。
最初の異変は、その三日目の朝だった。
アイラインを引こうと鏡を覗き込んだとき、ふいに、自分の目元がふわりと波打った。まるで水面に映った顔を、風が撫でたように。
「……ん?」
アヤカは鏡を持ち直して、見直した。
そこには、いつもの自分の顔があった。少し寝ぼけているけれど、特に変わったところはない。気のせい。寝起きで目が乾いていただけ。
自分に言い聞かせて、再びアイラインを引いた。
しかしその日から、アヤカはときどき、鏡の中の自分に言いようのない違和感を覚えるようになった。
目が合ったはずなのに、視線がほんの少し、しかし明確にずれている気がする。頬のラインが、まるで泥のように、ずるりと歪んで見える。光の加減だろう。鏡が古いから、そう見えるのかもしれない。
――そう、自分に言い聞かせる回数が、日ごとに増えていった。その度に、どこか冷たいものが、背筋を撫でるような気がした。
金曜の夜。仕事を終えて帰宅したアヤカは、部屋の明かりもつけず、しばらくソファに身を沈めた。目を閉じると、キーボードを叩く音がまだ耳の奥に残っている。クライアントからの修正依頼、チャットの通知、次のプレゼンの準備――一週間の重さが、全身をじっとりと包んでいた。
ふと目を開けると、部屋の暗がりに白く、仄かに、しかし異様に光るものが目に入った。
あの手鏡だった。窓から差し込んだ街灯の光が、鏡面をかすかに照らしている。その光は、まるで鏡の奥から自ら発せられているかのように、僅かに周囲の空気を湿らせているような錯覚さえ覚えた。
アヤカは、なんとなくそれを手に取った。手にした瞬間、ひんやりとした、体温のない冷たさが指先に伝わった。
鏡の奥、自分の顔が浮かび上がる。
……けれど、何かがおかしい。
輪郭が、微かに揺れていた。それは、水面に映った像が揺らぐような、牧歌的なものではなかった。
目元が、ふくらんで膨張し、まるで粘膜が蠢くように、また元に戻る。唇が波に飲まれるように歪み、次の瞬間には、不自然に口角が吊り上がっているように見えた。水面のようにゆらゆらと――それは、間違いなく「鏡の歪み」などではなかった。まるで、鏡の奥の「何か」が、アヤカの顔の皮を被り、内側から蠢いているかのようだった。
アヤカは思わず鏡を伏せた。その時、微かに、「チャポン」と、水が揺れるような、しかし、どこか粘り気のある奇妙な音が、鏡の奥から聞こえたような気がした。
部屋の中は静かだった。冷蔵庫の微かな稼働音。窓の外を走る車の音。どれも変わりない、いつもの音。なのに、背中を冷たい汗がつたっていく。
――あれは、何?
光の加減? 目の疲れ? それとも……。
アヤカは、鏡をもう一度、恐る恐る持ち上げた。
そこには、いつもの自分の顔があった。けれど、その奥――鏡の、ほんの奥底に、
なにか“深さ”があるような気がした。
底の見えない、水のような。
ひんやりと、そして静かで、決して覗いてはいけないような……そんな深さだった。その闇の奥から、「自分ではない、誰かの視線」が、常にアヤカを捉えているような、そんな戦慄が押し寄せた。
その夜、アヤカは夢を見た。
水の中にいる夢だった。水は澄んでいて、冷たく、静かだった。全身を包む水の感触は、先ほど手鏡から感じた冷たさと、妙に酷似していた。
けれど、水面には上がれなかった。どれだけ手を伸ばしても、指先が届かない。声も出せない。肺は水で満たされているはずなのに、苦しくはない。ただ、身体が重く、感覚が麻痺していくようだった。目の前には、自分が見ていたはずの鏡が、ぷかぷかと浮かんでいた。
鏡の中では、自分の顔が、水中でにやりと笑っていた。その笑みは、アヤカの知るどんな感情とも違う、凍てつくような、しかしどこか悦びに満ちたものだった。
――朝、アヤカは、汗だくで目を覚ました。寝汗で濡れたシーツは、まるで冷たい水に浸されたかのように肌に張り付いた。
枕元に置いた手鏡は、黙ってそこにあった。いつもと変わらぬ銀の縁、曇った鏡面。
けれど、アヤカにはもう、それがただの“気のせい”ではないと、どこかで感じていた。
自分は、知らぬ間に――“何か”を、覗きこんでしまったのかもしれない。そして、その「何か」は、すでに鏡の奥から、彼女の「日常」へと、ゆっくりと、しかし確実に、その冷たい指先を伸ばし始めているのだと。
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