第二章:水底からの視線
その日、アヤカはいつもより少し遅くまで寝ていた。
体が鉛のように重かった。深夜に見た夢のせいだろう。水の中で息ができず、もがき続けるような悪夢――目が覚めた今も、その冷たい感触と、肺に満ちた水の重さだけが喉の奥に残っていた。まるで、本当に水中に沈んでいたかのように、身体の節々が軋んだ。
シャワーを浴びて、洗面台の前に立つ。鏡の前はいつもと変わらない。
濡れた髪をタオルで巻きながら、いつものようにメイクポーチを開く。指先が自然に、例の手鏡を探す。触れた瞬間、凍るような冷たさが、まだ少し熱い指先から伝わってきた。
アヤカはふと、胸の奥がざわつくのを感じた。
――見たくない。
けれど、見なければならないような、抗いがたい引力のようなものがそこにはあった。まるで、鏡の奥から何かに呼ばれているかのように。
そっと、鏡を覗き込む。
一瞬、自分の顔がいつもよりくすんで見えた。目の下に薄いクマ。唇の血色も悪い。それは、単なる寝不足の顔ではなかった。まるで、長い間、水底に沈んでいたかのような、不自然な蒼白さだった。
「……やっぱり寝不足か」
独りごちのように呟き、ファンデーションを指先に取る。そのときだった。
――鏡の中に、自分以外の顔が映った。
水に濡れた長い髪。青白い、死人のような肌。大きく見開かれた、濁った、しかし狂気に満ちた目。その女は、アヤカの真後ろ、肩越しに、アヤカの顔を覗き込むように映っていた。その口元は、不気味なほどに引き攣り、笑っているように見えた。
アヤカは悲鳴を上げそうになりながら、反射的に後ろを振り返った。
誰もいない。
洗面所には、自分一人しかいなかった。シンクの蛇口は固く閉まり、水道管から水音一つしない。
鏡を見直す。そこにも、自分の顔だけがある。しかし、鏡に映る自分の目は、先ほど見た幻影の女の瞳のように、僅かに濁り、そして、奥底に冷たい光を宿しているように見えた。
震える手のひらから伝わる異常な冷たさは、たしかに“何か”がそこにいた証のように感じられた。そして、アヤカの髪から滴り落ちた水滴が、洗面台に「チャポン」と、妙に大きく響いた。それは、まるで鏡の奥から聞こえたあの音に酷似していた。
夜、何もする気が起きなかった。
パスタを茹でる気力もなく、レトルトのスープを温めて流し込んだ。スマホを眺めても、ニュースもSNSも頭に入ってこない。ただ、身体の奥底から、どうしようもない冷えが這い上がってくるような感覚に囚われていた。
食器をシンクに置いたあと、なんとなくテレビをつけた。その瞬間、部屋の空気が、まるで霧が立ち込めたかのように、ふわりと重く、湿気を帯びた気がした。
バラエティ番組が終わると、すぐにローカルニュースが始まった。
『――本日午後、〇〇川の下流で、水難事故が発生しました。』
ニュースキャスターの冷徹な声が、耳に、そして脳裏に焼きついた。
『遊びに来ていた高校生のグループの一人が、川に足を滑らせて流され、意識不明の重体です。現在、依然として行方不明となっており、捜索が続けられています。』
画面には、救急隊が駆け寄る映像。川辺に打ち寄せられた白い靴。周囲を取り囲む人々の不安げな顔。そして、カメラは、濁った川面を捉えていた。
アヤカの手が、吸い寄せられるようにポーチを探っていた。
取り出した手鏡を、ゆっくりと傾ける。その重さが、妙に生々しく、そして「湿って」感じられた。
――鏡の中に、見たことのない川が映っていた。しかしそれは、テレビに映る〇〇川そのものだった。
画面のニュースと同じ川辺。木々が鬱蒼と生い茂る細い川。誰もいないはずなのに、水面の下で、何かが動いた。
ぷくり、とふくらむ泡。
ゆらめく、白い布。それは、テレビのニュースで見た「白いワイシャツの袖」と同じように見えた。
その袖の先から、指が――水の中から、こちらを掴もうとするように、ゆっくりと、しかし確実に、伸びてきた。その指先は、まるで水の底から這い上がってきたばかりのように、不気味に潤んでいた。そして、その指の隙間から、僅かに、黒く濁った「泥」が滲み出ているように見えた。
「……ッ!」
アヤカは思わず、鏡をテーブルに叩きつけた。
鈍い音がして、鏡がひっくり返った。幸い、割れてはいなかった。しかし、鏡を叩きつけた衝撃で、テーブルの表面が、僅かに、しかしはっきりと「湿り気を帯びた」ように感じられた。
呼吸が荒くなる。胸が苦しい。喉の奥が熱いのに、手足は氷のように冷えていた。
テレビからは、まだ淡々とニュースが続いている。
『現在、行方不明となっている高校生の名前は、タケダ・リュウジさんです――』
声が遠ざかっていく。鏡の中に映っていた“もの”が、現実に重なっていくような感覚。あの指が、タケダ・リュウジの指だったのだと、本能的に理解してしまった。
あれは、予兆だったのか? それとも――過去の記録か?
いや、それだけではない。あの水底の視線は、確かに「こちら」を見ていた。
わからない。ただひとつ確かに言えるのは、あの鏡が“見せている”のは、ただの映像ではないということだった。
そして、それが次に何を見せるのか、そして「何が、こちらへと現れようとしているのか」、アヤカには知るすべがなかった。彼女は、水底からの呼び声が、日ごとに、彼女の「現実」を曖巻に侵食し始めていることを、もう止められないと悟り始めていた。
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