↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/2

第一話 無才の少年

「レイ、じっとしてなさい。襟が曲がってるわよ」


母さんが、何度目かも分からない手つきで俺の服を直した。


「もう大丈夫だって」


「大丈夫じゃないわ。今日は大事な日なんだから」


そう言って、母さんは俺の襟元を整え、最後に満足そうに微笑んだ。


今日は祝福の儀。


八歳になった子供が神殿に集まり、これからの人生を左右する祝福を受ける日だ。


身体能力が大きく伸び、特別な才能を授かる者もいる。


剣の才能に恵まれれば騎士になれるかもしれない。魔法の才能があれば、王都の学院に通えるかもしれない。


そして、ごくまれに。


勇者や剣聖と呼ばれるほどの才能を授かる者もいる。


「お前は何になりたいんだ?」


父さんが笑いながら聞いてきた。


「強くなりたい」


「ほう。騎士にでもなるか?」


「まだ分かんない。でも、強くなりたいんだ」


本当は、強くなって何をしたいのか、自分でもよく分かっていなかった。


ただ、強くなれば、できることが増える。


遠くの町にも行ける。知らないものだって見られる。


それに――。


「父さんと母さんを守れるくらい、強くなりたい」


そう答えると、母さんは一瞬目を丸くし、それから俺を抱きしめた。


「まあ。頼もしいこと」


「ははっ、そりゃ楽しみだな」


父さんの大きな手が、俺の頭をくしゃくしゃとかき回す。


「よし。帰りに好きなものを食わせてやる。今日はお祝いだ」


「本当!?」


「もちろんだ」


俺は笑った。


そのときの俺は、疑いもしなかった。


今日が、人生で最高の日になると思っていた。


     *


神殿には、同じ年頃の子供たちと、その家族が集まっていた。


高い天井。白い石柱。祭壇の奥には、光を放つ大きな水晶が据えられている。


司祭が祝福の儀について説明を始めたが、俺は半分も聞いていなかった。


隣に並んだ少年が、緊張した顔でつぶやいた。


「俺、剣聖になれるかな」


「なれるわけないだろ」


別の少年が笑った。


「剣聖なんて、何百年に一人だぞ」


「じゃあ勇者!」


「もっと無理だって!」


周囲から笑い声が起きた。


俺もつられて笑った。


別に、勇者になりたいわけじゃない。


何か一つでも、自分に向いているものが見つかればいい。


そう思っていた。


やがて、儀式が始まった。


一人ずつ名前を呼ばれ、水晶の前に立つ。


子供の身体が淡く光り、司祭がその才能を告げる。


「火魔法の適性を確認。魔力も良好です」


「身体能力の上昇を確認。剣術の才能が見られます」


そのたびに、家族たちが歓声を上げた。


そして、ついに。


「次。レイ」


俺は祭壇へ向かった。


背中に、父さんと母さんの視線を感じる。


大丈夫。


きっと、何かある。


そう自分に言い聞かせながら、水晶に手を触れた。




――何も起こらなかった。




水晶は沈黙したままだった。


司祭が眉を寄せる。


もう一度、俺に手をかざした。


しばらくして、司祭の口から出た言葉は、ひどくあっけないものだった。


「……魔法適性、確認できず」


周囲が静かになった。


「祝福による特別な才能も、確認できません」


司祭の声が、神殿に響いた。


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「え?」


思わず声が漏れた。


「もう一度、やってください」


司祭は困ったような顔をした。


「儀式に間違いはありません」


「でも……」


背後から、くすくすと笑う声が聞こえた。


「なんだ、あいつ」


「魔法も使えないのか?」


「じゃあ、何の役に立つんだよ」


胸の奥がひどく痛くなった。



神殿を出ると、父さんが俺の肩に手を置いた。


「気にするな」


いつもと変わらない声だった。


「才能がなかったからって、お前が変わるわけじゃない」


「でも……」


「お前はお前だ。それでいい」


母さんも、俺の手を握った。


「今日は帰って、おいしいものを食べましょう。約束したでしょう?」


俺はうなずいた。


二人がいつも通りに接してくれることが、ありがたかった。


     *


けれど、その日から、俺の生活は少しずつ変わっていった。


最初は、ほんの些細なことだった。


いつも一緒に遊んでいた友達が、俺を誘わなくなった。


「今日、遊びに行こうぜ」


そう声をかけると、彼らは顔を見合わせた。


「悪い。今日は用事があるんだ」


翌日も、その次の日も、同じだった。


ある日、町の広場で彼らが遊んでいるのを見つけた。


「……俺も入れてよ」


そう言うと、一人が嫌そうな顔をした。


「お前、まだいたの?」


「え?」


「だって、お前、才能ないんだろ?」


周りの子供たちが笑った。


「一緒に遊んでも意味ないじゃん」


「どうせ何にもなれないんだし」


何か言い返そうとした。


でも、言葉が出てこなかった。


俺だって、好きで才能がなかったわけじゃない。


俺だって、みんなと同じように遊びたかった。


それなのに。


「……もういいよ」


俺は背を向けた。


泣きそうになったけれど、泣かなかった。


泣いたら、もっと笑われる気がしたから。


     *


いじめは、少しずつひどくなっていった。


道ですれ違えば、わざと肩をぶつけられる。


何かを落とせば、拾う前に踏まれる。


俺が話しかけると、わざと大きな声で笑う奴もいた。


「無能がしゃべったぞ」


「お前、将来どうすんの?」


「親に養ってもらうのか? いつまで?」


言いたい放題言いやがって。


ついに堪忍袋の尾が切れ、言い返してやった。


「うるさいな!」


そう叫ぶと、相手は面白そうに笑った。


「お、怒ったぞ」


「才能ないくせに、偉そうだな」


次の瞬間、胸を突き飛ばされた。


尻もちをついた俺を、何人かが囲んだ。


「なあ、なんで生きてんの?」


笑いながら、一人が言った。


「お前みたいなの、いない方がよくね?」


別の一人が続けた。


「ほんとだよ。死んだ方が家族も楽なんじゃねえの?」


みんな笑っていた。


相手にとっては、遊びのつもりなのだろう。


でも、俺には笑えなかった。


その言葉だけが、頭の中に残った。


死んだ方がいい。


いない方がいい。


何をしても、何を言っても、俺は無能だ。


何も持っていない。


何の役にも立たない。


だったら、俺は何のために生きているんだろう。


家に帰るまで、ずっと考えていた。


     *


「レイ?」


玄関を開けると、母さんが顔を出した。


俺の服についた泥を見て、表情が変わった。


「また転んだの?」


「……うん」


嘘だった。


母さんは、すぐに気づいたのかもしれない。


けれど、何も聞かなかった。


「おいで。傷を洗いましょう」


椅子に座らされ、母さんが濡らした布で頬を拭いてくれた。


少しだけ、しみた。


「痛い?」


「平気」


「そう」


母さんは優しく笑った。


その顔を見ていたら、我慢していたものが込み上げてきた。


「……母さん」


「なあに?」


「俺って、そんなにいらない子なのかな」


母さんの手が止まった。


言うつもりなんてなかった。


でも、一度口から出てしまうと、もう止まらなかった。


「みんな、俺には何もないって言うんだ。才能もないし、何の役にも立たないって」


喉が詰まった。


「俺がいると、みんな嫌な顔をするんだよ」


母さんは布を置いた。


そして、俺を抱きしめた。


「そんなこと、誰が言ったの?」


「……みんな」


「そう」


母さんは、それ以上聞かなかった。


ただ、俺を抱きしめる腕に力を込めた。


「レイ。よく聞いてね」


耳元で、母さんが言った。


「魔法が使えなくても、特別な才能がなくても、あなたは私の大切な子よ」


母さんの声が、少し震えていた。


「あなたが生まれてきてくれた日、どれだけ嬉しかったか。あなたには、きっと分からないわね」


俺の頭に、母さんの頬が触れた。


「だからね。誰かに何を言われても、自分まで自分をいらない子だなんて思わないで」


俺は母さんの服を握りしめた。


「……でも、俺、何もないよ」


「うん」


「何にもできない」


「うん」


「みんな、死んだ方がいいって……」


最後まで言えなかった。


母さんは俺を強く抱きしめた。


「そんなこと、絶対にない」


その声は、今まで聞いたどんな声よりも強かった。


「あなたが生きていてくれるだけで、私は幸せなの」


その夜、俺は母さんの胸で泣いた。


久しぶりに、声を出して泣いた。


     *

翌朝。


目を覚ますと、目元が少し腫れていた。


昨日、母さんの前で泣いたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。


顔を洗ってから食堂へ向かうと、父さんが一人で朝食を食べていた。


「おはよう、レイ」


「……おはよう」


父さんは俺の顔を見ると、手を止めた。


「目が赤いな」


「昨日、ちょっと……」


「そうか」


それだけ言って、父さんは再び食事に戻った。


何も聞かれなかったことに、少しだけほっとした。


けれど、席についてしばらくすると、父さんが口を開いた。


「レイ。今日、少し付き合え」


「どこに?」


「裏庭だ」


理由は教えてくれなかった。


朝食を終えると、俺は父さんについて家の裏へ回った。


そこには、古びた木剣が二本置いてあった。


「持ってみろ」


差し出された一本を、俺は受け取った。


「……何するの?」


「剣の振り方を教えてやる」


思わず、父さんの顔を見た。


父さんは騎士ではない。剣の才能があるわけでもない。ただ、昔から身体を動かすことが好きで、俺が小さい頃には何度か剣の振り方を見せてくれた。


でも、祝福の儀を終えてからは、そんなこともなくなっていた。


「俺、剣の才能なんてないよ」


口にしてから、しまったと思った。


父さんは怒らなかった。


ただ、静かに尋ねた。


「誰がそんなことを決めた?」


「……祝福の儀で」


父さんは木剣を構えた。


「じゃあ、神官はお前が剣を振る姿を見たのか?」


「え?」


「お前が何百回も剣を振るところを見たのか。転んでも、手に豆ができても、もう一度立ち上がるところを見たのか?」


俺は答えられなかった。


そんなこと、誰も見ていない。


そもそも、俺は剣の練習なんてしたことがなかった。


父さんは木剣を肩に担いだ。


「才能があるかどうかは、俺には分からん。お前に本当に何ができるのかも、まだ分からん」


胸の奥が、少し痛んだ。


やっぱり、父さんもそう思っているんだ。


「だがな」


父さんは俺の頭に、大きな手を置いた。


「お前が何もできない人間だなんて、俺は思っていない」


顔を上げた。


父さんは、いつもの少し怖い顔をしていた。


けれど、その目は優しかった。


「お前が初めて歩いた日のことを覚えているか?」


「……覚えてないよ」


「そうだろうな。何度も転んで、最後には尻餅をついて泣いていた」


父さんは笑った。


「それでも、お前は次の日も立ち上がろうとした。俺たちは、それが嬉しかったんだ」


木剣を握る手に、少しだけ力が入った。


「レイ。強さってのは、神様からもらったものだけじゃない」


父さんは俺の前に立ち、木剣を構えた。


「自分が何者なのかを、他人に決めさせないことだ」


そして、俺に木剣を向ける。


「さあ、かかってこい」


「……え?」


「一発でも俺に当てられたら、お前の勝ちだ」


「そんなの無理だよ!」


「やってみなきゃ分からんだろう」


父さんは笑っていた。


俺は木剣を握り直した。


どうせ無理だ。


どうせ、俺には何もできない。


そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回る。


それでも。


目の前で笑っている父さんにだけは、少しくらい格好いいところを見せたかった。


俺は地面を蹴った。


木剣を振り上げ、思い切り打ち込む。


当然、父さんは簡単に受け止めた。


「遅い!」


木剣を弾かれ、俺は尻餅をついた。


「いってぇ……」


「立て」


父さんの声は厳しかった。


俺は唇を噛み、立ち上がった。


もう一度。


また弾かれた。


それでも、もう一度。


何度やっても、父さんには届かなかった。


やがて腕が疲れ、息が切れ、木剣を握る手が震え始めた。


「……もう、無理だよ」


俺は俯いた。


「俺には、やっぱり何もないんだ」


しばらく、返事はなかった。


やがて父さんが近づいてきて、俺の頭を乱暴に撫でた。


「今日はここまでだ」


「……ごめん」


「何を謝ってる」


「だって、俺……」


「レイ」


父さんはしゃがみ、俺と目線を合わせた。


「俺は、お前に騎士になってほしいわけじゃない」


まっすぐに、俺を見つめていた。


大きな手が、俺の肩に置かれた。


「ただ、お前には、お前の人生を生きてほしいんだ」


その言葉の意味を、当時の俺はよく分かっていなかった。


ただ、胸の奥が熱くなった。


「……父さん」


「なんだ?」


「俺、またやってもいい?」


父さんは一瞬だけ目を丸くした。


それから、嬉しそうに笑った。


「もちろんだ」


そして、俺の木剣を拾い上げた。


「明日も付き合ってやる」


     *


次の日も、その次の日も、いじめはなくならなかった。


母さんは毎朝、俺を送り出してくれた。


父さんは帰宅すると、できるだけ俺と話をしてくれた。


何があったのか聞くこともあった。


何も聞かず、一緒に飯を食べるだけの日もあった。


俺は少しずつ、家では笑えるようになった。


学校や町では、なるべく目立たないようにした。


誰とも目を合わせない。


余計なことを言わない。


笑われても、聞こえないふりをする。


そうすれば、少しは楽だった。


それでも、ときどき考えてしまう。


本当に、俺は生きていていいのだろうか。


みんなが言うように、いない方がいい人間なんじゃないか。


そんな考えが浮かぶたび、母さんの言葉を思い出した。


あなたが生きていてくれるだけで、私は幸せなの。


父さんの言葉も思い出した。


お前には、お前の人生を生きてほしいんだ。


だから、俺は前向きに生きようと思った。


いつか、自分にできることを見つければいい。


いつか、みんなを見返せばいい。


父さんと母さんが信じてくれているのだから。


才能なんかなくたってきっと、何とかなる。


そう思っていた。


     *


夜が更けた頃、母さんが寝室に入ってきた。


「レイ、起きて」


「……なに?」


寝ぼけた頭では、何が起きているのか分からなかった。


母さんは答えず、俺の肩をつかんだ。


「起きて。お願い、早く」


その声が、いつもと違っていた。


俺はようやくベッドから降りた。裸足の裏に、床の冷たさが伝わる。焦げた匂いに混じった、今までに嗅いだことのない臭いが鼻を通った。


「母さん、なに?こんな夜中に...。うっ、なんだ、この臭い」


「静かに」


母さんは俺の口元に指を当てた。


その顔は、見たことがないほど強張っていた。


「いい? 大きな声を出しちゃ駄目。何があっても、母さんから離れないで」


「でも、何が――」


「お願い」


母さんの手が、俺の口をそっと塞いだ。


「今は、何も聞かないで」


その声が震えていた。


俺は、何も言えずにうなずいた。


母さんは俺の手を握り、ゆっくりと部屋の扉を開けた。


廊下には、異臭が漂っていた。


「うっ...」


吐きそうになるのを堪え、左手で鼻を摘んだ。


一歩、また一歩。


母さんは何度も足を止め、耳を澄ませた。俺の手を握る指には、痛いほど力がこもっていた。


嫌な予感がした。


廊下の先に、うっすらと何かが見えた。


「…………え?」


薄暗い廊下の先には、父さんと思わしき人物が横たわっていた。


片腕は逆方向に折れ曲がり、顔は血に濡れていた。


「……父さん?」


返事はなく、父さんの目線はただ薄暗い廊下を虚に覗くだけだった。


恐る恐る、一歩ずつ母親と共に近づく。


その時。


ゴロっと、何かが足にぶつかって転がった。




それは、先日、頭を撫でてくれた父さんの右手だった。




「うわぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」


「ダメ!!!!」


逃げるように走り出した直後、背中に、硬い何かがぶつかった。


一瞬、誰かに突き飛ばされたのかと思った。


身体が前につんのめる。踏みとどまろうとした足がもつれ、喉から空気が漏れた。


次の瞬間、背中の奥で、何かがぐちゃりと潰れる感覚がした。


「――ッ、あ?」


熱い。


背中の一点が、焼けるように熱かった。


何が起きたのか分からず、そこへ手を伸ばそうとした。


けれど、腕が動くより先に、痛みが全身を貫いた。


「ぎっ……あ、ああああッ!」


背中から腹の奥まで、太い杭をねじ込まれたような激痛が走った。


息を吸おうとしても、喉がひきつって空気が入らない。心臓が跳ね、視界が白く弾けた。


足から力が抜けた。


床に倒れ込む。肩を打った痛みなど、もう分からなかった。


「痛い、痛いッ! なに、これ……っ!」


背中を押さえた手が、ぬるりと滑った。


手のひらが赤かった。


指の間から、血が滴っていた。


「……え?」


何度見ても、赤かった。


俺の手だ。


俺の血だ。


「うそ……うそ、だ、ろ……?」


身体が震え始めた。傷口が脈打つたび、肉の内側を刃で掻き回されるような痛みが襲う。


息をすることさえ怖かった。少しでも身体を動かせば、この痛みがもっとひどくなる気がした。


「はっ....うぁっ....」


誰かに助けを求めようと顔を上げる。


そのとき、視界の端に黒い影が映った。


顔は見えなかった。


ただ、そいつが俺を刺したのだと分かった。


「がぁ....さ.....」


母さんに駆け寄ろうとしたが身体が動かなかった。腕を伸ばす。床を掻く。血で滑って、顔を打ちつけた。


直後、母さんは唐突に、俺の上に覆い被さるように崩れ落ちた。


その衝撃で、背中から全身にかけてさらに激痛が走った。


「あっ...!!がぁ....」


母さんの上から、鈍い音がした。


ぐちゃり、と何かが潰れるような音。


母さんの身体が、びくりと震えた。


「な…..に…..が?」


また、音がした。


ぐちゅり。


母さんの身体が揺れるたび、俺の全身に生温かいものが飛び散った。


何が起きているのか、分からなかった。


母さんは俺を庇っている。だから、早く逃げなきゃいけない。なのに、身体が動かない。


背中に、突然、焼けつくような痛みが走った。


「――ッ、がぁああッ!」


息が詰まった。母さんの身体越しに、何かが俺の背中へ食い込んでいる。


一度。


二度。


何度も。


そのたびに母さんの身体が揺れ、俺の身体の奥で何かが壊れていく。


「グッ......ガッ......」


喉から出たのは掠れた声だけだった。


やがて、音が止んだ。





そのとき、すぐそばで靴音がした。


「……祝福を受けなかったガキ、か」


男が、つまらなそうにつぶやいた。


「まったく、面倒なものを押しつけてやがって。」


一拍の沈黙。


「これで街の連中の望みは叶った」


男の足音が遠ざかっていく。





――街の連中。


頭の中に、街で俺を笑った奴らの顔が浮かんだ。


無能だと蔑み、いない方がいいと笑った奴ら。


すれ違うたび、汚いものでも見るような目を向けてきた奴ら。


あいつらが。


あいつらの望みが、これなのか。


「……あ、い……つ……ら……」


声を出そうとした。


けれど、喉から漏れたのは、空気の擦れるような音だけだった。


何度も刺されたせいか、喉はひりつき、息を吸うだけで激痛が走る。唇を動かしても、声にならない。無理に叫ぼうとすると、喉の奥がひきつり、血の味が込み上げた。


それでも、口を動かした。


「あ……い……つ……ら……が……」


掠れた息が、わずかに漏れた。


指先が床を掻く。力が入らず、爪が石床を滑った。


父さんを殺した。


母さんを刺した。


俺から、何もかも奪った。


それが、あいつらの望みだったというのか。


「……ころ……す……」


音になったのかどうかさえ分からなかった。


喉が震え、口の端から血がこぼれる。


それでも、やめなかった。


「……ぜっ、たい……」


息が途切れた。


目の前が暗くなる。身体の感覚が、少しずつ遠ざかっていく。


それでも、憎悪だけは消えなかった。


許さない。


絶対に。


このまま死んで、すべてが終わるなど認めない。



――その瞬間だった。


胸の奥で、何かが弾けた。


どくん、と心臓が大きく脈打つ。


身体の内側を、熱が駆け抜けた。


「……っ、あ?」


痛みが消えたわけではない。


なのに、途切れかけていた意識が強引に引き戻される。


肺が空気を求め、指先に力が戻った。


視界の隅に、見たこともない文字が浮かんだ。




《致死判定を確認》


《生存補正――発動》


《全能力値上昇》



「……なん....だ……?」


声が出た。


動かないはずの指が、床を掻いた。


「……動ける……声、が……」


身体を動かした瞬間、傷口から激痛が噴き上がった。息が詰まり、視界が明滅する。それでも、止まれなかった。


憎い。


許せない。


その感情だけが、死にかけた身体を無理やり動かしていた。


「……母さん?」


腕の中の母さんは、何も答えなかった。


「ねえ、母さん。聞こえる?」


頬に触れる。


温かい。


まだ温かいじゃないか。


「……よかった」


喉の奥から、引きつった笑いが漏れた。


「よかった……まだ、大丈夫だ……」


母さんは俺を庇ってくれたんだ。きっと、疲れて眠っているだけだ。いつもみたいに、俺を抱きしめてくれているだけなんだ。


そうに決まっている。


「……大丈夫だから」


誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。


俺は母さんの身体を抱き直した。


背中が裂けるように痛んだ。腹の奥が焼け、息をするたび血が込み上げる。それでも腕に力を込めた。


母さんは、まだ温かい。


だから、生きている。


生きているはずなんだ。


息をするたび背中に激痛が走り、目の前が暗くなっていく。それでも母さんを置いていくなんて、考えられなかった。


「もう少しだから……! 母さん、頑張って……!」


玄関を抜け、外へ転がり出る。


「……母さん、着いたよ」


返事がない。


背中から降ろし、顔を覗き込んだ。


「……え?」


母さんの首が不自然に傾き、半開きの口から血が垂れている。


服の下には深い傷があり、赤黒い血が地面に広がっていた。


近づいた途端、鼻を突く生臭さに喉が引きつった。


「うっ……!」


胃の中のものが込み上げた。


それでも目を逸らせなかった。


「母さん……?」


肩を揺すった。


ぐらり、と首が揺れた。


「ひっ……!」


思わず手を引っ込めた。


自分のしたことが怖くなった。


母さんを傷つけたくなんてないのに。痛い思いなんてさせたくないのに。


「ごめん、ごめんね……!」


震える手で、もう一度頬に触れた。


冷たくなり始めていた。


「起きてよぉ……! 母さん! ねえ、お願いだからぁッ!」


叫んでも、揺すっても、母さんは動かなかった。


「いやだあああああッ!!」


胃の奥がせり上がった。血の臭いに耐えきれず、地面に吐いた。涙で滲む視界の中、母さんの身体だけが、そこに横たわっていた。


「地獄だ……」


声が震えた。


燃え盛る家の中に、父さんの姿が浮かんだ。


父さんも、連れていかなきゃ。


俺は再び家へ這い戻ろうとした。


けれど、数歩も進めなかった。


視界の奥に、あの姿が蘇る。


床に広がる赤黒いもの。逆方向に折れた腕。そして、もう父さんとは思えなかった、あの顔。


胃がひっくり返りそうになった。


足が止まった。


「……ごめん、父さん」


助けに行かなきゃいけない。


分かっているのに、身体が動かなかった。


その時、轟音が炸裂した。


青白い雷撃が夜を裂き、紅蓮の炎が家を呑み込む。閃光と熱風の中で屋根が吹き飛び、壁が砕け、家は一瞬で崩れ落ちた。


俺は母さんを抱きしめたまま、震える顔を上げた。


父さんも。


母さんも。


もう、どこにもいない。


頭の中に、俺を笑った町人たちの顔が浮かんだ。


――あいつらだ。


あいつらが、父さんを殺した。


母さんを殺した。


俺をこんな目に遭わせた。


身体から力が抜けていく。もうすぐ死ぬ。子供の俺にも、それだけは分かった。


それでも、燃える家を睨みつけた。


「……俺が死んでも、終わりじゃない」


喉の奥から、血の混じった声を絞り出した。


「地獄の底から……お前らを呪い殺してやる」


視界が暗くなっていく。


「誰一人……逃がさない……」


母さんを抱く腕から、力が抜けた。


それでも最後まで、俺は燃え盛る家を睨み続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。