始まり
「はっ……はっ……! あ〜! 寝坊したぁ……っ」
少女は、息を切らしながら走る。
綾城光葉は、至って普通の高校生である。
なんでもないこの日、光葉は寝坊をしてしまって、遅刻しかけているのだ。
「あ、あと何分……? えーと……」
光葉が時間を見ようとスマホを探して視線を彷徨わせた時、視界の隅に小さな子どもが映った。
小学校低学年くらいの、小さな小さな子ども。
場所は光葉の少し先、横断歩道。
歩行者信号は青だが、止まる様子の無いトラックが迫ってきている。
光葉の足が、一瞬だけ止まった。
そして次の瞬間には、光葉は駆け出して、横断歩道に飛び出すと思い切り子どもを突き飛ばす。
学校に遅れる、とか、そもそも危ない、とか、そんな思考は過りもしなかった。
光葉は子どもを突き飛ばした体勢のまま、凄まじい勢いで暴走トラックが迫ってくる。
グシャ、と生々しい音がして――まだ未来があったはずの少女に、呆気のない幕切れが訪れた。
これが、心優しい平凡な少女、綾城光葉の終幕であり、異世界にて誕生する、ルピア・アルベリアの始まりである。
◇
「ハッ……ハッ……! ……は、ぁ……っ」
少女は、浅い息を吐く。
もう力の入らない手足はだらりと枷に預けられ、紫の瞳には既に光は無い。
薄暗い牢獄の中、少女アルテ・フォルツは、のろのろと顔を上げた。
無理矢理力を入れたせいで、爪を剥がれた指先がひどく痛む。
「……なにを、されても……わたし、師匠のことは……話さない。……師匠は……わたしの……ッぎぁ」
爪の無い指を抉られて、アルテは短く悲鳴を上げて身体を震わせる。
齢は十に達するかどうか辺りの、幼い身体。
拷問なんてあまりにも幼い子どもには大きすぎる負荷が、痛みが、アルテを襲う。
目の前には、憎悪で瞳をぎらつかせる何人かがいる。
「伝説と呼ばれ、何人もの命を奪ったあの暗殺者に……何の情がある。痛いのは嫌だろう? さっさと話せ」
「……少なく、とも……師匠は、あなたたちよりは、マシな人……――ぁ」
腹部が、急激に熱くなる。
刺されたナイフが、一気に引き抜かれて服が真っ赤に染まるのを見た。
熱くて、寒くて、頭が回らなくなっていく。
「……し、しょ……う、……たす……」
その言葉は最後まで言い切れず、アルテの身体はだらりと脱力した。
そして、意識が消えるその直前に、アルテは馴染みのある気配を感じたような気がしたが――それが死ぬ直前の都合のいい錯覚なのか、よくわからないまま、アルテは拷問の末、その短い生涯の幕を閉じた。
◇
ルピア・アルベリアは、目を覚ます。
そこは、いつものベッドのベッドの上だった。
「おはようございます、ルピアお嬢様。顔を洗わせていただきますね」
「……ん、んん〜……メイドさん……? わぷ……」
ルピアが寝惚けている間に、顔を洗われ、身支度をさせられ、ルピアはいつも通りの日常を過ごす。
アルベリア公爵令嬢、それが光葉が生まれ変わった後の身分だった。
ルピアは日常の最中、なんとなく中庭に散歩に出てみた。
良い天気で、程よく涼しい風も吹いていて、散歩日和な日だったから。
メイドとともに中庭を歩きながら、ルピアは微笑を湛えて花々を眺める。
「あっ、お嬢様、足元に石が……」
「――ひゃっ!?」
ルピアは躓き、地面に倒れる。
そして、当たりどころが悪かったのか、そのまま意識を失ってしまうのだった。
◇
アルテが目を覚ます。
視界は真っ暗で何も見えず、音や気配は感じ取れるものの、どこかぼやけていてはっきりしない。
『……ここは……どこ?』
アルテは困惑しながら、小さく誰にも届かない呟きを零した。




