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恋は苦し、

 ぼんやりと瞼を開いて、僕は大きな欠伸をこぼした。しょぼしょぼする目を手の甲でこすり、上半身だけ起き上がる。髪の毛はあっちこっちに跳ねて、半分まだ眠っているみたいにうとうととする。

 窓から朝日の光がカーテン越しに降り注ぐ。ベッドから窓の外へと視線をずらすと、雲が漂う青空が広がっているのが目に入った。

 また欠伸をしながら、星を掴むみたいに両腕を伸ばす。

 僕は瞼をほとんど閉じたまま、ふらふらとベッドから両足をつくと、立ち上がって、学校へ行く準備を始めた。鞄に教科書やノートを突っ込んで、机の上に置く。

 一通り準備を終えると、寝間着を脱いで服を着る。そして床下を開けて、梯子を伸ばし、二階へと降りていく。僕の部屋は屋根裏にあって、上り下りが不便ではあるけれど、秘密基地みたいでとても気に入っていた。


 二階の廊下にある洗面台の前に立つと、置きっぱなしの自分用歯ブラシとコップを手に持って、蛇口を回す。コップに水を入れて、歯ブラシには歯磨き粉をつけ、ゴシゴシと歯を磨く。適当なところで口をすすいでいたところに、廊下を歩く人気配がして、横目で一瞥する。

「おほよ~」と言ったのは眠たそうにしているグレアムだった。僕は頷いて挨拶を返す。

 彼は僕の後ろに立って、ぼーと順番を待っている。僕は手早く、顔を洗って、グレアムに洗面台を譲った。


 それから一階に下りると、台所から良い匂いが漂ってくる。僕は居間を通り抜けて台所へと入って行く。

「おはよう。アンドレア」

 フライパンで目玉焼きを三人分焼いているアンドレアに僕は声をかける。

「はよ。ちょっと待ってろ。すぐ出来るから」とアンドレア。

「皿、用意しようか?」

「おっ。助かるわ。そこのテーブルに並べてくれ」

「うん」

 僕は言われた通り食器棚から皿を取り出して三人分並べた。そして、アンドレアが目玉焼きに続いてベーコンを焼いている間に、レタスやトマトを千切って切って、サラダも用意する。

 それら朝食を居間のテーブルへと運んでいき、最後にアンドレアがパンを持って来れば、あとはグレアムを待つだけとなった。


 アンドレアが僕のマグカップにオレンジジュースを注いでくれている。そこに寝間着姿のままのグレアムがゆったりと現れた。彼は丸テーブルの指定席に座ると、何も言わずに食べ始めようとして、アンドレアに手を叩かれた。

「行儀悪いだろ。ほら、まずは祈りを捧げて」とアンドレアは口を酸っぱくしてグレアムに言う。

「いいじゃん別に」グレアムは頬を膨らませたが、渋々アンドレアに言われた通り、祈る仕草をする。

 アンドレアがいつものように神様への文言を唱えると、僕たちは朝食にありついた。

 半熟の目玉焼きの黄身をナイフで切ってトロリと出すと、ベーコンにたっぷり黄身をつけて口に運ぶ。もぐもぐとしっかり噛んで、千切ったパンを放り込む。

 隣に座るグレアムは、すするように目玉焼きやサラダやパンをどんどん食べていく。グレアムの汚い食べようを横目に見ていたアンドレアは深々とため息をついて、グレアムに声をかける。

「お前、口元にパンくずついてる」

 アンドレアは呆れた様子でグレアムの顔からパンくずを摘まんで、何の抵抗もなくそれを食べた。

 僕はパチクリとその光景を眺め、二人をそれぞれ見つめる。

 そして、数秒の間を置いて、

「なんだか、アンドレアってグレアムのお母さんみたい」

 と朗らかに言った。

 その僕の言葉にアンドレアは眉間を寄せて「はあ?」と不快そうに言う。

 一方、グレアムは一瞬きょとんとして、やがて白い歯を見せた。「あはははっ。面白いことを言うな。オルヴァ」

「俺はこんな出来の悪い息子はご免だね」とアンドレアは嫌そうに鼻を鳴らす。

「何を言ってる。こんな良い息子は他のどこにもいやしないだろう」キラリーンとグレアムが決め顔で言った。

「ほお~。じゃあお前の基準じゃ、一月(ひとつき)もロクに働かずに、グータラしてる奴が、良い息子というわけか」

 アンドレアは冷たい眼光をグレアムに向けた。グレアムは僕をピクニックに連れて行って以来、ずっとこの家に滞在していた。僕としては、とっても嬉しいけど、アンドレアはあんまりよろしく思っていないみたい。

「うむ! 自由とは素晴らしい!」

 誇らしげに胸を張るグレアムに、アンドレアは青筋を立てる。

 僕は怒り心頭のアンドレアと、暢気に笑っているグレアムを見つめ、あわあわと狼狽する。


 どうしよう、余計なこと言っちゃったかな。


 後ろめたい様子を一切に見せない男にアンドレアはブチッと神経が切れて、グレアムの脳天に拳骨を振りかざした。グレアムはタンコブの出来た頭上を押さえ涙目になる。

「ひどい。横暴だ」とグレアムが半泣きで呟く。

「自業自得だっつの。ったく、せめて家事くらい手伝えよ。食器の後片付けはお前の仕事だからな」

「えーめんどい。やだよ」

「あ゛あ゛? ただ飯食えるのは誰のお陰と思ってんだ?」

「うっ……」

 とグレアムは痛いところを突かれたのか視線を彷徨わせ、アンドレアの睨みに、しゅるしゅると体が縮んでいく。

 グレアムは俯いて「食器洗い、ありがたくやらせていただきます…」

「よろしい。んじゃ、あと玄関前の掃き掃除と、工房の雑巾がけもやっといてくれよ」

「ええっ! そこまでやるとは言ってない!」

「はあ?」

「……はい。分かりました。やりますよぉ」

 両肩を落とすグレアムに、僕は可笑しくなって口元を抑えてクスリと笑う。

「あっ、今笑ったな?」

 とグレアムは指差し、僕の頭を両拳でグリグリとした。

「痛いよ。痛いったら」と僕は笑いながら言う。

 グレアムは二カッと微笑んでさらに強く僕の頭をグリグリする。

 そんな僕らの様子はアンドレアは片眉上げつつも静かに見守って食事を再開した。



 僕はしばらくグレアムと楽しくおしゃべりして朝食を食べていたのだが、不意にアンドレアが思い出した様子で口を開いた。

「そうだった。しばらく空き家だった隣の家だけどさ」

 とアンドレアは自分の入れたコーヒーをすする。「新しく誰か引っ越してきたらしい」

「ふーん。誰が?」とグレアムが首を傾げる。

「まだよく分からん。けど、そのうち挨拶に来るだろ」

 アンドレアはそう言うと、立ち上がった。食器をグレアムの方に滑らせて「よろしくな」と意地悪く言い残す。

「うぃー」とグレアムは気が乗らなさそうに了承し、面倒くさいと呟いてため息をついた。



 朝食を終えて、僕は自分の部屋に戻って鞄を取る。学校に行こうと下におりようとして、その前に、ピタリと足を止めた。後ろを振り返り、机に引き出しに触れる。


 中から前にお花畑で拾った翼人の少女の白い羽を取り出す。


 僕はそれを朝日にかざして、キラキラ白く輝くそれを眺めた。あの日の彼女のことを思い出しながら、自然とため息が出る。


 あの日、あの子は歌をうたいながら、綺麗な花たちに、優しく微笑みかけていた。


 それはとても愛らしくて、目が離せなくて―――――…


 僕は彼女のことを思い出して、ドキドキする胸を押さえる。顔が熱くなって、けれど記憶がだんだんと朧げになっていることに気づいて、寂しくなった。


 あの子はいま、どうしてるだろう。前会った時みたいに笑っていたらいいな……


 グレアムみたいに竜使いだったら、彼女を探しに大空を飛んで行けるのに、と僕は眩しい窓の外の雲を見上げた。

 そして羽根をそっと引き出しにしまい、床下を開けた。


 一階では、グレアムが食器洗いをして、アンドレアは優雅に新聞を広げて読みふけっていた。アンドレアの口には煙草があって、白い煙を吐いて天井で霧散していく。

「いってきまーす」

 と僕は玄関先で大声をあげると、アンドレアとグレアムの「いってらっしゃい」が聞こえてきた。

 玄関の戸を開けて外に出ると、脇にある鉢植えの下から鍵を取り出す。その鍵で玄関の戸を閉めると、もとの場所に戻して、歩き出す。靴屋の店の入り口側にある通りに出て、背中の鞄を抱え直し、前を向いて、僕は足を止めた。

 いつもと変わらない通り道のはずのそこは、ただ一人だけの違和感があった。 


 シャッシャッと箒で外を掃く音が辺りに響き渡っている。僕の視線の先には、空き家であったはずの家の前を掃除している美しい人がいた。ウェーブしている黄金色の長い髪を垂れ流し、白磁のようなきめ細かい肌に、物憂げな青い瞳の、まるで妖精のように中性的な容貌だった。動きやすいからか男物の服の上にレースのエプロンを着ている。


 僕はあまりに綺麗な女の人にビックリして、瞼を数回またたく。


 あんな人見たことない……。僕は夢を見てるのかな。


 赤いほっぺたを抓ると、滅茶苦茶痛かった。僕はこれで夢じゃないことを確信し、そういえばと思い出す。


 アンドレアが隣に引っ越してきた人がいるって言ってたっけ。


 どうやらこの人が新しい隣人らしい。こんな美人さんなら、きっと近所でこの人のうわさ話でもちきりになる。今日の夕方には、近所にいるおばさんが彼女について調べつくしているに違いない。


 ――あれ…でもなんか


 僕は不意に首を傾げる。女性を見て、妙な既視感を覚えたからだった。前にもこの人を見たことがある気がする。でも、どこだろう。こんな綺麗な人を覚えていないなんてあり得るだろうか。

 そんなことを考えていたせいで、ついつい彼女をじっと観察しすぎたせいか、女性は僕の視線を感じ取り、顔を上げた。

 女性は僕と視線が合うと、蕩けるような微笑みを浮かべた。

 とたん、僕の顔はぶわっと赤面する。体が石化して、口が一文字に固く閉じてしまう。

 彼女は箒を持ったまま、僕に近づいてきて、ゆったりとしゃがんだ。

「ぼく、今から学校かな?」

 意外にも低い女性な声に僕は目を丸くする。なんだか、まるで若い男の人の声みたいだ。声だけ聞いたなら、青年と勘違いしてしまいそうなほどだ。けれど、声の低い女の人は世の中にはいっぱいいる。それにこの人は低い声でも色っぽくて、なんだか胸がむずむずした。


 僕は彼女の言葉に首を何度も縦に振って肯定する。そして、ぽーと女性に見惚れて、頭が真っ白になってしまう。

「お勉強がんばってくださいね」と彼女に言われ、僕はハッとする。

「は、はい! がんばります!」思わず緊張のあまり強い口調で言っていた。

 そんな挙動不審な僕を彼女は微笑ましそうに小首を傾げて頬を緩ませた。

 華やかな女性の笑みに、僕はますます顔を赤く染めて頭から湯気が出た。それですっかりカチンコチンになった僕は、慇懃に挨拶をして、両手両足を右左同じに前に出して歩き出していた。けれど、僕はそんなおかしな歩き方をしているなんて気がつかなかった。それ以上に、頭がパニックになって、早くその場から立ち去りたい気持ちに溢れていたからだ。


 それなのに、こういうときにかぎって、背後から僕を呼ぶ声がする。


「オルヴァ。忘れ物!」

 グレアムが手提げ袋を抱えて走ってくる。振り返ると、靴屋はまだ閉まっているため、裏の玄関から駆けてきたらしいグレアムが、手を振っている。

 僕は体操着を持っていき忘れていたことを思い出して、あっと口を大きく開けた。

 グレアムは僕と視線が交差すると、ニッと白い歯を見せて笑って、あとわずか数メートルにも関わらず、手提げ袋を投げるそぶりを見せた。僕は条件反射的に彼の投球に身構える。

 グレアムが腕を振り上げ、弓なりに袋を投げようとして、その途中、呆けた表情になった。彼の瞳には、美しい新しい隣人である女性の姿が映っている。グレアムは器用にも投げようとする最中に、彼女に目を奪われてしまったらしい。無理もないことだと納得はするが、グレアムはそのまま手を離すタイミングを間違えて、勢いよく僕の体操着の入った手提げ袋を地面に叩きつけてしまっていた。


 グレアムの足元で土煙が舞う。


 あまりな間抜けな展開に、僕はあんぐりと口を大きく開けてグレアムを見つける。

 グレアムは僕の手提げ袋を叩きつけたというのに、女性に目は釘づけで、僅かに後ずさった。彼の顔はみるみる紅潮して、瞼が大きく見開いていく。

 その様子は誰が見たって百パーセント彼の気持ちを言い当てることが出来そうだった。

 女性は慌てた様子でグレアムに近づいて、親切にも彼が投げつけた手提げ袋を拾い、土を払った。

「はい。どうぞ」

 と彼女は優しい微笑みを見せて、彼に渡す。僕が思うに、きっとこのときのグレアムには彼女の周りがピカピカに輝いて薔薇とか百合の花が咲き誇っているように見えたんじゃないかな。

 いつもベラベラ口を動かすグレアムは、手提げを拾ってもらったのに、お礼も言わずに、女性を凝視している。


「あの、私の顔になにか?」

 と彼女がグレアムに不思議そうに尋ねている。


 グレアムはこっちが恥ずかしくなるくらい何も出来ずに、体が氷にように固くなっている。僕は見てられなくて、グレアムの元に駆け付けた。

「持ってきてくれてありがとう。グレアム」

 僕は彼から手提げ袋を取って、彼の腕を引く。それでグレアムは放心状態から目覚めたらしく、後頭部をくしゃっとさせて、腰を低く顔を俯かせた。そんな弱気な態度のグレアムに僕はビックリした。だって、彼は初対面の人にでも明るく堂々と対応をする人だったからだ。

 グレアムがへなちょこに頼りなくなったからか、僕はなんだが冷静になって、背筋がピンと伸びた。


 僕がなんとかしなくちゃ……!


 綺麗な女性に気後れしていた僕はどこかに飛んでいき、しっかり者の僕が現れる。

「僕の体操着を拾ってくれてありがとうございました」

 と女性に頭を下げる。

「いいえ」彼女は僕のことを微笑ましげにニコリとする。

「あの、隣に引っ越してきた方ですよね。僕とグレアムは、こっちの靴屋に住んでるんです。これから隣同士よろしくお願いします」

 僕の言葉に彼女は驚いたそぶりを見せて、片耳に髪をかける。

「そうだったんですか。まだ引っ越してきたばかりで挨拶にも行けてなくて……。こちらこそよろしくお願いします」

 彼女は礼をして、中腰になる。

「私の名前はフィンリーと言います。貴方のお名前は?」

「オルヴァと言います」

「へぇ。かっこいい名前ですね」

 フィンリーさんに褒められて、僕は満面に笑みを浮かべた。


 不意にグレアムが気になって、見上げると、彼は恐ろしいほどに締まりのない顔で、未だにフィンリーさんを凝視していた。グレアムの目ん玉はハートマークになって、頬は紅潮している。

 フィンリーさんはグレアムの視線を向けて優しく「グレアムさんもよろしくお願いしますね」


 とたん、グレアムは両手で心臓を抑えて「はい!」と上官に命令された軍人さんみたいに返事をしたのだった。



 * * *




 教室は騒がしく、同級生たちがおしゃべりしたり、暴れ回ったりして過ごしている。僕は窓際の自分の席に座って、イスを反対に腰掛け、背もたれに腕を乗せて、後ろに席である友達のベルンに話しかけていた。

 ベルンは黒髪に緑の瞳の少年で、いつも難しい本を借りて読んでいる。今日も図書館で借りたらしい分厚い本を広げて、けれど僕の話で読書を中断していた。

「それで大変だったんだ。グレアムがずっとそこに突っ立ってるから、一回わざわざウチに連れ帰ったんだよ。おかげで遅刻するところだったんだから」

 深々と嘆息し、眉尻を落とす。

 ベルンは薄く笑って「あの人惚れっぽそうだものね。けど、そんな美人ならちょっと見てみたいかもしれないな」

「本当、凄い美人だよ。きっとベルンもビックリするよ」

 と僕らはにっこり笑いあった。

「そういえば、ウチも来るらしいね」

 ベルンは思い出した様子で言葉を紡ぐ。主語を取り払った言葉に、僕は首を傾げ、頭にクエスチョンマークを浮かべた。

「来るって?」と僕。

「転校生が。僕らと同い年だってさ」

「へぇ。どこで聞いたの?」

「先生たちが話してるのを聞いた」

 と言って、ベルンはニヤリと笑った。冷たい、人を食うような目だ。僕は背中がゾクリとした。

「転校生が女であるに一票」ベルンが足を組んで賭けをふっかけてくる。「賭けに勝った方が、帰りにお菓子をごちそうするということで、どお」

 お菓子、と言われ僕は喉元が上下に揺れる。なんて、甘美な賭け勝負だろう。常におやつに飢えている僕たち子供にとって少ないお小遣いで買うお菓子はパラダイスと同等なのだ。それを他人のおごりで食べられるだなんて、このチャンスを逃す手はない……!

 僕はキラリーンと目を光らせハードボイルドに「じゃあ転校生が男に一票」と告げた。


 けれど、このときすでに僕の敗北は決まっていた。後から聞けば、ベルンは性別もとっくに知っていて賭けをふっかけてきたと打ち明けたのだ。そんなのフェアじゃないぞ、と僕はベルンに怒ったが、彼はだまされる方が悪い、と舌を出して反省するそぶりを見せなかった。ときどきこういうことをするからベルンは(たち)が悪い。


 ちなみに僕がまんまとベルンの術中にハマり、お菓子を奢る羽目になるのは、この日から一週間後のことだった……。



 学校を終えて僕はまっすぐに家に帰ってくる。家に入る前にアンドレアの靴屋をこっそり除くと、お金持ちそうな中年の紳士が店内にいた。アンドレアは接客中らしい。アンドレアは自然な笑顔で、ソファーに座る紳士にひざまづいて靴を履かせている。

 紳士は不意にアンドレアの髪に触れ、前髪を持ち上げてスルリと放す。その仕草は艶めいていて僕は顔が赤くなった。けれど、顔をあげて紳士を見上げるアンドレアは涼しい様子だった。少しも動揺を見せない彼に紳士は肩を竦めて頬杖をついた。僕は普段無縁の色っぽさを感じ取り、よく分からないが頬が引きつる。


 ここで店を見るのをやめて、僕は家へと引っ込んだ。なんか大人の世界って大変なんだな、とアンドレアの職場を垣間見てどっと疲れがこみあげてきた。

 居間に入り、テーブルに鞄を乗せると、イスに座って、宿題をするため、ごそごそと鞄を探りノートを取り出した。今日は難しい計算の宿題だ。最悪なことに先生は多めに課題を出してきた。僕はため息をついて、机に向かう。

 そうしてカリカリとペンを走らせていたところに、ふらりとグレアムがやってきた。僕は彼に視線を向け、瞼を瞬かせた。今朝、元気いっぱいだったグレアムはぐったりとして顔に生気がなくなっている。


 もしかしてアンドレアにこき使われたのかな。


 朝のアンドレアとグレアムのやりとりを思い出して、一人納得する。

 グレアムは、はぁ…と深いため息をついて長椅子に仰向けになる。後頭部をクッションに埋めて、また嘆息する。何度もため息をついて、「あ~~」とか「う~~」とか呻いて、またため息をつく。


 僕は宿題を終わらせるためグレアムを無視して集中する。この問題すごく難しいな、全然計算が合わない。うーん、もう一回やり直しか、ええとこうしてこうして公式はこれであってるはずだよね。教科書を広げ、計算式を確認する。

 そんな中、またグレアムの嘆息が聞こえてくる。なんだが、さっきより大げさになっている気がするが、関わるのは面倒そうなので、放っておいた。今はグレアムよりも宿題だ。さっさと終わらせて遊びに行きたい。

 

「はぁ~~。落ち込むなぁ。落ち込んでるんだよなぁ~」

 とグレアムは大きな声をあげる。

 僕はその声に一瞬手を止めるが、これは声をかけた方が負けだと思い、関わりたくない一心で無視を決め込む。

 グレアムは頭をあげて視線を僕の方にじーと向ける。根気よく延々と眺められ、僕はだんだん集中力が切れていく。ペンを握る手が震え、眉間にシワをより、自分の心の弱さに悔しくなった。

「……どうしたの。グレアム」

 僕は仕方ないと、諦めてペンを止めて言った。

 グレアムは僕が反応してくれたのが嬉しいのか飼い主に尻尾を振る犬のように、涙を浮かべて両手を広げ、背後からガバリと抱きついてきた。

「オルヴァ! 俺はもう耐えられない。今度こそ運命だと思ったのに!」

 まるで悲劇のヒーローのようにシクシクと泣くグレアムの背中を僕はポンポンとする。

「何があったの?」と呆れ半分に尋ねると、グレアムは滝のように涙を流した顔を見せた。

「お前が学校に行っている間に、あの人がウチに挨拶に来たんだ」

「あの人って、今朝あった引っ越してきたフィンリーさんのこと?」

「おう。それでな……それでな……」

 グレアムはどんよりと顔を沈ませて言葉を溜める。「夫婦で挨拶に来てた……」


 ああ……。


 僕はなるほど、と頭を上下にした。フィンリーさんはありだけの美人だ。とっくに売却済みなのは、予想がつくことだ。それに女性一人が一軒家に越すなんて、そこそこ裕福でなくては難しい。

「仕方ないことだよ。大丈夫。グレアム。世の中には星の数ほど女の人がいるはずだから」

 優しく肩を叩いて彼に励ましの言葉を投げかける。

 グレアムは「お前は本当に良い子だな」と感動して、ぎゅうっと抱きついてくる。強く腕で締め付けてくるものだから、酸欠になりかけ、グレアムの背中をドンドンと叩いた。

 抱擁が緩んで、グレアムが僕の肩に額を乗せる。

「けどな、一番ショックだったのは……………」

 グレアムが耳元で衝撃の事実を告げる。


 彼の発言に僕は驚いて、「えええーーーー!」と町中に響き渡るくらい大声をあげた。





 夕飯どき、僕とグレアムとアンドレアは三人テーブルについて食事にありついていた。カチャカチャと食器とフォークやナイフが触れる音が響き、僕らの賑やかな会話が室内に轟いていた。

 今日の夕飯は僕とグレアムの二人で作ったが、アンドレアの絶品料理に比べれば劣っている。それでもまぁまぁな出来にそこそこ満足しつつ、食事を進めた。

「え? お前ら、お隣のフィンリーさんを女だと思ってたのか」

 アンドレアは可笑しそうに笑い声をあげる。

 馬鹿にするアンドレアに、グレアムは頬を膨らませて「だって、どう見たって男の人には見えなかった!」


 そうなのだ。今朝あった美人の女性だと思ったフィンリーさんは、なんと既婚者の"男"だったのだ。


「確かに男にしちゃ華奢だが、男物の服を着てたし、声を聞けば分かるじゃないか」

 アンドレアのもっともの意見に僕は恥ずかしくなった。まったくもってその通り。どうして僕は見たまんまに人を判断しなかったんだろう。間違って男装の麗人だと思うなんて、なんだか自信を無くす。

「俺だけのミューズが現れたと思ったのに~~」

 グレアムは涙を袖で拭う。

「はっ。普段の行いの悪いから、神様が天罰を下したんだろ。むしろ、これだけで済んで良かったじゃないか」

 アンドレアは憎ま口を叩いて、グレアムがぐぬぬと唸る。

「いい機会だし、傷心旅行と称して、運び屋の仕事を入れたらどうだ。(ドラゴン)だって退屈してるだろ。竜使いさん?」

「アンドレアはいつもそれだ。仕事、仕事、仕事。落ち込んでいるときくらい励ましてくれたっていいじゃないか」

 グレアムは口をとがらせて言う。

「そうだな。お前が居候から下宿人にレベルアップしたら考えなくもない」

 アンドレアは不敵な笑みを浮かべ、顔をツンとさせて鼻を鳴らす。


 我が家の絶対的王者に、グレアムは太刀打ち出来ず、ぐうの音も出なかった。



 その後、グレアムはポケットマネーで買ってきたお酒を浴びるように夜中まで飲んだらしい。僕は夕飯を食べたら眠たくなって、さっさと風呂に入ってベッドに入ったので、グレアムがどんな風に酔っぱらったかは知らない。


 深夜、僕が屋根裏部屋でスヤスヤと眠っている頃、闇に包まれ静まり返った居間に灯りを持ってアンドレアが現れた。居間の長椅子には、酒瓶を持ったまま、腹を出して眠っているグレアムがいる。

 アンドレアはやれやれと肩を竦ませ、酒瓶を拾ってテーブルに揃え、グレアムに居間にあったブランケットを掛ける。

「気持ちよさげに寝てら…」

 とアンドレアは呟き、しゃがんでグレアムを見つめた。

 愛おしそうに居候を眺めて、彼の頬を手の甲で擦るように撫でる。双眸を潤ませ、自然と頬がゆるんで、ふっと笑う。

 グレアムが規則正しく寝息を立てている。

「おやすみ」

 アンドレアは囁くような小声で言い、グレアムの体が冷えないようもう一度ブランケットを持ち上げて掛ける。灯りを持ってアンドレアは廊下に出ると、自分の寝室へと向かった。 



 とっぷりと夜も更けて、お月様がキラキラと優しく世界を照らす。きっとお月様は人々の喜びも悲しみも全部受け止めてくれているだろう。だって、月は皆のものだから。


 僕はベッドで寝返りをうって、布団を蹴落とした。まだまだ季節は肌寒い。眠っている僕は布団を取りに行けないまま、うずくまって、寝心地が悪くて唸りながら、シーツにシワと作った。

 今、窓の外のお月様は笑ってる。



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