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空から落ちてきた魔法使い

私の名前は森野七奈。


高校二年生だ。


真面目に授業を受けて、休日は兄ちゃんと遊んで、適当な大学に進学して――そんな人生を、なんとなく思い描いていた。


でも。


今日、空から人が落ちてきて、その全部がめちゃくちゃになった。


「掃除が終わるの遅かったのに、文化祭で使うものまで買いに来なきゃいけないなんて……。ああ、早く帰りたいなぁ」


文房具屋のおじさんがのんびり画用紙を取り出しているのを見ながら、私は心の中で小さく文句を言った。


「七奈ちゃん、今日はずいぶんたくさん買うねぇ」


「文化祭が近いので……」


「なるほどなるほど。はい、どうぞ」


「ありがとうございます、おじさん」


画用紙を受け取って店を出ると、空はもう少し暗くなっていた。


腕時計を見る。


17時30分。


「まずい……」


このままじゃ兄さまたちに心配されちゃう。


そう思うと、自然と足が速くなった。


「こっちの近道を使おうっと」


私は小さく呟いて、細い道へと曲がった。


昔、この道を兄さまと歩いたとき、


『足音は静かにな』


とよく言われたものだ。


道の脇には小さな稲荷神社がある。


鳥居にはたくさんの絵馬が吊るされていて、風に揺れるたびに、かすかな音を立てていた。


私は立ち止まって夜空を見上げた。


「せっかくだし、お参りしようかな」


そう言って目を閉じた瞬間――


頭上から鋭い風切り音が聞こえた。


飛行機じゃない。


電車でもない。


まるで何かが空気を引き裂いているみたいな音だった。


「危ない――!」


突然聞こえた叫び声に、私は目を開いた。


夜空から白い光が落ちてくる。


どんどん大きくなる。


そして次の瞬間――


ドォォォンッ!!


地面が激しく揺れた。


鳥居の近くにいたカラスたちが一斉に飛び立つ。


絵馬同士がぶつかり合い、カタカタと音を立てた。


土煙が目の前に押し寄せる。


「けほっ、けほっ!」


私は鼻を押さえて二歩後ろへ下がった。


……今の何?


流れ星?


飛行機事故?


宇宙人襲来?


煙が少しずつ晴れていく。


恐る恐る近づいてみると――


参道の石段に大きな穴が空いていた。


その真ん中で。


一人の少年が大の字になって転がっていた。


半分に折れた箒が地面に突き刺さっている。


ローブの裾は少し焦げていて、頭にはなぜか絵馬が引っかかっていた。


「だ、大丈夫ですか?」


私はしゃがみ込み、手を差し出した。


「あ、ありがとう」


少年は私の手を掴み、よろよろと立ち上がる。


黒っぽいローブ。


顔には少しだけ煤が付いている。


……待って。


今。


この人。


空から落ちてきたよね?


私と少年の目が合った。


辺りはしんと静まり返っている。


聞こえるのは風に揺れる絵馬の音だけ。


「逃げろーーーっ!」


体が勝手に動いた。


私は全力で走り出した。


だって!


空から落ちてきた!


黒いローブを着てる!


箒に乗ってた!


どう考えても怪しい!


こんな状況でその場に残る人なんて、


主人公か、


それともただの馬鹿だ。


そして私はただの普通の女子高生である。


少年は一瞬ぽかんとしたあと、慌てて叫んだ。


「待って!」


「私、何も見てませんからーーー!」


私は振り返りもせずに叫ぶ。


全力疾走しながら、頭の中ではアニメの知識が暴走していた。


もし邪悪な魔法使いに正体を知られたら――


第一段階。


目撃者を捕まえる。


第二段階。


地下牢に閉じ込める。


第三段階。


……知らない。


でも絶対ろくなことにならない!


そう考えた瞬間、私はさらにスピードを上げた。


「待ってーー! 本当に悪い人じゃないからーー!」


後ろから少年の声が聞こえる。


でも足を止める理由にはならなかった。


だって。


悪い人ほど、


『悪い人じゃない』って言うんだから。


商店街の明かりが見えた瞬間、私はようやく少しだけ安心した。


全力疾走のままスーパーへ飛び込み、入口の近くで息を整える。


胸がまだドキドキしていた。


しばらくしてから、おそるおそる外を覗く。


通りを歩いている人たちは、みんな普通の服を着ている。


ローブ姿の怪しい少年なんてどこにもいない。


「……まいた、よね?」


私はほっと息を吐いた。


腕時計を見る。


19時03分。


「わあああっ!」


今度は別の意味で顔が青くなった。


夕飯の時間、とっくに過ぎてる!



家に帰った頃には、すっかり夜になっていた。


「ただいまー……」


できるだけ小さな声で言いながら玄関の扉を閉める。


よし。


誰にも気付かれていない。


そう思った瞬間――


「おかえり」


リビングから兄さまが顔を出した。


「ひゃっ!?」


私はその場で背筋をぴんと伸ばした。


なんで聞こえたの!?


今めちゃくちゃ小声だったよね!?


「今日はどこで遊んでたんだ? こんな時間まで」


「え、えへへ……文房具屋さんで画用紙買ってて……文化祭の準備があるから……」


兄ちゃんは私の顔を見たあと、上から下までじっと眺めた。


私はつられて自分の制服を見る。


……あ。


まずい。


土だらけ。


兄ちゃんは何も言わず、私の頭に手を伸ばした。


そして髪の毛の中から葉っぱを一枚摘まみ取る。


「ずいぶん楽しそうだったな」


「遊んでません!」


思わず反論する。


兄ちゃんは少しだけ笑った。


「はいはい。早く手を洗っておいで」


「はーい」


私は逃げるように洗面所へ向かった。


鏡を見る。


髪は乱れているし、制服も汚れている。


頬も少し青白かった。


「……あの人、本当に追いかけて来ないよね」


そう呟いてから首を振る。


考えるのはやめよう。


今日はもう寝よう。


そう決めた。


……その時は。



夜。


お風呂を済ませ、自分の部屋へ戻る。


机に向かってみたものの、教科書の内容はまったく頭に入らない。


目を閉じる。


すると、あの光景がまた浮かんできた。


黒いローブ。


折れた箒。


空から落ちてきた少年。


「……魔法使い、か」


思わず口に出す。


静かな部屋の中で、その言葉だけが妙に現実感を持って響いた。


私は慌てて首を振る。


「ないない。そんなわけないって」


そう言い聞かせてベッドへ潜り込む。


腕の中には兄ちゃんからもらった『うさぎさん』。


怖い夜はこの子を抱いて寝る。


小さい頃からの習慣だった。


「明日には忘れてるよね……」


そう呟いた時だった。


コン。


窓が鳴った。


私は布団を少しだけ引き上げる。


気のせいだ。


きっと風。


コン、コン。


今度はもっとはっきり聞こえた。


「……枝?」


でも、うちの庭に二階まで届く木なんてない。


私はゆっくり起き上がる。


カーテンの前まで歩く。


そして。


恐る恐る開いた。


――固まった。


いた。


いたいたいた。


昼間のあの少年だ。


窓の外に浮いている。


箒の上に片足で立ちながら、杖を持っている。


私を見るなり、ほっとした顔をした。


「よかった。見つかった」


私は二秒ほど沈黙した。


それから。


静かに窓を閉めようとした。


しかし。


少年の方が速かった。


「待って!」


ひゅっと部屋の中へ飛び込んでくる。


「兄ち――!」


「サイレント」


杖が光った。


私は全力で叫ぶ。


なのに。


聞こえない。


何も。


「あれ?」


もう一度。


聞こえない。


三回目。


やっぱり聞こえない。


……終わった。


私、声を失った。


人生終了かもしれない。


後ずさった拍子に本棚へぶつかる。


背中が少し痛い。


けれど今はそんなことを気にしている場合じゃない。


「だ、大丈夫!?」


少年が近づいてくる。


私は反射的に部屋の隅へ逃げた。


うさぎさんを抱き締める。


テレビで見たことがある。


知らない男の人が女の子の部屋に入る話。


そのあと大体ろくなことにならない。


「ち、違うから!」


少年は慌てて杖を隠した。


「僕、本当に悪い人じゃないから!」


私は全力で首を横に振る。


説得力ゼロだった。


少年は困った顔をしてから、もう一度杖を振った。


「解除」


その瞬間。


「兄ちゃんーーー!!」


声が戻った。


私は全力で叫ぶ。


しかし少年は顔面蒼白になって飛び込んできた。


「待って待って待って!」


口を塞がれる。


その時。


コンコン。


部屋のドアが鳴った。


二人とも凍り付く。


「七奈。スイカ切ったぞ」


兄ちゃんだ。


私は少年を見る。


少年は私を見る。


ものすごい勢いで首を横に振っていた。


泣きそうな顔で。


私はため息を吐いた。


「……兄ちゃん。今日はちょっと体調悪いので」


「そうか」


ドアの向こうで兄ちゃんが答える。


「無理するなよ」


「うん」


少しの沈黙。


それから。


「何かあったら呼べ」


足音が遠ざかっていった。


部屋の中では。


少年が床にへたり込んでいた。


まるで世界の終わりを回避した人みたいに。


兄ちゃんの足音が完全に聞こえなくなった頃。


目の前の少年はようやく大きく息を吐いた。


そのまま床に座り込み、力が抜けたみたいに肩を落とす。


……そんなに怖かったの?


私は首を傾げながら、彼が持っていた杖を拾い上げた。


そして先端でつんつんと突いてみる。


「それで?」


「え?」


「自己紹介とかしないの?」


少年ははっとした顔になる。


慌てて立ち上がり、胸を張った。


「ぼ、僕は伝説に語られる偉大にして神秘の――」


「邪悪な魔法使い?」


「違う!!」


ものすごい勢いで否定された。


「魔法使い! 普通の魔法使い!」


「邪悪じゃないの?」


「だから違うって!」


「でも神社壊したよね」


「事故だったんだよ!」


少年は顔を真っ赤にする。


私は思わず吹き出した。


さっきまで怖かったのに。


こうして見ていると、なんだか少しだけ面白い。


「それにしても」


私は杖をくるくる回しながら尋ねる。


「魔法使いって、普通の人には見つからないんじゃないの?」


「うっ」


少年の肩がぴくりと震えた。


嫌な予感がする。


「その反応は何?」


「えっと……」


「何?」


「その……」


「何?」


「ぼ、僕、一年生なんだ」


沈黙。


「だから?」


「まだあまり上手じゃなくて……」


再び沈黙。


私はゆっくりと彼を見る。


昼間。


神社に墜落。


夜。


不法侵入。


さっき。


静音魔法。


そして今。


「……もしかして」


「うん」


「魔法、あんまり使えない?」


「うん……」


私は吹き出した。


思い切り。


我慢できないくらい。


「ご、ごめん!」


笑いながら謝る。


少年は耳まで真っ赤になっていた。


「笑わなくてもいいじゃないか……」


「だって!」


私は笑いをこらえながら言う。


「魔法使いなのに魔法苦手って!」


「苦手じゃない!」


「でも神社に落ちた」


「それは飛行実習で!」


「記憶も消せない」


「それは専門外で!」


「静音魔法しか成功してない」


「うぐっ」


完全にとどめだったらしい。


少年はその場にしゃがみ込んだ。


なんだろう。


この人、本当に大丈夫なのかな。



しばらくして。


ようやく少年が立ち直った。


「と、とにかく」


彼は真面目な顔で言った。


「七奈さんは魔法の存在を知ってしまった」


「うん」


「本来なら記憶を消さなきゃいけない」


「うん」


「でも僕にはできない」


「うん」


「だから主任のところへ連れて行く」


「うん」


「そこで処理してもらう」


「処理って言い方怖くない?」


思わず突っ込む。


少年は慌てて手を振った。


「違う違う! そういう意味じゃなくて!」


「じゃあどういう意味?」


「記憶を消すだけ!」


「それも十分怖いよ」


私は小さくため息を吐いた。


少年は困ったように頭を掻く。


その様子を見ていると、なんだか怒る気もなくなってくる。


私は改めて彼を見る。


魔法使い。


だけど不器用。


ちょっと間抜け。


緊張するとすぐ顔に出る。


危険そうには見えない。


……少なくとも今は。


「分かった」


私は立ち上がった。


少年の顔がぱっと明るくなる。


「本当!?」


「でも条件」


「条件?」


「明日の朝までに帰ること」


私は指を一本立てた。


「朝ご飯には間に合わせたいから」


少年は目を丸くする。


そして真剣な顔で頷いた。


「約束する」


その声だけは妙に頼もしかった。


少年は窓辺へ向かう。


杖を掲げる。


「フロート!」


すると壊れていた箒がふわりと浮き上がった。


私は思わず拍手する。


「おおー」


「今のは成功した」


少し誇らしげだった。


それくらいで嬉しいんだ。


私はちょっとだけ面白くなった。


少年が窓枠に腰掛ける。


その時だった。


「……何してるの?」


振り返った彼が尋ねる。


私は机に向かっていた。


便箋を広げている。


「手紙」


「手紙?」


「もし朝までに帰れなかった時のため」


少年の顔が引きつる。


私は気にせずペンを走らせた。


まず最初に書く。


『兄ちゃんへ』


じっと見つめる。


……。


なんか遺書みたい。


却下。


二重線。


新しい紙を出す。


『兄ちゃん。もし明日の朝、私がいなかったら――』


……。


もっと駄目だ。


絶対警察呼ばれる。


却下。


再び二重線。


少年が青ざめていた。


「そんなに危険な場所じゃないからね!?」


「本当?」


「本当!」


「信用できない」


即答だった。


「ひどい!」


少年は傷付いた顔をした。


でも仕方ないと思う。


だってこの人。


初対面の日に神社へ墜落してきたんだから。


出発する前に、私はうさぎさんを抱き上げた。


兄ちゃんが昔くれた、大切なぬいぐるみだ。


『夜が怖いときは抱いて寝なさい。きっと守ってくれるから』


そう言って渡してくれたことを覚えている。

私はぎゅっと胸に抱きしめた。


今夜の私は、少しだけ怖い。


だから――


うさぎさん。

お願いね。


兄ちゃんへ


もしこの手紙を読んでいるなら、私はまだ帰っていないんだと思います。


でも、まず最初に言っておきます。


心配しないでください。


……と言いたいところですが、たぶん兄さまはもう心配している気がします。


今日、変なことがありました。


すごく変で、たぶん話しても信じてもらえないようなことです。


だから詳しくは帰ってから話します。


もし帰れたら。


あ、でも変な人について行ったわけじゃありません。


たぶん。


きっと。


おそらく。


……少しだけ自信がなくなってきました。


でも大丈夫です。


うさぎさんも連れてきています。


だからきっと平気です。


それから。


いつもありがとうございます。


お弁当も。


一緒に出かけてくれることも。


帰る場所を作ってくれていることも。


ちゃんと感謝しています。


普段は少し恥ずかしいので言いませんが。


もし朝までに帰れたら、この手紙は捨ててください。


読んだことも忘れてください。


すごく恥ずかしいので。


それでは。


行ってきます。


森野七奈

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