表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

悪役令嬢が消えた部屋から、毎晩「愛している」が聞こえる

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/29

イレーヌが消えたのは、断罪された翌朝だった。


 離宮の一室には、内側から鍵が掛かっていた。


 窓も閉じられていた。暖炉には火がなく、煙突には大人が通れるほどの隙間もない。


 それでも、室内にイレーヌの姿はなかった。


 乱れた寝台。

 水の残った洗面器。

 昨夜運ばれたまま、手をつけられていない食事。


 そして枕の中央に、婚約指輪が1つ置かれていた。


 血はなかった。

 争った跡もなかった。


 ただ、扉の前に立った侍女は、部屋へ入る前から泣いていた。


「昨夜、何か聞いたのか」


 衛兵隊長に問われ、侍女は何度もうなずいた。


「はい」


「何を聞いた」


 侍女は閉ざされた部屋を見た。


「殿下のお声が」


 王太子レギウスが離宮へ呼ばれたのは、昼を過ぎてからだった。


 イレーヌが消えたと聞いても、彼は驚かなかった。


「逃げたのだろう」


 そう言って、枕の上の指輪を見た。


「公爵家の者が手引きしたに違いない」


「部屋は内側から施錠されておりました」


「合鍵を使ったあと、細工をしたのではないか」


「窓にも、暖炉にも、人が出入りした痕跡はございません」


「ならば、隠し通路だ」


 衛兵隊長は答えなかった。


 離宮は王家の所有物である。

 建物の図面は、すでに調べられていた。

 隠し通路など存在しない。


 レギウスは指輪を拾い上げた。


 イレーヌが10年前から身につけていたものだった。


 彼が彼女の指へはめた指輪。


 婚約を正式に告げた日のことを、レギウスはほとんど覚えていなかった。


 ただ、大勢の貴族が見守るなかで、何か言った気はする。


 生涯守るとか。

 君だけを愛するとか。


 婚約者へ告げる言葉など、誰でも似たようなものだ。


「捜索を続けろ」


 指輪を机へ置き、レギウスは部屋を出た。



 その夜。


 離宮を警備していた衛兵2人が、同時に声を聞いた。


『君だけを愛している』


 閉ざされた部屋の中からだった。


 若い男の声だった。


 低く、穏やかで、よく通る声。


 衛兵の1人は、すぐにレギウスの声だと気づいた。


 王太子の声を知らぬ者は、王宮にはほとんどいない。


『生涯、君を守ろう』


 衛兵たちは扉を開けた。

 中には誰もいなかった。


 蝋燭にも火はついていない。

 月明かりの中に、乱れた寝台だけが浮かんでいる。


『何があっても、君を捨てない』


 今度は、寝台のそばから聞こえた。


 衛兵の1人が剣を抜いた。

 もう1人が、震える手で燭台に火をつけた。


 寝台の下。

 衣装棚の中。

 厚いカーテンの裏。


 誰もいなかった。


『イレーヌ』


 その声が名を呼んだ。


『君を愛している』


 衛兵たちは、部屋から逃げ出した。



 翌朝、離宮は封鎖された。


 魔術師が呼ばれた。

 神官が呼ばれた。


 床板を剥がし、壁を叩き、天井裏まで調べた。

 魔道具も、呪具も見つからなかった。


 神官は聖水を撒き、祈祷を行った。

 何も起きなかった。


「亡霊ではないのか」


 レギウスが尋ねると、老神官は困ったように眉を寄せた。


「亡霊であれば、残留する死者の気配がございます」


「イレーヌは死んでいないということか」


「少なくとも、この部屋で亡くなった形跡はございません」


「ならば、あの声は何だ」


「それは分かりません」


 レギウスは苛立った。


「役に立たぬな」


 老神官は頭を下げた。


 その夜も、声は聞こえた。


『君だけを愛している』


『生涯、君を守ろう』


『何があっても、君を捨てない』


 同じ言葉。

 同じ順番。

 同じ声。


 ただし、2日目には音が1つ増えていた。


 衣擦れの音だった。


 誰かが立ち上がり、誰かの前へ歩み寄る。


 女が小さく息を呑む音。


 男の手が、女の手を取る。


 そのあとに、細い金属が擦れる音がした。


 指輪をはめた音だと、侍女が言った。



 3日目には、口づけの音が増えた。


 触れる直前、女が小さく息を止める音まで聞こえた。



 4日目には、女の笑う声が増えた。


 まだ何ひとつ疑っていなかった頃の、明るい笑い声だった。



 5日目には、女の泣く声が増えた。


 声を上げて泣くのではなく、誰にも聞かれまいと息を殺していた。


 毎晩、音は最初から始まった。


『君だけを愛している』


 衣擦れ。


『生涯、君を守ろう』


 足音。


『何があっても、君を捨てない』


 指輪。


『イレーヌ』


 口づけ。


『君を愛している』


 笑い声。


 そのあと、長い沈黙。


 そして、すすり泣き。


 最後に、扉が閉まる音がした。


 重い木の扉が、ゆっくりと閉じる。


 錠の下りる音。


 誰かが廊下を遠ざかっていく足音。


 部屋に残された女の呼吸だけが、朝まで続いた。



 6日目の朝。


「くだらない」


 報告を聞いたレギウスは、書類から顔も上げなかった。


「あれは昔のことだ」


 執務室にいた者たちは、誰も返事をしなかった。


「聞いているのか」


 側近が、かすれた声で答えた。


「はい、殿下」


「婚約していたのだから、愛を告げることもある。婚約を破棄した以上、昔の言葉に意味はない」


 そのとき。


 誰も触れていない窓が、かた、と鳴った。

 閉ざされた窓の向こうから、女の声がした。


『昔なら、なかったことになるのですか』


 レギウスが立ち上がった。


「誰だ」


 側近たちは窓から離れた。


『昔なら、なかったことになるのですか』


「イレーヌか」


 返事はなかった。


 窓を開けても、誰もいない。


 執務室は王宮の4階にあった。

 外には足場も、張り出した屋根もない。

 ただ、石壁を冷たい風が撫でていた。


 その日、声は離宮だけのものではなくなった。


 朝食の席で、銀の食器から聞こえた。


『君だけを愛している』


 謁見中、玉座の背後から聞こえた。


『生涯、君を守ろう』


 馬車の中では、座席の下から聞こえた。


『何があっても、君を捨てない』


 レギウスが聖女の手を取ったときには、2人の重なった手の間から聞こえた。


『それは、わたくしにくださった言葉です』


 聖女は悲鳴を上げ、手を引いた。


「違う」


 レギウスは誰もいない空間へ言った。


「お前との婚約は破棄された」


『婚約を破棄すれば、愛も終わるのですか』


「そうだ」


『では、断罪の場で、わたくしを愛していないとおっしゃいましたか』


「告げただろう」


『わたくしを愛していないと?』


 レギウスは口を閉ざした。


 断罪の場で、彼が告げたのは罪状だけだった。


 聖女を害したこと。

 王太子妃にふさわしくないこと。

 婚約を破棄し、離宮へ幽閉すること。


 愛していないとは、言わなかった。


 言う必要などないと思っていた。


『おっしゃっておりませんね』


「黙れ」


『では、まだ愛してくださっているのですね』


「黙れ!」


『君だけを愛している』


 今度は、レギウス自身の口から聞こえた。


 彼は何も話していなかった。


 それでも唇の奥で、自分の声が響いた。


『生涯、君を守ろう』


 喉を押さえた。


『何があっても、君を捨てない』


 耳を塞いだ。


『イレーヌ』


 音は頭蓋の内側から聞こえた。


 レギウスは眠れなくなった。


 眠りに落ちると、指輪をはめる音で目が覚めた。


 食事をすれば、咀嚼音に女のすすり泣きが混じった。


 水を飲めば、杯の底から声がした。


『愛しています』


 鏡を見ると、自分の背後で衣擦れがした。


 振り返っても、誰もいない。


 だが鏡の中では、レギウスの背後に誰かが立っていた。


 顔は見えない。


 長い髪だけが、彼の肩越しに垂れている。


 レギウスが鏡を割ると、砕けたすべての破片から声がした。


『君だけを』


『君だけを』


『君だけを』


『君だけを』


 神官たちは再び祈祷を行った。

 今度は王宮全体に聖水を撒き、鐘を鳴らし、悪しきものへ退去を命じた。


 祈祷が終わると、老神官はレギウスへ尋ねた。


「殿下」


「何だ」


「聞こえている言葉は、すべて殿下がおっしゃったものですか」


「それがどうした」


「ご自身の意思で?」


「当然だ。婚約者だったのだから」


「偽りでしたか」


 レギウスは答えなかった。


「そのときは、本当に愛しておられたのですか」


「昔のことだ」


「お答えください」


「愛していた」


 老神官は目を伏せた。


「ならば、我らには祓えません」


「なぜだ」


「偽りでも、呪いでもないからです」


「では、あれは何だ」


 老神官はしばらく黙っていた。


「殿下のお言葉です」


「言葉が人を追うものか」


「私には分かりません」


「止めろ」


「できません」


「神殿の威信を懸けて止めろ!」


 その叫びに重なるように、どこからともなく女が笑った。


 かつてレギウスの隣で、幸福そうに笑っていた声だった。



 7日目の夜。


 レギウスは1人で離宮へ向かった。


 護衛は連れなかった。


 自分の声を、これ以上ほかの者に聞かれたくなかったからだった。


 廊下の両側に並ぶ燭台は、彼が通るたびに火を失った。


 1つ。


 また1つ。


 背後から順に暗くなる。


 イレーヌが消えた部屋の前で、レギウスは立ち止まった。


 扉の向こうから、何も聞こえない。


 毎夜続いていた声も、衣擦れも、泣き声もない。


 レギウスは鍵を開けた。


 捜索のために剥がされた床板は戻され、動かされた家具も元の位置へ置かれていた。


 乱れた寝台。

 水の残った洗面器。

 干からびた食事。


 机の上には、婚約指輪が1つ。


 イレーヌが消えた朝から、その部屋だけは時間を進めながら、何も終わらせていなかった。


 レギウスは部屋の中央へ進んだ。


「イレーヌ」


 返事はない。


「いるのだろう」


 風もないのに、カーテンが揺れた。


「出てこい」


 沈黙。


「何が望みだ」


 遠くで、何かが擦れた。


「謝罪か。名誉の回復か。公爵家への補償か」


 寝台の下で、かすかに布が鳴った。


 レギウスは息を止めた。


「答えろ」


 女の声はしなかった。


 代わりに、彼自身の声が部屋の四方から聞こえた。


『君だけを愛している』


「やめろ」


『生涯、君を守ろう』


「やめろ」


『何があっても、君を捨てない』


「やめろ!」


 衣擦れ。


 足音。


 指輪をはめる音。


 口づけ。


 女の笑い声。


 すすり泣き。


 扉が閉まる。


 錠が下りる。


 足音が遠ざかる。


 そして、すべてが最初から繰り返された。


『君だけを愛している』


「分かった!」


 レギウスは叫んだ。


「分かった、イレーヌ!」


 音が止まった。


 部屋の中に、レギウスの荒い呼吸だけが残った。


「私が悪かった」


 返事はない。


「お前を愛している」


 洗面器の水面に、小さな波紋が広がった。


「今も愛している。これでよいのだろう」


 どこかで、女が息を吸った。


「だから、もう終わりにしてくれ」


 蝋燭の火が消えた。


 闇の中で、寝台の下から声がした。


『今、もう一度お約束くださいましたね』


 レギウスは動けなかった。


 女の声は、穏やかだった。


 怒っても、泣いてもいなかった。


『レギウス様』


 寝台の下で、何かが這う音がした。


『今も、わたくしを愛してくださるのですね』


「違う」


『何が違うのですか』


「あれは、お前を止めるために」


『愛していると、おっしゃいました』


「違う」


『今も、と』


「違う!」


 暗闇の中で、指輪が床を転がった。


 からん。


 からん。


 レギウスの靴先に触れ、止まる。


『これで、元どおりです』


 その夜、離宮からレギウスが戻ることはなかった。



 翌朝。


 衛兵たちが扉を破ると、部屋には誰もいなかった。


 内側から鍵が掛かっていた。

 窓も閉じていた。


 暖炉には火がなく、煙突には大人が通れるほどの隙間もない。


 血はなかった。

 争った跡もなかった。


 ただ、枕の中央に婚約指輪が2つ並んでいた。


 その夜から、誰もいない離宮で男女の声が聞こえるようになった。


『君だけを愛している』


『ええ』


『生涯、君を守ろう』


『ええ』


『何があっても、君を捨てない』


『ええ。いつまでも』


 離宮は封鎖された。


 扉は石で塞がれた。

 廊下へ続く通路も埋められた。


 それでも、声は止まらなかった。


 最初は壁の向こうから。

 次は廊下の床下から。

 その次は、王宮へ続く中庭から。


 毎晩、男女の声は少しずつ近づいてきた。



 そしてある夜。


 新しい王太子が、婚約者の令嬢へ愛を誓った。


「君だけを愛している」


 その瞬間。


 玉座の下から、女の声がした。


『それは、どなたにくださった言葉ですか』








 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 愛の言葉は、言った側にとっては、過ぎた日の言葉でも、受け取った側にとっては、たった1度、自分へ渡されたものかもしれません。


 今回は、忘れられた約束ではなく、忘れたことにされた言葉が戻ってくる話でした。


 イレーヌがどこへ消えたのか。


 あの声が本当にイレーヌなのか。


 それとも、レギウスの言葉だけが残ったのか。


 そのあたりは、決めずに終わらせています。

 言葉は姿を持ちません。


 だからこそ、どこにでも入り込み、耳を塞いでも追いかけてくるのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ホラーでもあり神隠しでもある。 さて、イレーヌはどこへ行かれたのでしょうか。 “強い想い”や“思い出”は時に物や建物にも宿ります。(私自身はそんな不思議体験はしたことがありませんけど) きっとなる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ