悪役令嬢が消えた部屋から、毎晩「愛している」が聞こえる
イレーヌが消えたのは、断罪された翌朝だった。
離宮の一室には、内側から鍵が掛かっていた。
窓も閉じられていた。暖炉には火がなく、煙突には大人が通れるほどの隙間もない。
それでも、室内にイレーヌの姿はなかった。
乱れた寝台。
水の残った洗面器。
昨夜運ばれたまま、手をつけられていない食事。
そして枕の中央に、婚約指輪が1つ置かれていた。
血はなかった。
争った跡もなかった。
ただ、扉の前に立った侍女は、部屋へ入る前から泣いていた。
「昨夜、何か聞いたのか」
衛兵隊長に問われ、侍女は何度もうなずいた。
「はい」
「何を聞いた」
侍女は閉ざされた部屋を見た。
「殿下のお声が」
王太子レギウスが離宮へ呼ばれたのは、昼を過ぎてからだった。
イレーヌが消えたと聞いても、彼は驚かなかった。
「逃げたのだろう」
そう言って、枕の上の指輪を見た。
「公爵家の者が手引きしたに違いない」
「部屋は内側から施錠されておりました」
「合鍵を使ったあと、細工をしたのではないか」
「窓にも、暖炉にも、人が出入りした痕跡はございません」
「ならば、隠し通路だ」
衛兵隊長は答えなかった。
離宮は王家の所有物である。
建物の図面は、すでに調べられていた。
隠し通路など存在しない。
レギウスは指輪を拾い上げた。
イレーヌが10年前から身につけていたものだった。
彼が彼女の指へはめた指輪。
婚約を正式に告げた日のことを、レギウスはほとんど覚えていなかった。
ただ、大勢の貴族が見守るなかで、何か言った気はする。
生涯守るとか。
君だけを愛するとか。
婚約者へ告げる言葉など、誰でも似たようなものだ。
「捜索を続けろ」
指輪を机へ置き、レギウスは部屋を出た。
その夜。
離宮を警備していた衛兵2人が、同時に声を聞いた。
『君だけを愛している』
閉ざされた部屋の中からだった。
若い男の声だった。
低く、穏やかで、よく通る声。
衛兵の1人は、すぐにレギウスの声だと気づいた。
王太子の声を知らぬ者は、王宮にはほとんどいない。
『生涯、君を守ろう』
衛兵たちは扉を開けた。
中には誰もいなかった。
蝋燭にも火はついていない。
月明かりの中に、乱れた寝台だけが浮かんでいる。
『何があっても、君を捨てない』
今度は、寝台のそばから聞こえた。
衛兵の1人が剣を抜いた。
もう1人が、震える手で燭台に火をつけた。
寝台の下。
衣装棚の中。
厚いカーテンの裏。
誰もいなかった。
『イレーヌ』
その声が名を呼んだ。
『君を愛している』
衛兵たちは、部屋から逃げ出した。
翌朝、離宮は封鎖された。
魔術師が呼ばれた。
神官が呼ばれた。
床板を剥がし、壁を叩き、天井裏まで調べた。
魔道具も、呪具も見つからなかった。
神官は聖水を撒き、祈祷を行った。
何も起きなかった。
「亡霊ではないのか」
レギウスが尋ねると、老神官は困ったように眉を寄せた。
「亡霊であれば、残留する死者の気配がございます」
「イレーヌは死んでいないということか」
「少なくとも、この部屋で亡くなった形跡はございません」
「ならば、あの声は何だ」
「それは分かりません」
レギウスは苛立った。
「役に立たぬな」
老神官は頭を下げた。
その夜も、声は聞こえた。
『君だけを愛している』
『生涯、君を守ろう』
『何があっても、君を捨てない』
同じ言葉。
同じ順番。
同じ声。
ただし、2日目には音が1つ増えていた。
衣擦れの音だった。
誰かが立ち上がり、誰かの前へ歩み寄る。
女が小さく息を呑む音。
男の手が、女の手を取る。
そのあとに、細い金属が擦れる音がした。
指輪をはめた音だと、侍女が言った。
3日目には、口づけの音が増えた。
触れる直前、女が小さく息を止める音まで聞こえた。
4日目には、女の笑う声が増えた。
まだ何ひとつ疑っていなかった頃の、明るい笑い声だった。
5日目には、女の泣く声が増えた。
声を上げて泣くのではなく、誰にも聞かれまいと息を殺していた。
毎晩、音は最初から始まった。
『君だけを愛している』
衣擦れ。
『生涯、君を守ろう』
足音。
『何があっても、君を捨てない』
指輪。
『イレーヌ』
口づけ。
『君を愛している』
笑い声。
そのあと、長い沈黙。
そして、すすり泣き。
最後に、扉が閉まる音がした。
重い木の扉が、ゆっくりと閉じる。
錠の下りる音。
誰かが廊下を遠ざかっていく足音。
部屋に残された女の呼吸だけが、朝まで続いた。
6日目の朝。
「くだらない」
報告を聞いたレギウスは、書類から顔も上げなかった。
「あれは昔のことだ」
執務室にいた者たちは、誰も返事をしなかった。
「聞いているのか」
側近が、かすれた声で答えた。
「はい、殿下」
「婚約していたのだから、愛を告げることもある。婚約を破棄した以上、昔の言葉に意味はない」
そのとき。
誰も触れていない窓が、かた、と鳴った。
閉ざされた窓の向こうから、女の声がした。
『昔なら、なかったことになるのですか』
レギウスが立ち上がった。
「誰だ」
側近たちは窓から離れた。
『昔なら、なかったことになるのですか』
「イレーヌか」
返事はなかった。
窓を開けても、誰もいない。
執務室は王宮の4階にあった。
外には足場も、張り出した屋根もない。
ただ、石壁を冷たい風が撫でていた。
その日、声は離宮だけのものではなくなった。
朝食の席で、銀の食器から聞こえた。
『君だけを愛している』
謁見中、玉座の背後から聞こえた。
『生涯、君を守ろう』
馬車の中では、座席の下から聞こえた。
『何があっても、君を捨てない』
レギウスが聖女の手を取ったときには、2人の重なった手の間から聞こえた。
『それは、わたくしにくださった言葉です』
聖女は悲鳴を上げ、手を引いた。
「違う」
レギウスは誰もいない空間へ言った。
「お前との婚約は破棄された」
『婚約を破棄すれば、愛も終わるのですか』
「そうだ」
『では、断罪の場で、わたくしを愛していないとおっしゃいましたか』
「告げただろう」
『わたくしを愛していないと?』
レギウスは口を閉ざした。
断罪の場で、彼が告げたのは罪状だけだった。
聖女を害したこと。
王太子妃にふさわしくないこと。
婚約を破棄し、離宮へ幽閉すること。
愛していないとは、言わなかった。
言う必要などないと思っていた。
『おっしゃっておりませんね』
「黙れ」
『では、まだ愛してくださっているのですね』
「黙れ!」
『君だけを愛している』
今度は、レギウス自身の口から聞こえた。
彼は何も話していなかった。
それでも唇の奥で、自分の声が響いた。
『生涯、君を守ろう』
喉を押さえた。
『何があっても、君を捨てない』
耳を塞いだ。
『イレーヌ』
音は頭蓋の内側から聞こえた。
レギウスは眠れなくなった。
眠りに落ちると、指輪をはめる音で目が覚めた。
食事をすれば、咀嚼音に女のすすり泣きが混じった。
水を飲めば、杯の底から声がした。
『愛しています』
鏡を見ると、自分の背後で衣擦れがした。
振り返っても、誰もいない。
だが鏡の中では、レギウスの背後に誰かが立っていた。
顔は見えない。
長い髪だけが、彼の肩越しに垂れている。
レギウスが鏡を割ると、砕けたすべての破片から声がした。
『君だけを』
『君だけを』
『君だけを』
『君だけを』
神官たちは再び祈祷を行った。
今度は王宮全体に聖水を撒き、鐘を鳴らし、悪しきものへ退去を命じた。
祈祷が終わると、老神官はレギウスへ尋ねた。
「殿下」
「何だ」
「聞こえている言葉は、すべて殿下がおっしゃったものですか」
「それがどうした」
「ご自身の意思で?」
「当然だ。婚約者だったのだから」
「偽りでしたか」
レギウスは答えなかった。
「そのときは、本当に愛しておられたのですか」
「昔のことだ」
「お答えください」
「愛していた」
老神官は目を伏せた。
「ならば、我らには祓えません」
「なぜだ」
「偽りでも、呪いでもないからです」
「では、あれは何だ」
老神官はしばらく黙っていた。
「殿下のお言葉です」
「言葉が人を追うものか」
「私には分かりません」
「止めろ」
「できません」
「神殿の威信を懸けて止めろ!」
その叫びに重なるように、どこからともなく女が笑った。
かつてレギウスの隣で、幸福そうに笑っていた声だった。
7日目の夜。
レギウスは1人で離宮へ向かった。
護衛は連れなかった。
自分の声を、これ以上ほかの者に聞かれたくなかったからだった。
廊下の両側に並ぶ燭台は、彼が通るたびに火を失った。
1つ。
また1つ。
背後から順に暗くなる。
イレーヌが消えた部屋の前で、レギウスは立ち止まった。
扉の向こうから、何も聞こえない。
毎夜続いていた声も、衣擦れも、泣き声もない。
レギウスは鍵を開けた。
捜索のために剥がされた床板は戻され、動かされた家具も元の位置へ置かれていた。
乱れた寝台。
水の残った洗面器。
干からびた食事。
机の上には、婚約指輪が1つ。
イレーヌが消えた朝から、その部屋だけは時間を進めながら、何も終わらせていなかった。
レギウスは部屋の中央へ進んだ。
「イレーヌ」
返事はない。
「いるのだろう」
風もないのに、カーテンが揺れた。
「出てこい」
沈黙。
「何が望みだ」
遠くで、何かが擦れた。
「謝罪か。名誉の回復か。公爵家への補償か」
寝台の下で、かすかに布が鳴った。
レギウスは息を止めた。
「答えろ」
女の声はしなかった。
代わりに、彼自身の声が部屋の四方から聞こえた。
『君だけを愛している』
「やめろ」
『生涯、君を守ろう』
「やめろ」
『何があっても、君を捨てない』
「やめろ!」
衣擦れ。
足音。
指輪をはめる音。
口づけ。
女の笑い声。
すすり泣き。
扉が閉まる。
錠が下りる。
足音が遠ざかる。
そして、すべてが最初から繰り返された。
『君だけを愛している』
「分かった!」
レギウスは叫んだ。
「分かった、イレーヌ!」
音が止まった。
部屋の中に、レギウスの荒い呼吸だけが残った。
「私が悪かった」
返事はない。
「お前を愛している」
洗面器の水面に、小さな波紋が広がった。
「今も愛している。これでよいのだろう」
どこかで、女が息を吸った。
「だから、もう終わりにしてくれ」
蝋燭の火が消えた。
闇の中で、寝台の下から声がした。
『今、もう一度お約束くださいましたね』
レギウスは動けなかった。
女の声は、穏やかだった。
怒っても、泣いてもいなかった。
『レギウス様』
寝台の下で、何かが這う音がした。
『今も、わたくしを愛してくださるのですね』
「違う」
『何が違うのですか』
「あれは、お前を止めるために」
『愛していると、おっしゃいました』
「違う」
『今も、と』
「違う!」
暗闇の中で、指輪が床を転がった。
からん。
からん。
レギウスの靴先に触れ、止まる。
『これで、元どおりです』
その夜、離宮からレギウスが戻ることはなかった。
翌朝。
衛兵たちが扉を破ると、部屋には誰もいなかった。
内側から鍵が掛かっていた。
窓も閉じていた。
暖炉には火がなく、煙突には大人が通れるほどの隙間もない。
血はなかった。
争った跡もなかった。
ただ、枕の中央に婚約指輪が2つ並んでいた。
その夜から、誰もいない離宮で男女の声が聞こえるようになった。
『君だけを愛している』
『ええ』
『生涯、君を守ろう』
『ええ』
『何があっても、君を捨てない』
『ええ。いつまでも』
離宮は封鎖された。
扉は石で塞がれた。
廊下へ続く通路も埋められた。
それでも、声は止まらなかった。
最初は壁の向こうから。
次は廊下の床下から。
その次は、王宮へ続く中庭から。
毎晩、男女の声は少しずつ近づいてきた。
そしてある夜。
新しい王太子が、婚約者の令嬢へ愛を誓った。
「君だけを愛している」
その瞬間。
玉座の下から、女の声がした。
『それは、どなたにくださった言葉ですか』
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
愛の言葉は、言った側にとっては、過ぎた日の言葉でも、受け取った側にとっては、たった1度、自分へ渡されたものかもしれません。
今回は、忘れられた約束ではなく、忘れたことにされた言葉が戻ってくる話でした。
イレーヌがどこへ消えたのか。
あの声が本当にイレーヌなのか。
それとも、レギウスの言葉だけが残ったのか。
そのあたりは、決めずに終わらせています。
言葉は姿を持ちません。
だからこそ、どこにでも入り込み、耳を塞いでも追いかけてくるのかもしれません。




