朱色の沈黙
数時間後。
国立スタジアムには、
不気味なほどの静寂が戻っていた。
警備員も、警察も、誰もここには来なかった。
そこにあるのは、
無数に踏み荒らされた足跡と、
かつてそこに「何か」があったことを示す、
夥しい量の朱色の染みだけだ。
有馬蓮という人間は、物理的に「消滅」した。
彼の肉体の一片一片は、
興奮した数万人の群衆によって、
世界中に持ち去られた。
明日になれば、
彼らはその石を持っていたことさえ忘れ、
あるいは「あんなペテン師がいたね」と
笑いながら、新しい流行に飛びつくだろう。
スタジアムのセンター。
誰もいなくなったその場所に、
折れた二本の柱が立っていた。
それはクチナシの村の入り口に
あったものと同じ、冠木のない鳥居。
コトシロが、暗闇の中から現れた。
彼は、地面に一欠片だけ残っていた、
蓮の「右目の瞳孔」だった
朱色の石を拾い上げた。
「……いい色です。
今回の『器』は、実に多くの汚れを
吸い込んでくれました」
コトシロは懐から刷毛を取り出すと、
その石をすり潰して作った塗料で、
鳥居の傷ついた部分を丁寧に塗り直した。
朱色の塗料が、蓮の命の灯火のように、
闇の中で鈍く光る。
「日本という国は、
こうして美しさを保つのですよ。
……さて、次は誰を『神様』にしましょうか」
コトシロが微笑み、パチンと指を鳴らす。
その瞬間、
スタジアムの巨大なモニターが一瞬だけ明滅し、
新しい「オーディション番組」の広告が、
かつての蓮と同じような眩い笑顔を映し出した。
翌朝、
ニュースでは
「国立スタジアムでの集団ヒステリー事故」が
報じられた。
有馬蓮の名は、歴史の教科書にも、
ネットのアーカイブにも残らなかった。
ただ、どこかの山奥にある地図にない村の、
朱色の鳥居だけが、
また少しだけその鮮やかさを増していた___。
最終章【完】
都会の片隅。
一人の少女が、声を失ったまま、
白鷺色の鳥居の幻影に向かって歩いていく。
彼女の手には、小さな、しかし暖かな、
一片の「石」が握られていた。
それが、有馬蓮という男が、
この世界に「人間」として存在した、
最後の、そして唯一の証だったー。




