父と娘 2
マネージャーから渡された台本をテーブルの上に置き、栗原猛はソファに身体を預けた。
次の役柄は天才詐欺師。思わず笑いがこみあげてくる。
「人をだますのも、操るのも簡単だ」
台本の中の台詞だった。まるで冗談のように思えてくる。
夏川静香が生きて警察に逮捕されたのは誤算と言えば誤算だった。だが、まあいいだろう。彼女にはまるで何もわからないことだ。
不安をあおり、憎悪を抱かせ、情報を与え、きっかけを与える……それだけで簡単に人は犯罪を犯す。人は人を殺すのだ。
二十三年前もそうだった。
テレビで子供を虐待し殺してしまった親のニュースが話題になっていた。これは使えると思った。
木の枝で、背中や腕に傷跡をつけるのには苦労した。同情させることで静香の元々あった憎しみを増幅させることができた。犯罪に正当性を感じさせ、きっかけを与えたのだ。
あの夜の快感は忘れられない。
自分の思い通りに静香が殺人を犯した。人を心理的に誘導し、犯罪を起こさせた初めての出来事であった。
清水正雄という飛び入りの役者もいい働きをしてくれた。物語がぐっと面白くなった。
入れ替わりをしたのは、単なる思い付きである。静香の完全犯罪を成立させ、自分がより悲劇的になるような演出だった。
それからはそれが面白くて仕方なかった。
犯罪を犯しているという気持ちはまるでなかった。ゲームだった。次はだれを殺そうかと言う趣味のようなものだった。
笑える。なんて、人は単純にできているのかと思う。そんなことを表に出さないで、品行方正な人間のふりを演じている自分のこともおかしくてたまらない。
廊下に足音がした。
もう深夜一時を過ぎていたが、栗原ゆずはまだ起きているようだった。夏休みだし、夜更かししているのだろう。
「お兄ちゃん、お帰り……どうしたの? なんか機嫌いいみたいだけど」
「ただいま……ちょっといいことあってね」
笑顔までは隠しきれなかったが、穏やかな笑顔にはなっていたと思う。
「ちょっと相談があって……仕事休みのとき、二人でどこか旅行でも行きたいんだけど……どうかな?」
猛は意外に思っていた。
そういう子供らしい甘えた表情はあまり見たことがなかったからだった。最近は特に距離を感じていたし、それが猛にとっても楽だったのだが……。
「ゆずがそういうこと言うの珍しいな。そうだな……どこ行きたい?」
「じゃあ、考えとくね」
ゆずは嬉しそうに部屋を出て行った。
面倒だなと猛は思った。
そろそろ兄妹ごっこも終わりにしたほうがいいかもしれない。
どうやって殺そうかと考えた。
ストーカー殺人なんてのはどうだろう? ストーカー役は若い男より中年のほうがいいかもしれない。それなら誘拐して強姦の末、殺されるというシナリオのほうが世間の注目を浴びて面白い。
次回は妹を悲惨な事件で失った兄役。俳優業も飽きてきたから、そのショックで引退するのもいいかもしれないとも考えていた。
「それはともかくとして、今日は祝杯でもあげるか」
猛はコンビニへ行くために、ソファを立ち上がった。
ビールと焼き鳥を買った帰り道、月の出ていない空は星で輝いていた。
住宅街の道路に人の姿はなく、静かな夜だった。
路地を曲がるところで、走る足音が聞こえてきた。こんな時間にジョギングでもしているのかと思う。
街路灯に照らされたその人物は、派手なトレーニングスパッツとタンクトップといったいでたちの女性であった。後ろに縛った長い髪が左右に揺れている。
こんな時間にご苦労なことだと猛は思った。
すれ違いざま、彼女の髪が首筋に当たったような感触を受けて、振り向いた。身体の線がはっきりとわかる魅力的な姿のその女性はどんどん遠ざかっていく。
その姿が傾きはじめた。あれと思っているうちに、膝に力が入らず、自分の身体が傾いていることに気付く。
ぼやけ始めた視界が最後に見たのは、首のあたりを触ったはずの赤く濡れた自分の右手だった。




