悪魔の子 2
「松島水族館行き」と書かれた名鉄バスに乗り込むと、クーラーの風を感じてほっとする。雨模様の天気が続く中の晴日は、もうすっかり夏の気温と湿気だった。
席に着いた岡本奈美は、手に持っていたフェイスタオルでもう一度額の汗を拭きとって、母から譲り受けたショルダーバッグの中に押し込んだ。
電車を二回乗り換えて、このバスに乗る。中学時代から何度か通った道程だ。だが、目的地は違う。「知多市民病院前」で降りなければならない。
バスの中は空席が目立つほどすいていてほっとした。電車の中では座ることができなかったし、同じ県内で地図上では割と近いのだけれども、湾をぐるっと回らなくてはならず、電車移動は結構時間がかかる。
後ろでまとめた長い髪を一度緩めて、まとめ直した。水色のワンピース、青色のイルカと黄色のヒマワリ柄がかわいいお気に入り。見舞いの紙袋には和凧をモチーフにした地元の最中が入っている。確か、甘いものは好きだったはずだ。健一ほどではないだろうけど。
奈美は胸に手を置いて息を吸った。ダンス部の大会や地元の公演など、緊張する場面で行う仕草だった。こうすると、少し落ち着く。
面と向かって会うのは母が再婚する前のことだから、もう十年近くなると思う。仕事先の水族館に何度か通ったのだが、遠くから見ているだけだった。
「顔を見ても自分の娘だとはわからないよね……」
奈美はバッグの中からビデオカメラを取り出した。当時としては最新のハンディーカメラだった。今の父が自分たちの成長用にと買ったものだが、新しく買い替えたために譲り受けたのだ。
消音にして再生する。
イルカショーの映像が流れる。去年の夏休みに奈美が撮ったものだ。
中央のMCのお姉さんが笑顔で身振り手振り。その横で笑顔の固い人物にカメラはズームしていく。奈美の血縁上の父、清水正雄だ。
奈美はぷっと吹き出した。この場面を見るといつも笑ってしまう。
その後、父の表情は真剣なものへと変わり、イルカに指示を送り続ける。働く父親の姿を見ながら、奈美は幼い頃を思い出していた。
桜の花びらが風に舞っていた時期、父に連れられて松島水族館に来ていた。
ペンギンを見つけて走り出そうとした奈美の腕を強く握り、「駄目だよ。危ないから、走らない」と笑顔で叱ってくれた。
暑いくらいの日だったと思う。屋外にいるペンギンのプールの前で奈美は父に聞いた。
「ペンギンさん、暑くないの? 」
「大丈夫だよ。このペンギンは暖かいところにいるペンギンだからね。南極……氷の上にいるペンギンは皇帝ペンギンと言って、違う種類のペンギンなんだ」
「こうてい?」
「そう、皇帝ペンギン。大きくて強いペンギンだな」
「ふ~ん」
父はしゃがんで奈美の目線のすぐ隣に顔を持ってきた。
「皇帝ペンギンは世界一過酷な子育てをするって有名な鳥なんだ」
「ペンギンって鳥なの?」
「ははあ、そっか、まずはそこからだな。ペンギンはお空は飛べないけど、鳥の仲間なんだよ。よく見てごらん。小さいけど手が翼みたいになっているだろう?」
奈美はペンギンを観察してみた。確かに、翼の小さい鳥に見えなくもない。
「うん」
「ペンギンは大昔、空を飛ぶことよりも海の中を泳ぐことを選んだ鳥なんだ。大空よりも大海原に魅力を感じたんだろうね」
「ふ~ん……私は空を飛びたいな」
奈美は両手を広げ、飛ぶような格好で父のまわりをまわり始めた。
父は笑ってそれを眺めていたが、ぽつりと呟くように言ったのだった。
「お父さんはペンギンがいいかな」
『知多市民病院前、知多市民病院前』
バスのアナウンスにハッとした奈美は、慌てて停車ボタンを押して「降ります、降ります」と叫びながら、立ち上がった。
バスを降りると立派な建物と広大な駐車場があった。
門の前のマップを見ると、本館の建物以外にも老人介護施設や保育所、看護学生寮などが敷地内に併設されている。
こんな大きな病院ならと少しほっとした奈美だったが、同時に緊張が増してくる。
「お母さんに付いて来てもらえばよかった……この際、健一でも……」
奈美は胸に手を置いて深呼吸する。
母が再婚して、今の家に越してきたのは奈美が小学二年の頃、今の父の連れ子だった健一は一つ下だった。
小さい頃はいつもいっしょにいたと思う。健一の方が奈美の後についてくる感じだったし、越してきたばかりのころは他に友達もなかなかできなかったからだった。
だが、いつのころからか奈美を避けるようになってきた。当然地元の高校に通うものだと思っていたのだが、あろうことか東京の高校で寮住まい。この春から家にいないのだ。
「まったくもう、あの馬鹿……」
東京で一人の弟を心配して定期的にメールを送っているのだが、返事が返ってきたためしがない。薄情な弟のことを思い出して、だんだん腹が立ってきた奈美だった。
「もういい。あんな馬鹿のことは一旦忘れよう」
奈美は大股で本館窓口へと向かったのだった。