悪魔の子 3
「さて、そろそろ帰ろっかな」
静香の言葉に、「ああ」とだけ答えた清水は、病室の入り口に人影を感じて目を向けた。
開け離れたままになっていたその場所に、信じられない人物がいる。
「え? もしかして……奈美ちゃん?」
先に声を出したのは静香のほうだった。
「ええ? ああ、イルカのお姉さんですよね。どうして、私の事知ってるんですか?」
「だって、それは……」と静香が清水の方を見る。
清水は持っていた週刊誌を閉じた。
少しの沈黙が流れた後、やっと絞り出すような声で「なぜ、ここにいる?」と言う。
「お母さんからお父さんの病気のこと聞いて、お見舞いに……」
奈美が清水のベッドの横に来ると、静香は今まで自分が座っていた椅子を奈美に差し出すようなしぐさをする。奈美は静香に頭を下げ、そこに座った。
「まったく……言うなと言ったのに……」
「だって、お父さん、ガンだって聞いたよ。大丈夫なの?」
「お父さんなんて呼ぶな!」
吐き捨てるような清水の言葉に、奈美が一瞬たじろいだのが分かった。
「ちょっと、正雄さん、そんな言い方……」
静香が割り込もうとしたのも構わずに、話し出す。
「もう、僕はお前のお父さんじゃない。今のお父さんがお前のお父さんだ」
奈美を傷つけているのは分かっていた。だが、ここで突き放してやらないと、もっと悲しい思いをさせてしまうことになる。父親が死ぬのではない。赤の他人が死ぬことにするんだ。
「帰りなさい」という言葉を最後に、清水は読みもしない週刊誌を再び広げ、目を背けたのだった。
奈美が立ち上がる気配を感じる。すすり泣くような声とそれを手で拭うような気配を感じる。
早歩きで廊下に出ていく足音が聞こえたのを確認してから、清水はそちらに顔を向けた。
もう、後ろ姿さえ見えなくなっていた。
「馬鹿じゃないの……」
静まり返った病室で、呟くような静香の言葉が聞こえた。清水は静かに目を閉じる。
「バッカじゃないのって言ってるの!」
静香は清水の手にあった週刊誌を奪い取り、床の叩きつけながら叫んだ。
同じ病室の患者の視線が集まる。
廊下から看護師数人が駆けつけてきた。
「おい、どうした?」
静香の行動に清水は戸惑っていた。こんな感情的になる彼女を見たことがなかったからだ。
「どうしたもこうしたもないわよ。何かっこつけてんの。突き放した方が彼女のためだとか思ってるんでしょ。勝手に分かったようなつもりになって、全然わかってないじゃない」
どうしたらいいかわからず、とにかく彼女をなだめようと手を取ろうとする。だが、彼女はその手を払った。目には涙を浮かべながら。
一人の年配の看護師が「どうしました?」と彼女に寄り添うように訪ねてきた。
だが、静香の興奮状態はなおも続く。
「あなたはいつもそう。いえ、男はいつだってそうだ。女の事、全然わかってない。あいつは死ぬまで私のことを『愛してる』と言わなかった。この恨みが一生続くのよ。こんな不幸ってある? ただ一言でいい。『愛してる。お前のおかげで幸せだった』その言葉さえあれば、例えその男がいなくなったとしても幸せでいられる。明日に向かって歩き出せるの。なんでこんな簡単なこともわからないの」
清水は頭を殴られるような感じがしていた。静香がそんな風に思っていたことが衝撃だった。
「どこへ行く?」
看護師を振り切り廊下に出て行こうとする静香に向かって、清水は慌てて声を掛けた。
「奈美ちゃんを追いかける。あの子をこのまま帰すわけにはいかないから……」
静香は振り返りもせずにそう告げると、そのまま出て行ってしまった。
清水は混乱した頭で考えていた。
家族もいない。仕事も後輩たちに任せられるし、やりたいことも特にない。自分ひとり死んだところでどうということはない。死を受け入れていたし、簡単に考えていた。
静香のことも奈美のことも、もう終わったこととして考えていた。過去のことのように思っていたのだ。だが、彼女たちはまだ現在を生きている。そのことに気付かなかった。
「僕はまだ、死ぬまでにやらなければいけないことがあるのかもしれない……」
清水は顔を手で覆った。
駆けつけていた看護師が踵を返し遠ざかっていく足音とともに、静かすぎた病室の緊張が解け、日常に戻りつつあるのを感じていた。と、同時に、自分のところに近づいてくる人の気配を感じて、清水は顔を上げる。
そこには地味な半そでのシャツをだらしなく着崩し、ボサボサの頭を掻きながら苦笑いをする三〇代くらいの男の姿があった。
「いやあ、お取込み中だったようで、入りずらかったです」
男は勧められてもいないパイプ椅子に勝手に座り、肩に掛けていたリュックを床に下ろした。
「病院の中は快適ですね。外はすごい暑さですよ。一気に夏が来たって感じです」
親し気に話す男の顔を見る。記憶の中を探ってみるが、思いあたる人物は浮かばない。
「あの……どなたですか?」
「清水正雄さんですね。私はこういうものです」
差し出された名刺には「フリーライター 立石茂則」とある。
「フリーライター?」
「ええ。最近はノンフィクション作家という肩書もできたんですけどね」
「そのノンフィクション作家さんが、僕に何か?」
立石は緩んだ顔を引き締め、清水に顔を近づけると小声で話した。
「入院中失礼かと思ったのですが、どうしてもあなたのお話が聞きたくて東京から参りました。二三年前の『旧亀沢村殺人事件』のことです」
清水は息をのんで、立石の顔を見た。
「ここではなんですから、病院側と交渉してどこか部屋を借りてお話ししましょう」
清水の了解も得ずに、立石は席を立って行った。
「ちょっと、立石さん」
清水の声は届かなかった。




