旧亀沢村殺人事件 3
夏休みに入ったことで、松島水族館の来場客も増えていた。青空がより遠くにあるように感じる夏の午後、離れた場所から聞こえてくるセミの大合唱が館内の雰囲気を盛り上げる。
イルカショーの客席もほぼ満員。
観客の歓声や拍手が巻き起こる空間のなかにいて、岡本奈美だけが複雑な顔で舞台の夏川静香を見ていた。
普段と変わらない笑顔と進行具合が、かえって奈美の心を苦しめていた。
隣に父の姿はない。代わりに若いトレーナーがイルカに指示をだしている。
父が失踪してから随分日にちがたった。富田タケルが襲われたというニュースがないところをみると、父が殺人のために失踪したのではないかという健一の推理が外れていたことになる。
奈美は気が気でなかった。父が人を殺すかもしれないと思うことが恐怖だった。
だからといって、安心できることなどない。
犯罪になるようなことをしないのなら、なぜ姿を隠す必要があるのだろうか? 病気の身体で無理してまで、どこでなにをしようとしているのか? 鶴舞のビジネスホテル爆発事件や知多市民病院殺人事件との関係は?
頼りの健一もまだ東京から帰ってこない。奈美の心は、不安で押しつぶされそうであった。
いつのまにかショーが終わっていた。
ざわついていた会場が少しづつおとなしくなっていく。奈美は人の波に入る気になれなくて、一人席に座ったままでいた。
「奈美君、大丈夫かい?」
声を掛けられ顔を上げると、神崎刑事が心配そうな顔で立っていた。
「刑事さん? どうしたんですか?」
「夏川さんに会いに来たんだけど、君の姿を見かけたから……やっぱり心配だよね、お父さんの事」
「どうですか? なにかわかりました?」
奈美の言葉に神崎は首を横に振った。
「富田タケルが犯人でないという証拠がまたひとつ見つかったくらいだ」
「どういうことです?」
神崎は少しためらっているようだった。少し間を置いた後、奈美の隣に座る。
「健一君の推理によれば、富田の元事務所社長の殺害も彼が関わっているかもしれないということだったが、それはなかった。別件で逮捕された男が自分がやったと供述し始めているらしいと、警視庁からの情報だ。健一君の推理を聞いたときは、事件解決につながると思ったんだが、甘かった」
「それは……ごめんなさい」
「いやいや、奈美君が謝ることではないよ。健一君にも気にしないように言っておいて。富田が真犯人ではないとわかったことだって事件解決にむけての貴重な材料なんだから……そういえば、富田は清水さんと長い間、交流があったみたいだよ」
「そうなんですか?」
「警視庁の警察官に『清水さんが私に危害を加えようとするはずがない』と言ってたそうだ。警護の必要はないってね」
「そうですか……やっぱり、富田さんは犯人じゃないみたいですね」
奈美は笑顔を作った。我ながら、ぎこちないと感じた。
「富田タケルが真犯人ではないとしても、健一君が言うように、知多市民病院の殺人事件と鶴舞のビジネスホテル爆発事件が何らかの繋がりがあるのかもしれない。お父さんの失踪も同じく関係があるとしか思えないんだ」
やはり警察もこの二つの事件と父の失踪を関連づけているようだ。
胸が苦しい。頭の中が黒く塗りつぶされていくようで、怖い。
「お父さん、私との約束忘れちゃったのかな……」
「約束?」
神崎刑事が心配そうに覗き込む。
「いえ、約束といってもちゃんとした約束じゃなんです。夏休みになったら水族館で会おうっていう小さな約束だし、静香さんを通じてのものだから仕方ないんですけど……もう、夏休みに入っちゃたんだけどな。私との約束なんかより、よっぽど大事なことでもあるのかなって思ったらなんか……」
「……そうだったんだね……ごめん、警察も頼りないね……」
神崎が本当に申し訳なさそうに頭を下げたので、奈美は少しびっくりした。大人の男性に謝罪してもらうほどのことではない。
「いえいえ、そんなつもりで言ったんじゃないんです。気にしないでください」
神崎と会うのはこれで二回目なのに、とても誠実で優しい人なんだと感じる。きっと、父の行方を懸命に探してくれていることだろうと思う。
「それで? 今日は静香さんに?」
「ああ……やっぱり、君に返した方がいいかな、これ」
神崎が大きめのカバンから差し出したのは、ビニール袋に包まれたノートパソコンだった。
「お父さんのパソコン? もう、いいんですか?」
「健一君が調べたそうだったし、鑑識の捜査も終わったから早めに返してあげようと思って持ってきた。夏川さんに渡そうと思ったけど、君に渡したほうがいいような気がする」
「分かりました。静香さんに言って、お父さんの家に戻しておきます」
「いやいや、夏川さんにではなく、君に渡すんだからね」
神崎は『君に』という言葉を強めに言った。奈美はそれが少し不思議だった。
「……はい」
「それから、お父さんとはいえプライバシーにかかわることだから、中身は絶対に見ないようにね」
今度は『絶対に』を強調する。
「……はい?」
「いいかい。中身は見ちゃだめだからね。絶対に見ちゃだめだからね」
「はい……わかりました」
「本当に分かった? 見たらだめなんだよ」
「そんなに何回も言わなくてもわかりましたから」
「だから……あ、ごめん」
神崎は内ポケットから、携帯電話を取り出した。どうやら、着信があったようで、少し離れて会話をはじめる。
奈美は頭に?を浮かべながら、神崎を見ていた。いくら自分が分別の分からなそうな子供に見えるからといっても、少し念を押しすぎなのではないだろうか思う。どのみちパソコンの中身を見るような悪趣味なことをするつもりはない。健一は見たがるかもしれないから、渡さないようにということだろうか?
「ごめん、もう行くよ。確かに君に返したからね」
神崎は少し慌てたように去っていった。その後ろ姿に向かって「ありがとうございます」と大きめの声を掛けると、振り向いて手を上げる彼が少し頼もしそうな大人に見えて、奈美は少し胸の鼓動が高鳴ったのだった。




